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2014年7月30日 (水)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(7)

4.超越論的現象学は独我論か─「超越論的なもの」をめぐって

「超越論的」という概念について触れておく。近代哲学ではカントの批判哲学に固有の態度・スタンスを表現する概念として表れてきている。批判哲学とは、哲学の本体をなす形而上学に先行して、私たちの理性には何ができて何ができないのか、すなわちその権能を吟味検討する学の事である。それは何らかの対象についての認識を追求するものではなく、そもそも対象についての認識しいかにして可能になるのかを解明するもの、つまりは<認識の仕方>についての学なのである。この学は、経験の可能性の条件の解明である以上、経験に先立つ(ア・プリオリな)学となる。これをカントは、経験を「超越」したものに関わるわけではないが、別の意味で経験に「先行」する学と捉え、それに「超越論的」の名を与えたのである。フッサールはカントのこうした用法を踏まえた上でこれに現象学固有の意味を重ね合わせる。現象学固有の意味とは、あらゆる「超越者」が、そこにおいてほかならぬ「超越者」として構成される最終的な基盤という意味であり、だからこそそれは「超越論的」と呼ばれて然るべきなのである。ここで「超越者」とは、対象が主観的な与えられ方を超えて、それ自体で存在するそのあり方に着目して、いわゆる「客観」を指し示すものとして使われる。つまり、「超越論的」とは、そこにおいて超越者が超越者として構成される次元の名前なのである。すなわちフッサールにおいては、還元を経て獲得された「純粋な現象」の次元こそ「超越論的なもの」の次元なのである。現象学がこの次元を自らの立脚点としている以上、現象学は必然的に超越論的現象学なのである。

還元によって開示された領野に「絶対性(絶対的主観性)」が付与されるのは、それがもはやそれ以上に遡ることの出来ない最終的な基盤、そこからすべてが汲み取られる究極の「源泉」だからである。超越論的領野こそが、この意味で「絶対者」なのである。「絶対者」における「現象」の「純粋体験」、ここからすべてが始まるのだが、この地点とは、言葉の厳密な意味での<いま・ここで・現に>以外ではありえまい。現象が端的な直接性において与えられているのは、そこでしかありえないからである。それは、特定の時間、特定の場所、特定の人物ではない。

厳密な意味での<いま・ここで・現に>がたまたまそうした特定の時間・場所・人物と重なることはあっても、それはあくまで「たまたま」そうなのであって、その特定の時間・場所・人物が<いま・ここで・現に>であるわけではないのである。それを特定の時間・場所・人物で規定することは出来ず、逆にそれの方が特定の時間や場所や人物を規定しているのである。一面から見れば、こんなにもあやふやで、たちどころにそうでなくなるもののが、他面から見れば、すべてがそこから始まる「絶対的なもの」だというのである。それこそが、すべてを規定しているものだからである。それは、あらゆるものに時間的・空間的・人物的…規定を与えるものとして、それ自身はまったく無規定的なものなのだが、それがそのようなものとして姿を現わす(現象する)のは、いつもこうしたたまたまの規定の下でのみであるとしても、それだけがすべての最終的な基盤なのである。この「たまたま性」を括弧に入れて宙づりにし、私たちの視線を、<「たまたま」そのように規定されているもの>から<そのような規定を与えている当のもの>の方へ送り返す操作、それが超越論的─現象学的還元であると言ってもよい。ところが、現象学が注目しようとしているそれは、それ自身は無規定的なものであるために、何々として指し示すことができない。「として」とは、規定によってのみ可能な事態だからである。いくら厳密に<いま・ここで・現に>と言ったところで、それを特定のものに規定せざるを得ないのである。現象学的還元は、この規定の力を宙に浮かせることで、規定されたものから別のものへと私たちの視線の先にいったい何が見えているのであろうか。

フッサール自身、自らの超越論的現象学が一見独断論的に見えること、だがそれは通常の意味でのそれではなく超越論的な意味での独我論であることを認めている。ここで「それしか存在しない」と主張されてのが、すべてに規定を与えている<絶対者における現象の純粋体験><いま・ここで・現に>である。ところが、彼はそれをはっきり自我と名指している。だからこそ、それは超越論的独我論なのである。しかし、ここで「それはしか存在しない」と言われるものに与えられた自我という規定は、いったい何を意味しているのだろうか。いま問題になっている事柄の性質からして、それは何も規定していないのである。何かを規定しているとすれば、それはたちまち「自然的見方に根差す普通のバカげた意味での独我論」でしかなくなってしまうのである。

しかし、彼がいう超越論的な意味での独我論とは、必ずしも「我」という規定が相応しい事態の事ではなかった。それはあらゆる既定のもとに居合わせて、何やらのものの端的な現象を可能にしている<いま・ここで・現に>のことであった。そのような<いま・ここで・現に>のみが、すべての最終的な基盤なのであった。語源的にも、「独我論」と訳される言葉は、正確には<それのみ>ということを言っているのである。ここで現象学が自らの基盤にして出発点と見定めた地点は、この言葉の本来の意味でのそれだ。すなわち<いま・ここで・現に>という「現象」の直接性のみが存在するということ、簡略化していえば<いま・ここで・現に>の独在論なのである。

現象学が依拠する「純粋な現象すること」の次元は、もはや客観的なものではないがゆえに、通常は客観性に依拠している「学」の理念と抵触するものをその中核に含んでいる。それは端的には、現象学は独我論に見える、というかたちで現れる。現象学が依拠する「現象」の「純粋な体験」の<いま・ここで・現に>は、ひとたびそれが語られたときには、それによって規定されたものとしてしか現象しないからである。<ある人物が、たまたま自分がいま・そこで立ち会った現象の出現を、すべての最終的な基盤と主張している>としか聞こえないのである。そうとしか聞こえないにもかかわらず、それは現象学が依拠している<いま・ここで・現に>ではない。あるかなきかの区別こそが、現象学が言う意味での超越論性のすべてをなしている。この区別を何らかの仕方で維持することにこそ超越論的現象学のすべてが繋がっている、と言っても過言ではないのである。いま、「何らかの仕方で」と言ったが、それが「どのような仕方で」なのかが決定的な事柄である。超越論的現象学のその後は、一に懸かってこの「どのような仕方で」なのかをめぐる問題なのである。今やこう言ってもよいであろう。「現象すること」そのことは「学」の基盤であるが、「学」そのものではない。この意味で現象学は、「学」と「学」以前のそれを支えるものとの狭間に身を持している「思考」である。したがって、この「思考」を語る言葉はつねに両義的である。それが「主観的─客観的」という概念対のなかで理解されるか、それともそのいずれにも先立つ次元において理解されるかで、見えてくる世界はまったく異なるからである。

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