岡本隆司「近代中国史」(12)
6.景気の変動
清朝は1644年、北京に入ったけれども、その中国支配は容易に確立しなかった。明朝政権を滅ぼした流域、および南方の明朝の残存勢力を掃討しなくてはならない。とくに鄭成功の反清活動はいうなれば倭寇の再現であり、清朝は貿易の禁止で対抗した。この時期の欧州は異常気象と飢饉及び新大陸からの銀の産出の激減により経済が下降局面に入った。中国でも内乱が収まらず貿易の衰退がおこり、銀が入ってこなくなる。さらに時の康熙帝は節倹に精励して緊縮財政を行った。支出を減らすのだから、銀は市場から引き上げられ、その流通が減少した。そうした銀の不足は「穀賤傷農」ということばをもたらした。要するにデフレ不況である。
この不況は明末以来の経済構造を前提としていた。端的に言えば、銀が入ってこないと、モノが売れないで触れになるという仕組みである。その銀は地域間決済通貨であり、地域と地域を結び付け相互の取引を成り立たせていた。地域の内部から外部へ貨物を移出する役割を果たす。銀が入ってこなければ地域の産物が外に売れなくなる。商品の多くが農民の副業で生産されたし、専業の手工業でも、最終消費者の大多数が農民であったから、地域内部の需給を決定するのは、彼らの経済生活だった。そしてその少なからぬ部分は自給でまかなわれていた。その結果として地域の内需は極めて限られていた。そのため、商品を大量に生産販売し、労働力を多く用いるためには、需要・代価を地域の外からもたらさなくてはならない。さもなくば地域が生産する商品は容易に供給過多になってしまう。すなわちデフレが進行する。かくて、各々の地域は、外需の増減に敏感に反応し、景気動向を左右された。総体として、きわめて外向きの体質の経済だったといえよう。この時代。銀の流入がその外需の役割を果たしていた。地域の内部に銀が一旦入って来ると、容易には出て行かない。その対価として、地域の商品が捌け、増産をもたらし、雇用も増す。価値保存手段として、蓄積もされた。だから地域と地域の間な流通する銀は、地域の内部に吸収されやすく、つねに不足がちとなる。それぞれの地域が好況を続けるには、地域の外を流れる銀がたえず内部の吸収分上回っている必要があった。
伝統経済がこうした構造・体質である限り、中国全体の銀需要は、必然的に厖大となってしまう。交易を促す銀は海外から入って来るために、経済の活況はその入り口たる沿海地方で生じやすい。そこが経済の発展する先進地となって、内陸から人々が集まるのも、このような伝統経済の構造・体質のなせる技なのであり、今も続く沿海と内陸の経済格差は、ここに端を発している。だから、デフレの解決策は、銀の流入と流通を促すことにある。換言すれば、大陸封鎖で途絶している海外貿易を再開すればよい。1683年鄭氏が降伏すると康熙帝は海禁を解いて海外貿易を公認する。その効果は覿面で、18世紀にはインフレに転じる。
再開した貿易の内容に変化が生じていた。日本の銀の産出が急減したことにより日中貿易が衰退し、替わって東南アジアとインドが重要な取引先となってくる。タイからは米穀を輸入し、手工業品を輸出し、インドとは綿花を輸入し、砂糖を輸出している。そこに新たな貿易相手として欧州が登場した。生糸・磁器あるいは茶が輸出され、欧州からは対価として銀が流入した。中国にとって欧州は日本に代わる銀の新たな供給先となり、中国経済の帰趨を左右するものとなっていく。かくて中国は18世紀後半に好況が盛りを迎える。
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