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2014年7月 9日 (水)

岡本隆司「近代中国史」(16)

2.胎動─1890年代まで

中国の貿易は1880年代に入るまで拡大したけれども、それはむしろ量的な増加であった。ところが1880年代から20世紀に入るころには、量的な増大のみならず、質的な変容も顕著になってきた。量的な拡大の内訳として、生糸や茶の輸出は頭打ちとなり、他の多様な産品の輸出が伸び始める。大豆、羊毛、皮革、綿花、鶏卵など北方を主産地とする物産だった。従来の輸出品の大宗は、茶にせよ生糸にせよ、高度な製造技術を有する奢侈品である。むしろ中国の先進性を示す物産だと言ってよい。それに対し、この時期に輸出が伸びた産物は、むしろ工業の原材料をなすものである。イギリスに続いて産業革命を果たしつつあった欧米諸国が求めるようになった結果にほかならない。

こうした動向はまた、空間的な変容を意味していた。広東あるいは上海を中心港とする貿易パターンが変わったからである。旧来のパターンは茶・生糸を扱う買瓣商人・外国商社の系列が形づくっていた。この時期はそれに加えて、別系統の内外商人が輸出貿易に参入してきたのであって、それまで外国から顧慮されてこなかった開港場が、それぞれ海外市場と結びつくようになったのである。それまでの農村の余剰生産物は、主要な仕向地が経済的な先進地・中心地の江南デルタや上海などの主要開港場に集約していた。そこに大きな需要が集中して存在したからである。ところがそうした情況は、80年代に変化した。各地域からみた外部需要は、中国内の経済先進地や貿易中心地からではなく、外国と直結したそれぞれの開港場から作用し、生産物の供給も、各開港場に分散することになったためである。そして各々の開港場が周辺の地域と強い結びつきを有するようになって、その需給関係の及ぶ範囲が、あたかも独立した経済圏であるかのような様相を呈し始めた。それまでの地方間分業から、地方分立への転換である。これはやがて、開港場をかかえた各省の当局が独自の政策を打ち出す基盤を提供することになる。

これらの経過を中国の立場からしいて類別すれば、モノをアジアから買い、欧米に売っており、アジアに負った赤字を、欧米から稼いだ黒字により、相殺していたことになる。これだけならアヘン戦争前後の時期と変わらない。また明清以来の伝統経済の基本も、同じく変わっていない。依然として各地域の集積から成り立っており、外部需要に敏感に反応していたからである。変化したのは、その外部需要の質と量である。それに伴って、中国経済の編成にも、従来とは異同が生じた。工業化を基準とする経済発展という西洋的近代的な観点では以上を見直すなら、中国は原料を輸入し製品を輸出する、いわば先進国型の貿易構造から逆に後進国型のそれに転じたことになる。

こうした変動は、当時の為政者にも、それなりの危機感を与えていた。もとより、先進・後進の観念で判断できたわけではない。むしろ単純な貿易額の推移をみてのものである。中国の貿易統計は外国人が管理した海関が作成し、1870年代に刊行が始まった。それが数値として示した当時の輸入超過が、官僚たちに警鐘を鳴らしたのである。この統計数値は不完全で、必ずしも実態を反映していなかったけれども、これ以降の中国の経済論調は、つねに入超による富の流出を慨嘆するものとなった。そこで提起されたのは、輸入品の流入を防ぐ西洋流の保護関税導入と国内での近代産業の新興である。いずれも中国在来の思想にはないものだ。しかし、その試みは成功していない。保護関税を実施するには、税率の引き上げが必要になる。そこには不平等条約に規定のある片務的な協定関税を廃し、関税自主権を獲得しなくてはならず、条約の改訂が欠かせない。列強は見返りに釐金の減免を中国側に求めたからである。列強は中国との貿易、とりわけ輸出が思うように伸びないのは、内地の釐金が事実上の関税障壁として機能し、流通を妨げているからだと見ていた。中国側は釐金の減免においそれと応じることは出来なかった。従って関税自主権の獲得も、保護関税の導入も、遅々として進まない。それが新たな展開を見せるのは、さらに財政上の問題がリンクしてきてからのことになる。

いまひとつの産業振興は、日本史の殖産興業に当たるもので、軍備の近代化、軍需工業およびその関連事業の創設推進という行為では日中共通する。異なるのは、その進め方であり、目的であった。日本では体制そのものの変革、近代国家創成の一環としてあったのに対して、中国では督撫重権の一環としてあり、旧来の制度を抜本的に改めることではない。中国各地を確実に統治するため、李鴻章をはじめとする地方大官の裁量を拡大して、それに必要な措置を講じさせることだった。その第一の目的が治安維持にあたる義勇軍の増強であったからこそ、装備の精強化・西洋化を目指す事業も監撫重権の主導で進められた。新しい産業の導入・新興も同じであった。いずれも李鴻章の幕僚や関係者たちが上海に設けたものだった。しかし、所期の成果を上げることは出来なかった。その主要な原因は経営の問題にある。担当した李鴻章の幕僚は買瓣・紳商で、当時の中国で最も貿易事情に通じていたはずの人々であったが、貧しい農民が主体をなす伝統経済の基層の動向は正確に認識できなかった。そこには「士」と「庶」の距離がはるかに遠い社会構成が原因している。また、機械工場一つ建てるにしても、莫大な資金がいる。恒常的に近代企業を経営しようとすれば、尚更であって、それを集める仕組みは、当時の中国にはなかった。

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