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2014年7月29日 (火)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(6)

3.「私には~と思われる」─「真理」とは何か

現象学的─超越論的還元の全体像を明らかにしたい。私たちが自然な日常の生活の中で行っている超越定立(客観を超越者として、すなわち私たちとは独立にそれ自体で存在するものとして定立する=妥当させる)のすべてを「停止し」、「スウィッチを切り」、「括弧に入れる」ことによって、「純粋意識」が「残る」(「現象学的残余」)のである。かくして還元とは、自然的な意識(通常私たちはそれを「心」と呼んでいるはずである)から「純粋意識」へ向けての還元であり、その内実をなしているのは、当の自然的意識が行っている超越定立(存在妥当と真理妥当)の停止(ないしは中立化)という操作なのである。これをより厳密に言い表すならば、超越論的還元とは、すべてをそが現われるがままのもっとも原初的な姿と(現われを超えたものとの一切の係わりを宙吊りにしたまま)送り返すことであり、その定式は「私には~と思わる」に他ならない。この定式は、かのデカルトが『省察』の中で最終的に到達したものであり(「私には見えると思われ、聞こえると思われ、暖かいと思われるということ、少なくともそのことだけは確かである」)、ついでカントが私たちの経験の最終的な形式にして条件として呈示した「超越論的統覚」(「<私は考える>は私のあらゆる表象にともないうるのでなければならない」)とその中核部分(私は考える=私奈は~と思われる)を共有するものである。だが、この簡潔で単純な定式のそれぞれの哲学者における表現がいかなる事態を指し示しているのかは、それぞれ哲学の根本に関わる大問題なのであり、いまもって議論の絶えないことがらであることを忘れてはならない哲学の真骨頂は「問い=問題」の提起に尽きると述べたゆえんである。事情はフッサールにおいても同じである。彼の場合、この「私には~と思われる」こそ「純粋意識」と呼ばれたものであり、それは何ものかが「現象すること」そのことにほかならない。現象学とは、この意味での「現象」へとすべてを送り返し(還元し)、その地点をもはやこれ以上遡り得ない最終的な基盤と見定めて、すべてをそこから考察しなおそうとする思考のことなのである。

しかし、この単純な「私が~と思われる」は、各人一人一人の「心(意識)」が捉えたということではない。それは中立性変様

を受け、「私」は、世界の中に存在する一人物と言う通常の存在定立が停止されており、「~と思われる」という世界内の何らかの人物が行う想定や思考という様相定立が停止されているのである。つまり、「純粋現象」とは、正確には、そこで現象している「何か」が「私」と呼ばれる「誰か」に対して、「私には~と思われる」という仕方で「現象していること」そのこと全体を、それ以外にはもはやどこにも求められることの出来ない私たちの最終的な基盤として指し示しているのである。言い換えれば、この「私には~と思われる」の中に現われる「私」や「~と思われる」がその意味を保持したまま、当の意味が指し示しているはずのものの定立が一切停止されている。「私」という言葉が指し示しているはずの「誰か」や、「~と思われる」が指示しているはずの特定の思考作用(誰かの頭ないし心の中での作用)との結びつきを保留したまま、それらの言葉は純粋に意味としてのみ機能しているのである。したがって、超越論的還元とはすべてをその意味へと送り返す操作だ、と言ってもよいのである。意味とは、フッサールにとって「純粋現象」の別の名なのである。

いまや取り出された純粋な意味(「純粋現象」)は世界の内に存在する誰かの「心」の中に生じたものではない。話は逆なのであって、「誰か」や「心」がその指示対象と結びつき、存在妥当と真理妥当を発効させることがあるとすれば、それはこの純粋な「意味」から出発してのみなのである。かりにそうした指示対象が「在る」とすれば、それはこの純粋な「意味」から出発してのみなのである。かりにそうした指示対象が「在る」とすれば、それはこの純粋現象を通して指示されるほかないからである。言うまでもないことだが、「在る」もまた一個の「意味」以外の何ものでもないのである。「私には~と思われる」は、それが世界内の特定の人物としての「誰か」や、その人がもつとされる「心」や、場合によってはその人物のもつ大脳の特定の部位の神経興奮を指示し得るためにも、原理上そうした指示とは独立なのである。これが、<「私には~と思われる」は私の意識のことではない>ということなのである。すなわちそれは、心理学主義の主張ではないのである。だが、だからといってそれは論理学主義ではない。論理学主義とは、たとえば「一足す一は二」といった理念的事態が、それが現象することとは独立に成立するという立場であった。「一足す一は二」は人類誕生以前から「真」であったし、太陽系の消失以後も真として「存在」し続けるはずである。したがってそれは「現象すること」とは基本的に無関係なのだ。そう考えるのが論理学主義である。しかし超越論的現象学は、そうは考えない。どんな理念も論理も普遍的なものも、それらがそのようなものとして存立するためには、必ずやそれらは「現象」しなければならないのである。論理学主義がそのようなものの存立を主張するとき、現にそれらはすでにそのようなものとして「現象」してしまっているのである。かくして、心理学主義と論理学主義のどちらの主張に対しても、「現象すること」の方が先行していることが明らかになったのである。

