岡本隆司「近代中国史」(11)
5.伝統経済の特徴
1644年、清朝が北京に入って以後の中国支配は、前代明朝の制度・慣行を尊重して、在地在来の秩序になるべく手を触れないことを原則とした。目につきやすいところでは、皇帝独裁・官僚制・科挙の踏襲、全面的な漢人の登用などをあげることができる。無用の混乱を招かず、迅速円滑に支配を安定させようとした企図であろう。財政もやはりその例にもれない。従って、明代の在世の特徴も温存される。現物で徴収する物資は、穀物なら食糧・飼料、木材なら建築のように、品目も用途もはじめから決まって、変えようがない。とりたてる地も、費やす地も、自ずと決まる。たとえそれが銀納になっても、代替換算したにすぎないとすれば、現物本来の決まった納税先・支出先は変わるはずはないし、税の項目や換算率も品目によって異なったままであった。そのため、税目が異なると、同じ銀で納税しても、一括はされなかった。一括を曲がりなりにも実行した一条鞭法は一時的なものでしかなかった。また、現物主義では税収の分配や配送も、現代の財政とは違う。現物で得た税収の物資はかさばるし、種々雑多なので、それらを逐一、首都や省都の財政部局へ集中させるのは困難だし、また無意味でもあった。しかじかの物資を徴収した地点から、需要消費する機関へ、直接に配送した方が能率的である。銀納に転換しても、この方式は変わらなかった。
そこでは、中央と地方の区別やそれぞれの役割も、現在とは異なってくる。発送する箇所と、配送を受ける箇所との選択・調整・指示は、中国全土をみわたす中央の財務官庁が行うしかない。中央の役割とは、各地の税収を適切に動かす指示を出すことにある。全国から上がる税収を一括し、国庫金として自ら保有管理支出することではなかった。だから「国庫」のない、現代から見ると特異な財政体系が出来上がっている。「コモン・パース」という西洋の、多様な税収を国庫という“一つのどんぶりの中に入れて、その中から各種の費目の支出をする”というしくみが、中国には概念すらなかった。だから国税と地方税、国家財政と地方財政という観念も区分も、存在する余地がない。統一的で精確な歳入・歳出の算定も、不可能となる。
もし仮に、そうした夥しい収支の項目や額を、各地の事情に応じて毎年、変更改訂したとするなら、中央官庁が当時の乏しい情報の収集・管理能力で、その決定・統制を実行するのは極めて難しい。収支・配送の額をあらかじめ一定にしておけば、その統制は遥かに容易になる。こうして定着した制度運用を「原額主義」と呼ぶ。実地の財務行政では、この一定額をこえて経費が必要なこともありうる。しかし額が決まっていて動かさなければ、必要に応じるには、その埒外に財源を確保しなければならない。そこから、徭役の追加徴発や附加税の課税が繰り返し生じた。このような財政の運用は、必要経費を予め計上した上で課税追徴を行う現代の予算制度と対極をなすものと言える。そうした財政需要の満たし方になるため、会計上の「赤字」は存在しない。そこに、官僚の汚職が発生・増殖する温床があった。取り立てる側に必要な額を、一方的に決めていたからである。例えば、清代の土地税収は、全土で銀3500万両足らずと決まっており、それが省ごとに、さらに末端の県ごとにいくら、と決まっていた。実地にその県を治め、庶民から税をとりたてる県知事は、その割当額を揃えて、収めさえすればよい。要するに一種の請負であった。割合の額以上を取り立て、差額を着服してかまわない、ということである。現実にどれほど、どのような徴収をしようが、咎められることは殆どなかった。だから表にあらわれる数字が3500万両であっても、実際に取り立てられ、動いていた金額は杳として知れない。以上の財政体系は、明清時代を通じて踏襲された。
そうした清朝の態度は、経済そのものにも貫徹している。旧来の慣行に手を触れない原則に基づいて、商業化と銀の流通・浸透を容認したからである。中国を治めるにあたって、財政の原理と体系は引き継いだが民間が明朝の禁令に背いて行ってきた銀の貨幣的な使用を容認した。政府財政を含め、地域と地域の間をつなぐ外部流通で銀を用いることが、清代では公認され、普遍化した。その銀とは地銀であって、銅銭のように枚数では数えない。いわゆる秤量貨幣であり、「両」等の重量が、その計算単位となっていた。
