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2014年7月17日 (木)

探幽3兄弟展(1)

Kano3pos2014年3月 板橋区立美術館

都心でのセミナーが早く終わったので、かねてから行ってみたいと思っていた板橋区立美術館に寄って見た。公立の美術館でその方向でコレクションがあって、意欲的な企画展を何度も行っているという評判をきいていたところ、ちょうど、この前、出光美術館で狩野探幽を中心とした江戸狩野派の展覧会を見て面白かったので、格好の機会と思ってのこと。高島平という場所は多摩地区からちょっと面倒臭いところだし、都心から寄るのにもちょっと距離がある。だから多少構えていくぞ、という決意、というほどのこともないが、そんなことが要る。立地は公園の中に在って環境としては悪くないのだろうけれど、都営三田線の終点というのが、都営三田線自体が縁遠いし、終点までは結構ある。そして、駅から首都高速の車の騒音を横目にしばらく歩かされる、とやっぱり行きにくかった。

狩野探幽をはじめとする3兄弟についてと、その3人を取り上げた展覧会の趣旨については、主催者あいさつで次のように述べられています。「狩野探幽(1602~1674)は狩野永徳の孫にあたり、徳川幕府の開府とともに狩野家の本拠地を江戸に移し、狩野派の画風を一変させて新しい様式を確立した江戸初期の巨匠として知られています。探幽については多くの先行研究や展覧会の開催により、その画業が明らかにされつつありますが、探幽には二人の弟がいて、3兄弟で徳川幕府の御用を勤めていたことは、現在あまり知られていないのではないでしょうか。探幽の五歳年下の弟は尚信(1607~1650)、十一歳年下の弟は安信(1613~1685)といいます。探幽・尚信・安信の家系が、後に奥絵師四家と呼ばれる体制に結実するため、江戸時代の狩野家の始点となる3兄弟の存在は非常に重要であると言えます。しかしながら、尚信・安信」の画業は探幽の陰に隠れ、これまでほとんど紹介されていません。本展では、探幽・尚信・安信の作品を一堂に展示することで3兄弟の画業を明らかにし、江戸狩野派の成立期にそれぞれが果たした役割を具体的に検証します。」これは、主催者あいさつの一部ですが、昨年の出光美術館の『江戸の狩野派展』の従来粉本主義と批判されてきた狩野派を江戸狩野派の端緒に遡り模倣と創作の意味を見直すという焦点を絞ったものだったのに対して、こちらは江戸狩野派の実質的な創始者である3兄弟のうち、とくに長兄の探幽の陰に隠れがちな他の2人を紹介しようというものと言えます。ただ、惜しむらくは、作品の保存状態によって見にくくなっているものもあって、私には折角の展示を十分味わうことができなかったということと、彼らの奥絵師としての表向きの作品として襖絵などは城郭や寺院と一体不可分であるため取り外して美術館に展示するというのが難しいのでしょうから代表作と言われるものを集めにくいというもあるのではないかと思います。そしてまた、この美術館の建物は意匠を凝らした設計ということなのでしょうが、作品を展示するということには非常に使いにくそうで、展示に苦労しているのが見て判るほどで、それほど多くの作品を展示できないということもあると思います。まあ、前期と後期で展示替えをすることになっているそうですが、私のような一度訪れるだけでも、多少の決意を要する人間では、前後期ともに訪れることは望むべくもなく、それらを考えると残念な展覧会ではあったと思います。

展覧会のチラシを見ていただけると面白いと思いますが、3人の画家の描いた虎を並べて、それぞれの違いと特徴を比較することによって見分けられる試みをしています。真ん中の大きくスペースをとったのが長兄の探幽の描いた虎で、右下が次兄の尚信の描いたもの、これは探幽に比べるとユーモラスに見えるほどに大胆にデフォルメが施されています。そして左上の虎が末弟の安信の描いたもので、一番省略やデフォルメが抑えられて細部が詳細に描き込まれているように見えます。そのような印象をベースに具体的に作品を見ていきたいと思います。展示は章立てされていたと思いますが、狭いスペースに限られた作品を工夫して展示しているのを、とくに章立てを意識して分けて見ることはしなかったので、兄弟それぞれに分けて感想を述べていきたいと思います。