およそいかなる真理であれそれが真理であることが成り立つにあたって、すでにそれに先行してしまっているのが「現象すること」の次元であった。何かが現象してはじめて、それが真であったり偽であったりすることができる道理だからである。この「現象すること」の次元のもつ「普遍性」は、もはや(伝統的真理観の言うように)「知性と物自体との一致」でもなければ、デカルトが考えたような「絶対に疑いえないもの」でもない。「私には~思われる」は、なるほど「~と思われ」た当のものの存在=真理定立からは独立であるから、ひとたびそのように思われたのであればその「疑いなさ」は当の「思われ」の内部では絶対的である。しかし、この「思われ」自体にはそれ以上の根拠はないのであるから、デカルトにならっていえば、この「思われ」を可能にしている「思うこと」の文法そのものを破壊してしまう「悪しき霊」を想定することはあくまで可能なのである。「私には一足す一は二に思われる」とき、「一足す一は二」が誤っている可能性が問題なのではなく、そのように「思われる」こと自体が、実は「思われ」とは似ても似つかない全くの別物である可能性がなお想定できるのである。このときそこにいったい何が出現しているかは、もはやいかなる「確実性」をもっても語ることはできない。私自身は何か特定の「思われ」の中にしか居ないのだし、そもそもこの「思われ」の文法が破壊されていることの想定自体もまた、「<そのような想定が可能である>と思われる」こと以外ではありえないのだから、「思われること」の確実性が破壊されれば、もはや何ものも確実性を持って存立することは出来ないのである。「存立することはできない」というこの主張すら、そうなのである。かくして現象学が依拠する「単なる思想」としての「思われ」(純粋現象)は、もはやそれ以上に遡ることの出来ない最終的な地盤であるがままで、まったくの不確実性と両立していることになる。別の言い方をすれば、それはまったくの不確実なものでありながら、そこから以外には世界は始まりようがないという意味で「普遍的」なのである。このとき「真理」は、存在定立とも真理定立とも別の次元に、すなわち「単なる現象」の次元に基盤を持つことになる。このとき「真理」の意味が変わったのである。私たちの日常の自然な理性にとっては「真理」とは、実地の経験を通じて「学ぶ」ものであろうし、デカルト的懐疑の精神にとっては思考力の限りを尽くしてなお疑う余地のまったくないもののことであったとすれば、現象学における「真理」とは、それが「現象する」ことをもってすでに「真」なのであるから、現象するかぎりですべては「真」なのである。それはもはや経験に照らして「学ぶ」必要も、思考の限りを尽くして「疑う」必要もない。何らかの「現象」に居合わせるだけでよいのである。「現象すること」としての「真理」─これこそが、私たちの世界の最終的な基盤なのである。

現象学は、世界のもはやそれ以上背後に遡ることの出来ない最終的基盤へと超越論的還元によって移行し、その地点をみずからの立脚点とした上で、現象がそのようなものとして現象することはいかにして可能かを問うことを自らの課題とする。これが「構成分析」と呼ばれる課題であり、現象学という哲学の体系はここに見定められる。ところがこの構成分析には、二つの層があることに気づかされる。ひとつは、「純粋な現象」がどのようにして特定の定立(存在定立や真理定立)と結びついて、私たちが通常無条件で受け容れているような「対象=客観」として通用するようになるのかを分析する、という意味での構成分析である。これは、「私には~と思われる」の「~の部分」の部分の真理=存在定立の途筋を再構成する分析である。「一足す一は二」が「真」とされるのはいかなる途筋によってなのかを明らかにするわけである。これに対して、構成分析にはもうひとつの層がある。それは、現象が現象として成り立つことそのことの分析としても言うべき層である。上に述べた構成分析のように存在定立や真理定立がいかにして機能するようになるかを問うのではなく、そうした定立に先立って「純粋な現象」そのものの成立がいかにして可能となったのかを問うのである。

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