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2014年7月23日 (水)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(3)

3.論理学から超越論哲学へ─第三の「転回」

フッサールは決して単純に論理学主義に鞍替えしたわけではなかったのである。しかし論理学主義の主張ならびにその心理学主義批判の中には、彼自身も全面的に賛同する正しさがある。とりわけ第一巻で、彼はそれを明示したのである。だが、心理学主義が一から十まで誤っていたわけでもないのである。とりわけ、彼の当初からの疑問である<「数」のような理念的・普遍的なものが、いかにして「心」という経験的・個別的なものにおいて捉えられるのか>に答えるためには、論理学主義の主張の正しい点を認めてもなお、その論理学主義の主張の正しい点を認めてもなお、その論理的・理念的なものが「心」と取り結ぶ関係への問いが残っているのである。果たして論理的・理念的なものにとって、それが「心」という経済的・個別的なものと関わることは、単なる「偶然」にすぎないのか。それは、あってもなくてもよい二次的なことにすぎないのか。そうでないとすれば、そこにどのような関係が成り立っているのか。この疑問には、いまだ答えが与えられていない。この疑問に応じようとするフッサールの渾身の努力の産物が第二巻の諸研究なのである。しかし、彼自身の眼には『論理学研究』が、個々の論点ではそれなりの成果を上げ得たとしてもまだ<心理主義か論理主義かという二者択一>に引き裂かれたままであることがはっきりと見えていたのである。この問題に解明の光が投げかけられない限り、『論理学研究』の立場は破棄され、一から出直されなくてはならない。

出直しに当たってフッサールに決定的な影響を与えた人物に、新カント派の哲学者パウル・ナトルプがいる。ことは「心」とほぼ同義の「自我」の哲学的身分にかかわるものであった。すなわち、カントの額等を継ぐナトルプがそのカントの「超越論的統覚の自我」をあらゆる私たちの経験の最終的な制約である「純粋形式」として、いわば世界の論理的構造の要の位置において論じていたのに対して、フッサールは『論理学研究』で、「自我」とは経験的個人以外ではあり得ないという理由で、ナトルプの言うような「純粋自我」を、哲学者のでっち上げた虚構として斥けたのである。このナトルプからの反批判を通してのやりとりを経て、フッサールは「純粋自我」と言う発想を自らの立場の内に取り込む方向を模索するようになる。この模索が経験的次元でもなければ理念的ないしは論理的な次元でもない第三の途としての「超越論的次元」の発見へとフッサールを導いたのである。

つまり、ナトルプが属する新カント派はカントの批判哲学の遺産を現代に蘇らせようとした。カントがア・プリオリなものとみなした「純粋悟性概念」を、人間と言う生物種が生まれながらに所持している能力とする生理学的な解釈が最初行われた。それは、「心」を自然科学的な分析の対象として捉えた上で、そこからすべての理念的形成体を説明しようとするかぎりで、心理学主義と基本的な立場を一にする試みだったと言ってよい。しかし、その後、「カテゴリー」をそうした生物学的所与としてではなく、純粋に論理的なものとして捉え直すようになる。なぜなら、「カテゴリー」はあらゆる経験の可能性の条件をなすものである以上、生理学をはじめとする個別科学もまた、その「カテゴリー」を前提としてはじめて成り立つものだからである。「カテゴリー」の方が生理学を可能にしているのであって、その逆ではないのである。これはすなわち、「カテゴリー」は生理学的所与ではないということに他ならない。こうして新カント派は心理学主義と袂を分かち、むしろ論理学主義に近いスタンスをとることになる。ところが新カント派が袂を分かったのは、自然科学的傾向をもって哲学から独立しようとしていた心理学からであって、新カント派自身は、カント以来自らの拠って立つ基盤であった反省哲学を、新たに「心理学」の名の下に洗練させようと試みることになるのである。それは「意識」をあらゆる哲学的考察の出発点に置くに足るほどまでに純化する試みとなる。かくして新カント派は、一方で「カテゴリー」という純粋に論理的な形式、他方で「意識」という何らかの仕方で「心」との繋がりを予想させるものの双方を、自身の内に抱え込むことになる。ここに、理念的・普遍的なものと経験的・個別的なものとの関係を問おうとするフッサールとの接点が形成されるのである。言ってみれば、彼らの間には、「心」をいわゆる心理学主義とは別の仕方で哲学的に有効な、それどころか不可欠の契機として再確立しようとする点で、共同戦線を組む余地が生まれたのである。

ナトルプは、カントの「純粋統覚」(「私は考える」は、私のあらゆる表象にともないうるのでなければならない)に依拠しつつ、この「私は考える」を「純粋自我」としてあらゆる経験の可能性の最終的な根拠とした。したがって、「純粋悟性概念(カテゴリー)」のような論理的なものも、当然この根拠の内に最終的に包摂されるわけである。しかもこの「純粋自我」は、カント自身はっきり述べていたように、いかなる具体的・個別的な、すなわち特定の内実を伴った経験的な自我でもない、純粋な「形式」である。こうした純粋形式であるかぎりでの「純粋自我」こそが、あらゆる哲学的な考察の出発点にして最終的な基盤としての「純粋意識」なのである。そして『論理学研究』のフッサールに対しては、論理的なものも最終的にはそこに帰属することになるはずの、この「純粋意識」の次元への無理解を批判するのである。すなわち、『論理学研究』はいまだ論理的なものと心的なものとの間の関係を十分に解明するには至っておらず、両者は「分裂したままにとどまっている」というのである。

そして、フッサールにとって、この「分裂」を乗り越える可能性を秘めたものとしてフッサールが慎重に検討し始めたのが、ナトルプが呈示していた先の「純粋自我」という考え方だったのである。

しかし、フッサールの到達した「超越論的」次元はナトルプのいう「純粋自我」とは決して同じものではなかった。第一にナトルプには、一体いかにして私たちは(そのままでは経験的・個別的な「心」でしかない私たちは)「純粋自我」ないし「純粋意識」に到達しうるのかを明示する方法論的考察が欠けている。あるいし、カントにおいてそうであったように、それは論理的な要請の次元にとどまっている。この意味で、論理学主義を脱却しているとは言い難い。第二に、第一の点と密接に関わっているのだが、「純粋自我」と呼ばれるものの実態が結局のところはっきりしないのである。それは文字通り単なる「形式」なのか。そうであれば、それは純粋に論理的なものとなろう。「純粋自我」が問題となる以上、ナトルプにとって経験的なものではあり得ない。ナトルプは、この「純粋自我」のもとに単なる論理形式以上の「何ものか」を見ていた可能性は極めて大きい。そこには、その超越論的ならびに論理学主義的な残滓がこびりついており、他方でそれはある種の論理学主義的色彩も帯びてイネ、心理主義と論理主義のどっちつかずと言わざるを得ない。

これに対してフッサールの超越論的現象学の真骨頂は、論理学主義か心理学主義かという二者択一を破棄する原理的な可能性を呈示した点にある。

『イデーンⅠ』や『論理学研究』第二巻で「純粋自我」を承認したにもかかわらず、それがいったい何であるかについて立ち入った考察は展開していない。フッサールは、心理学主義と論理学主義の二者択一を破棄する第三の途として自ら切り拓いた超越論的現象学の拠って立つ次元が、はたして「純粋自我」と呼べるべきものであるかについて、なお疑念を払拭できないでいたのである。彼自身も未だ確信が持てなかった。しかし、その次元こそ、彼がその哲学的な苦悩を通して探り当てた新たな問題の発源地かもしれない。

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