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2014年7月28日 (月)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(5)

2.中立性変様─超越論的還元を可能にするもの

「現象学的還元とは、一切の超越者(私に内在的に与えられていないもの)に無効の符号をつけることである。すなわち、その超越者の実在と妥当性をそのまま定立しないで、せいぜい妥当現象として定立することである。たとえば、一切の心理学や自然科学など、あらゆる科学を私はただ現象として利用しうるにすぎず、したがってそれらを私にとって認識批判学の手がかりになりうる妥当的真理の体系として、また前提としても、仮説としてさえも、利用してはからない」。

ここで言われている「超越者」という言葉は、それは「私に内在的に与えられていないもの」、この意味で私を「超越」するものを意味する。ここで「私に内在的に与えられたもの」は「実的」と呼ばれる。従ってその否定である「非実的」とは、「超越」のことにほかならない。自然としての世界や数学的理念の世界、総じて「客観」と呼ばれるものすべては「超越者」である。こうした「客観」に対して通常暗黙の内になされている「真理妥当」や「存在妥当」を停止することを、ここでフッサールは宣言しているわけである。だが、この「超越者」という言葉は、いずれ破棄されなければならない立場を暗黙の前提としてしまっている嫌疑を免れ得ない。なぜなら、彼はこの「超越者」を、私に「実的に」与えられたものを超えているにもかかわらず、「志向的」には「内在」するものと考えているからである。こうした形容矛盾にまで追い込まれる事態は、もはやそこで使われている概念枠組みがもはや有効に機能しなくなる地点にまで事象そのものへの彼の肉薄が進んでいることの証左である。

「厳密に言って、私たちは(この還元によって、)何ひとつ失ったわけではなく、むしろ絶対的存在の全体を獲得したのであり、しかもこの絶対的存在は、正しく理解されるなら、すべての世界的超越を…理念的に実現され整合的に継続される諸作用の、しかも習慣的な妥当性を持つそれら諸作用の志向的相関者として…それ自身の内に内蔵し、自己の内部でそれらを<構成している>のである」

ここで「志向的相関者として」という文章は、「世界的超越」が「内蔵」されるその仕方を表わす表現なのである。いまやこの「志向性」の内実が問われねばならないのであり、それを繰り返せば、この内実を問う作業は、「超越」や「内在」といった概念枠組みの大幅な組み換えを要請せずにはおかない。その他、「絶対的存在」の「絶対性」と「構成」については、フッサールの「絶対性」とはデカルトのように絶対に疑いえないという仕方での確実性に関わるものではなく、還元によって宙吊りにされたものなのである。なぜなら、それこそがあらゆる認識判断の最終的な「起源」のありかを指し示しているからである。つまり、現象学的な意味での「絶対者」とは、あらゆる認識がそこにおいてはじめて可能になる最終的な地点としての「起源」のことなのである。もう一つの「構成」は、以後現象学的分析を導く鍵概念の一つとなる考え方を示している。それは、「客観」ないし「対象」がそのようなものとして妥当することになる途筋を表現する言葉である。つまり、何ものかが「真」なる「客観」として現に私たちのもとでそうであるように妥当するようになる途筋を、あらゆる認識の最終的な基盤である「起源」に遡って、そこから辿り直すことが「構成分析」なのである。

こうした還元を経て獲得されたものが、純粋な「現象」と呼ばれるものの領野(次元)である。この「現象」の性質を考える際に「中立性変様」を先に見ておきたい。すなわち、私たちが世界に関してもつあらゆる認識判断は、肯定や否定、必然性や偶然性、可能性や現実性、推量や想定や信や疑い…といった、一般に「様相」ないし「様態」と呼ばれるものを伴っている。SはPである、SはPでない、SはたまたまPである、SはPでありうる、SはPだろう、…といった具合である。これらは、各々の命題の中核をなす「SはP」という部分が高的に定立されていることを基盤として、それを改めて肯定したり、否定したり…という仕方で定立される。つまりこの考え方に従えば、すべての認識判断は、「原信憑」の「(様相的)変様」として捉えることができるのである。これに対して、フッサールはこうした様相的な「変様」のいずれでもない特異な「変様」として「中立性変様」なるものを持ち出す。それは、原信憑を含んだあらゆる様相を完全に「無効化」(すなわち「宙吊り」にする)する変様だという。あらゆる様相が無効となるのだから、それは否定でもなければ、想定や想像でも、可能性でもない。それは原信憑もろともすべての定立を停止し、それを「単に考えられただけのもの」として保持するのである。

