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2014年7月22日 (火)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(2)

2.心理学から論理学へ─第二の「転回」

『算術の哲学』公表の1891年、ゴットロープ・フレーゲから心理学主義に対して根本的な疑義を指摘される。この心理学主義が基礎とするのは、「心」ないしその「作用」というそれ自体は経験的で個別的なものである。私たち一人ひとりが「心」なるものを持ち、その「心」の「作用・はたらき」を通して「数」をはじめとする理念的・普遍的な対象が捉えられるとするものである。だが、もしそうだとすれば、そのような「心」によって捉えられた対象は、結局のところ、それを捉える働きである「心」が持つ経験的・個別的な性格によって最後まで規定され続けることになってしまわないか。どんな理念的・普遍的対象も、つまるところ私たちの「心」においてそのようなものとして捉えられたものにすぎないのであれば、それはどこまでも私たちの「心」という経験的で偶然的なものに依存したものではないか。そうだとすると、「1+1=2」は、私たちの「心」によってそのように捉えられるかぎりでのこととなる。ということは、私が誕生する以前は「1+1=2」ではなかったことになる。そこには数学的真理を捉える「心」がなかったからである。だが、これでは真理の名に反するのではないだろうか。「数」が普遍的なものであるとは、それがいつ・どこで・誰によって捉えられようと、そしてたまたま誰もそれを捉えることがなかろうと、そうした経験的で個別的かつ偶然的な事態とは独立に成り立つということ以外ではないのではないか。そしてそのことは、「数」のような理念的・普遍的なものは、それを捉える「心」のはたらきとは独立であることをこそ示しているのではないか。心理学主義は、もともと「心」という経験的・個別的なものとは別の次元に属する理念的・普遍的なものを、よりにもよって経験的なものによって基礎づけるという次元の混同を「他のジャンルへの不当な移行」を、もともと別のカテゴリーに属するものを一緒くたにしてしまうというカテゴリー・ミステイクを犯している。その限りでの心理学主義は、理念的・普遍的なものを「心」によって基礎づけるという当初の目的に失敗せざるを得ないのではないか。フレーゲの批判はおよそ、このようなものである。

この批判は、一方で、心理学主義が「心」という経験的・個別的・偶然的であらざるを得ないものによって「数」をはじめとする理念的・普遍的・必然的なものを基礎づけようとする「カテゴリー・ミステイク」を犯してしまっているという点を突いている限りでは、納得できることだ。しかし他方で、理念的・普遍的・必然的なものがその本質においては「心」という経験的・個別的・偶然的なものとは独立に成り立つことをあらかじめ認めてしまっている点で、おかしい。「数」の独立性のこの承認自体が、何らかの仕方ですでに「心」と関わってしまっている/関わらざるをえないことの意味を、この批判は十分には考え抜いていないからである。ここで問題になっているのは「志向性」という考え方についてのものと同じ事態といえる。つまり、フッサールにとって心理主義は、「心」という経験的・個別的なものと「数」という理念的・普遍的なものとの間にどのような関係が成り立っているのかを、そのどちらの側面をも切り捨てることなく問おうとしていると見えた点で「正しい」方向で問題を立てているのだが、先のフレーゲらの批判が示しているように、結局のところ「カテゴリー・ミステイク」を犯すという仕方で理念的・普遍的なものを「心」という経験的・個別的なものへ回収してしまわざるを得ない点で失敗しているのである。この回収はつまるところ、「心」という経験的・個別的・偶然的なものにおいていったいいかにして理念的なものの理念性が確立されるかが解明できていないことを帰結せざるをえないのである。これはブレンターノの「対象の志向的内在」としての「志向性」が、そのままでは結局のところ対象が心に内在するということに帰着せざるを得ないのと同様なのである。問題は「志向的」という仕方で差し当たり表現された時代の内実を徹底して明らかにすることに懸かっているのであり、そのことを通じて<対象の心への内在>という図式が破棄されるところまで進まない限り、この発想もまた心理主義と同じ轍を踏まざるを得ないのである。

フレーゲによって自らの心理義的な立場がある決定的な点で維持できないことを批判されたフッサールは、まずはこの批判に正面から向き合う。それは心理主義がそのまま原理的に維持できないことを認めることである以上、自分自身の立場の根本的な変革とならざるを得ない。フッサールは一方で心理学主義にも一半の真理と、他方で論理学主義にも何か不十分なものを感じているのだから、この変革は、新たに自身が依拠しうる地盤を発見するまでは、そもそも依拠すべきものすらない宙ぶらりんの状態にみずからを置かざるをえない苦しい途となる。

1900年、フッサールは『論理学研究』第一巻『純粋論理学への序説』で、かつての自分自身の立場である心理学主義を完膚なきまでに批判し、理念的・普遍的なものの心的なものからの独立性を前面に押し出した。ところが、1901年に第2巻『現象学と認識論のための諸研究』では、そもそも『論理学研究』全二巻を通じて追究したのは「論理学や数学のあらゆる理念的対象が何らかのかたちで不可分に結びつけられている心的経験についての記述的な研究だった」というのである。これではまるで、先立つ第一巻があれほど厳しく批判し・斥けたはずの心理学主義への逆戻りではないか。実際の第二巻には論理学主義的色合いの強いものと、心理学主義に逆行したと思わせるものが混在しており、ひとつの著作の中でアンビヴァレントな緊張関係をなし、読者を戸惑わせるものだった。

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