Kano3keizu展覧会の展示とは直接関係あるものではありませんが、私はこういう絵画作品に疎いため、少しくお勉強してみました。もとより、直接作品に触れるということが大切であって、下手な予備知識は偏った予断を招いてしまうという考え方もあるでしょうが、虚心坦懐に作品に向き合うということそのものの底流にあるイデオロギー性を私は感じていて、それに対して不信感を抱いています。そのことに関してはこちらで考えを述べているので、興味のある方はそちらを参照してください。

で、簡単に狩野探幽らの3兄弟の属した狩野派という集団の絵画というの、どのようなものかをまとめてみたいと思います。右図の狩野派の系図を見ると、始祖とされている狩野正信は生没年からすると東山文化の時代に活躍したことが分かります。日本史の復習ではありませんが、東山文化の代表とされるものの一つが京都東山の地にある銀閣で、絢爛豪華な北山文化の金閣に対していぶし銀のような渋さというのか、“わびさび”のような幽玄な文化という特徴があったと言われています。絵画においても貴族文化をベースにしたやまと絵の装飾的かつ濃彩の屏風ではなく、禅宗を影響のつよい峻厳な山水の水墨画が、そのような気風に適合したものだったと言えます。しかし、水墨画の本場である中国で制作されたものは、掛軸のような体裁であったので、これを日本の事情にあわせて屏風や障壁画に翻案したいというニーズが潜在していたといいます。そこで、そのニーズを掘り起し、応えたのが狩野正信で、その手法を大成したのが次代の元信ということです。

Kano3sessyu彼らは、単に中国の水墨画を屏風や障壁画に置き換えることだけにとどまらず、武家の心情を取り込んだ方法を編み出していきました。その方法とは端的に言えば、雪舟を代表とする水墨画の花鳥図(左上図)と土佐派を代表とする室町期末のやまと絵(左中図)を合体融合させたものでした。その代表例が、狩野元信の「四季花鳥図屏風」(右下図)と言えます。雪舟は独特の力強い筆致による線で花鳥を描き、そこに微かに彩色したものは、禅画の堅苦しさが残り、新たな時代を切り開いていく武家には保守的なものに映ったといいます。他方、土佐派の伝統的なやまと絵を装飾化し金地を背景とした屏風は、新しい花鳥図の息吹を宿していましたが、貴族的で武家の趣味には必ずしもそぐわないものと言えます。そこで、狩野正信と元信は、雪舟の骨筆用法の花鳥図を描いた上に、鮮やかな彩色を施した装飾画を創り出したといいます。これは、当時の狩野正信や元信は新興の、囚われるほどの伝統を持たなかったがために、大胆な試みが可能になったと言えると思います。狩野元信は、これを金碧花鳥画として発展させ、豪奢で祝祭性に溢れた屏風を制作し貴顕や豪商の好みに適うものとなっていったといいます。

Kano3tosahaそして、この方法を一層大胆に、極限まで推し進めたのが狩野永徳だったということができます。彼が描く奇々怪々とも言える独創性の高い大作は、乱世から天下統一に向かう新たな時代の力強い息吹にマッチしたもので、狩野派のライバルである長谷川等伯と言った人も、狩野派の絵画を前提に、それを批判しながら自身の画風を確立していくといったような時代のスタンダードの地位にあったといえると思います。

Kano3moto_2しかし、時代は徳川幕府の成立から安定期に移っていくことになります。時代の変化の中で、狩野永徳の豪放な作風は取り残され、急速にすたれていくことになります。その中で、狩野派の次の世代の人々は、漢画の筆法と大和絵の濃彩との融合になるものとは言え、ともすれば漢画の筆法が勝ちすぎるきらいのある永徳の作風を、筆勢を控え奥行きのある画面構成に誘導しようすることで、新たな時代への適応を図っていったと言います。これは、当時の彼らにとっては大幅な路線変更を迫られるもので、苦しい試行錯誤を繰り返したといいます。そして永徳の長男で探幽3兄弟の伯父である光信の高弟狩野興以が、障屏画において幾何学的構図(下図)を考案します。これは、永徳の様な名人芸的筆勢により、をはみ出さんばかりに伸長する樹木のエネルギーを絵画表現する時代から、むしろ分をわきまえた中に洗練と調和の妙を発揮すべき理知の時代が来るとの考えのもとに生み出されたものです。

このような中から、狩野探幽が登場してくるわけです。

Kano3koui

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