銀ばかりではない、銅銭も従来の使用法を認めた。清朝は明とは違って政府が一定の形式の銅銭を夥しく鋳造した。けれどもそれは、明代に民間が使っていた私鋳造銭を代替したものにすぎず、機能にかわるところはない。政府当局は鋳造して発行したら、それで終わり、その価値や使用を全くコントロールしなかった。だから規格が同一の銅銭であっても、私鋳銭の時代と同じように地域が異なれば価値が違う。政府が決めた額面が問題ではなかった。それなら価値の信認を共有する地域で、政府発行の銅銭を使うのも、また別の形態の貨幣を使っても、別にかまわないことになる。実際、頻繁に使われたものに政府発行の銅銭に代わる「銭票」があった。市鎮の穀物店・酒屋・雑貨屋などの普通の商人たちが独自に発行した、一種の有価証券、あるいは紙幣である。この場合、注目すべきは、どんな商人でも「銭票」等を発行できたことで、そこに行政的、権力的な規制はほとんどなかった。専門の金融業者もいない。というよりも、当局がまったく関係せず、規制が存在しないために、金融業務の排他的な専門化が起こり得なかったのである。明清時代の中国で銀行業が発達しなかったのも、こうした権力の規制と金融のありように由来する。
そのため貨幣の発行も、いわば自由競争なのである。そうした情況で、貨幣価値そのものの決定と金融の安定が、自律的に組織されていた。もとよりその自律性は、直接の取引関係・信用関係を取り結んでいる一定の範囲の外に出ることはない。このローカルな貨幣を「現地通貨」と呼ぶ。「現地通貨」はそのローカルな範囲の地域内でしか通用しない。だから現地通貨の異なる地域同士が交易した場合、外貨的な機能が必要であり、それを秤量貨幣の銀が果たしていた。そこでの銀は「地域間決済通貨」である。地域と地域の間といった場合、それは国内の商業のみならず、対外貿易にもあてはまる。というよりも、われわれが普通に想起するような国内・国外の区別、国境が存在しないのが、伝統経済の特徴であった。それは明朝の華夷・内外を隔離する政策を民間が克服することで、成立したものだったからである。だから、当時の海関といっても、今日の国境を区切る税関ではない。明清時代の関とは商業税を取り立てるところでしかなかった。つまり、海関とは、国内外の境界を区切ることを企図したものではなく、内外の交通・流通を沿海にまで拡大延長させたことを示す官庁に過ぎない。そうした機関の設置も、地域と通貨の編成に基づいていた。
かくて清朝の治下で完成した中国の伝統経済は、権力と民間の経済的な乖離に見合うシステムだったといえようし、両者が一体化しない二元構造は、ここで決定的となったともいえる。貨幣の事例でも分かるように、政府権力はなるべく、民間社会の経済活動に介入しなかった。行政・政治が商法・私法の領域に対する干渉・統制をさしひかえた、ということになろうか。取引というものは、自分のモノを相手に売ることで成立する。したがって、そのモノは間違いなく自分の所有でなくてはならない。そうなるためには、外部の強奪などから守らなくてはならないし、相手と取り交わした売買の約束も、合意通りに果たされなくてはならない。ここに財産と契約の保護が必要になる。西洋のスタンダードな歴史過程では、財産・契約の保護は、最終的に法律が担保し、権力が執行した。しかしそれが、世界のあらゆる時期・場合にあてはまるわけではない。
権力が経済の領域に介入せず、財産・契約を保護する法律的諸制度が存在し得ないとすれば、取引の現場においては、民間のレベルで私法の制定・行使、経済活動に対する保護や統制という役割を果たす存在がなくてはならない。それが血縁・地縁、あるいは業種ごとにまとった中間団体、すなわち宗族や同郷同業団体である。そこには宗法や章程など、団体の構成員を律する成分の規約があったし、また慣習という不文律もあった。それが我々の言う民法・商法に代替していた。つまり、いわゆる地域の中核を構成し、範囲を画定していたのは、中間団体だった、ということになる。だから、人々にとって帰属する宗族や同郷同業団体こそ、服従すべき権力に等しかった。その外部にある法律家や官僚制や王朝政府ではなかったところが重要である。政権が定め、官僚が行使する法律よりも、中間団体の規約や慣習の方が、その構成員にとって、はるかに身近で尊重、遵守すべき対象だった。自身の財産や契約、経済活動を保護してくれるのは、後者であって、決して前者ではなかった。だとすれば、政権・当局は自らの定める政策・法令を、中間団体が有する規約・慣習に一致させたら、支配が円滑に進むし、さもなくば、統治が難しくなる。さらに言えば、両者が一致しないというだけで、容易に中間団体が反権力的な秘密結社に転化しかねない。現代の中国で地下経済が存在し、それが往々にして、権力との衝突を引き起こすのも、メカニズムは同じなのかもしれない。
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