つまり、すべての認識判断がすでに前提にしている存在妥当や真理妥当を停止することで遂行される現象学的還元は、この中立性変様に基づいて可能となったのである。「妥当」とは、存在を存在として定立すること、真理を真理として定立することであるが、中立性変様においては、この定立のすべてが無効化される。したがって、それはもはやデカルトの懐疑の場合のように真理/虚偽という基準の内を動いてはいない。

「存在」に関しては、通常私たちは「存在」ということで、何かが「現実に」存在していることを理解しているだろう。それに対して夢や幻においては、一見何かが「存在」しているように思われても、実はそれは「現実に」は存在していないがゆえに、一種の錯覚・錯誤とされる。それは「本当は」存在しないのだ、というわけである。ここには、「存在」が「現実には」とか「本当は」という仕方で、「真理」と分かち難く結びついている様が見て取れる。それだからこそ、存在妥当の停止と真理妥当の停止は連動している。だが、何が「真」の「存在」であるかは、究極のところ決定不可能なのであった。そして還元は、「現実性」という意味での「存在」と、その否定としての「非存在」の区別に先立つ次元へと、私たちを連れていく。それが「単なる思想」という中立化された次元であり、それをフッサールは「純粋な現象」と呼ぶのである。

つまり「単なる思想」とは何が想像か、何が現実か最終的に決着がつけられないため、頭の中で考えられたものがどうかはっきりしない、一般的な意味での思想のことではない。これがすなわち、現象学はもはや心理学主義ではないということなのだ。還元が私たちを前代未聞の次元へと連れて行くとはこのことであり、思想という言葉の前につけられた「単なる」という小辞は、いまや切り拓かれた新たな次元をこそ示している。この「単なる」は、彼が以後盛んに用いることになる「純粋意識」とか「純粋現象」という述語に用いられた「純粋」と同意である。

いまや現象学は「存在」や「真理」を含むすべてを、純粋な現象(「単なる思想」)へ還元した。だがここでフッサールは、このような移行を可能にした「中立化」ある一つの留保をつける。この「中立化」と、現象学が自ら拠って立つ地盤を確保するための方法論的操作である「還元」とは非常に近いにもかかわらず、決して同じものではないと言う。彼がこのように考えるのは、もしすべてが中立化に服してしまったら、そこは、もはや理性の決定に服さない、真理と存在の外部に位置する地点なのだから、そもそもいかなる「学」も不可能になってしまうからである。

心理学主義でも論理学主義でもない、新たな立場で学の樹立を目指すフッサールにとって、そのような立場を可能にするものが、同時に当の学の可能性までをも奪ってしまうものであってはならないことは、よく理解できる。だが、学は「単なる思想」であってはならないという彼のこの危惧の内には、知らず知らずの内に、<「単なる思想」とは各人が勝手に、思い思いに頭の中に思い描いたものだ>という理解が入り込んでしまってはいないだろうか。そのような各人各様の想いなしが「学」の名に値しないのはもちろんである。それこそ哲学を一個の「世界観」に堕さしめるものであり、厳密学としての哲学を標榜する彼が断固として斥けたものにほかならない。だが、今フッサールが立っている地点(「単なる思想」)は、そのような各人各様の主観的な想いなしの次元ではなかったはずである。それが、もはやいかなる存在妥当や真理妥当も機能させないという点で「学」ではありえないとしても、だからと言ってそれが各人の主観的に思いなしや世界観に堕するわけではないのである。それは学ではないにもかかわらず、学以上に「普遍的」であるかもしれないのである。そうであれば、彼は、還元に際してあらかじめ中立化に制限を付すことで、みずからが発見しつつあった新たな次元を早くも裏切ってしまったのではないか。

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