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2014年7月 8日 (火)

岡本隆司「近代中国史」(15)

条約・開港という、西洋人から見た新時代の到来は、こうしてみると、むしろ従来の継続と理解する方が、客観的な事実に近いだろう。アヘン戦争を経ても、経済の構造に根本的な変化はない。では、それ以前と何が変わったのか。端的に言えば、外国貿易とそれに伴う内地流通の量的増加である。西洋近代との関係は、「衝撃」という言い回しから連想しがちな質的な劇的転換とみるのではなく、むしろ量的な拡大に伴う漸進的な深化・変容だと考えた方がよい。この貿易増加を担ったのが、新たに参入した外国商社と華人商人であり、その参入を支えたのが、新たな金融業である。1860年代から本格的に中国へ進出した外国銀行は、外国商社に対する融資、中国と外国との間の送金決済などの業務を行い、イギリス領の香港では、ドル銀建てで独自の貨幣を発行してもいた。これに対し、中国内の送金や華人商人への融資を担当したのが、土着金融機関の票号。銭荘である。公金の為替送金は主に山西省出身の票号が、交易への融資は浙江省寧波出身の銭荘が担った。買瓣商人に貿易経験の豊かな広東人が多かったことを考え合わせれば、開港以後にさかんになった貿易・金融の企業にも、やはり同郷同業で結集する中間団体の組織原理が貫いていたわけである。この票号・銭荘も業務の拡大にあたっては、外国銀行からの融資を受けた。西洋のような株式会社を組織できず、大きな資本を持てなかったからであり、あたかも買瓣商人と外国商社の関係と同じである。外部・海外からの資本注入で流通が活発化する、という明清以来の伝統経済の構造と体質が、ここにも表現されていると言ってよい。こうした動きの中核的な舞台となったのが、新たな海港都市・上海である。

数値で量る限り、中国経済の貿易依存度は、当時さほど高くなかったと言える。それはしかし、貿易が中国に影響を与えなかったことを意味しない。この増える貿易を現場でいかに秩序付けていくか、が課題だった。アヘン貿易に典型的なように、増大した分が主として、密輸・脱税という現象であらわれたからである。18世紀後半以来の秘密結社の叢生にともなう治安の悪化が、商業・通商という局面で顕在化したものである。言い換えれば18世紀前半までは、清朝旧来の権力体制で治安維持を手当てできていた規模の民間社会が、人口の激増で膨張して、その許容量をはるかに上回った。そのため、「官」が統御しきれなくなった中間団体は、秘密結社として逸脱し、それらが携わる経済活動も、自ずから非合法化したわけである。その内対外貿易の密輸は外国商人との結託によって起こる。すでに華人の中間団体・民間社会すら統御しきれない中国の政府権力が、外国人とその社会まで取り締まれるはずはない。そこで、中国に居留する外国人に対しては、外国官憲の手で、外国のルールで統御する方法を取らざるを得なかった。後世の中国人が避難してやまない不平等条約、例えば治外法権も租界も、そうした中国の社会経済構造の必要に応じてできあがり、存続していったものなのである。

もとより、外国側を手当てするだけでは足らない。中国内の秩序再建も必要である。それには反権力的な秘密結社が治安悪化と内乱の原動力だった以上、主として二つの方法がありうる。その秘密結社を撃滅するか、さもなくば、体制側に寝返らせればよい。しかし前者には、自由ライ以上の軍事力が、後者には包容力・統制力が必要である。いずれにしても、治安悪化や内乱勃発を防げない旧来の官僚制のままでは、不可能であった。そこで権力の再編が不可避となる。治安の悪化と内乱の発生は、秘密結社のみならず、通常の中間団体にも、自衛のために武装を促した。かくて夥しく増殖した潜在的・顕在的な武装中間団体は、清朝・権力に対する態度で二分、整理できる。清朝に敵対する側は秘密結社となって、太平天国をはじめとする反乱勢力に荷担、それに対し権力を支持する側は団練などの自警団を組織した。反乱勢力も義勇軍も、武装中間団体という本質に変わりのない社会構成体の集積である。互いが互いに寝返るのも容易だった。反乱が時を措かず大規模になったのも、なかなか平定しきれなかったのも、おびただしい死傷者を出しながら、戦闘終焉という以上の社会変革をもたらさなかったのも、そのためである。この義勇軍を組織・掌握したのが、一省の軍政・民政を統轄する地方大官の総督・巡撫であった。その軍事力はこれまでなかったものであるため、新たに財源を必要とした。総督・巡撫は個別に自ら新しい施策を打ち出し、必要な資金を現地で調達しなくてはならない

その最たるものが、新たな課税である。秘密結社・反乱勢力は禁制品のアヘンや専売品など、要するに密輸で自らを養っていた。それに対し、義勇軍の軍費をまかなったのは多くは寄付の名目で商人から軍費を拠出させる釐金であった。これは商人たちを地方当局が捕捉して、もともと不法だった交易を当局が商人保護してやる代わりに、その上前をはねる、という方法に他ならなかった。それを実現するのに最も便宜なのは、その商人が属する中間団体の存在を、業種の如何にかかわらず、丸ごと当局が承認して、商人の統率と資金の拠出を任せてしまうことである。そのため、秘密結社の従事する密売も対象になった。それは密輸を合法化するのみならず、反乱勢力に与する武装中間団体を、その資金源もろとも義勇軍に取り込むことを意味する。

1860年代のいわゆる同治中興。その社会経済的な内実は、秘密結社を含む武装中間団体が、総督・巡撫を支持する軍事的・経済的勢力に転化したことにある。それに伴い、総督・巡撫は所轄地方の軍事権・財政権を握って、清朝の内政外政に大きな発言力・指導力を有するようになった。「督撫重権」と呼んでいる。もともと、慎重の中国統治は、当初から実地の政務の多くを地方の総督・巡撫に一任していた。その人事・行政を北京で点検統制し、最終的な決定権を皇帝が握った、という体制で、18世紀前半までうまくいっていたのである。ところが、以後19世紀前半までに進行した人口の増加と武装中間集団の叢生・蜂起は、こうした体制を無力ならしめた。それに対処し得る有効な手立てを模索して行き着いたのが、義勇軍などの新軍隊・釐金などの新財源であり、所轄の地方行政に対する裁量を拡大した督撫重権だった。いずれも実地に武装中間集団を権力の側に取り込み、あらためて地域を確実に統治し、その治安・秩序を維持するために為された手段であった。北京の清朝中央も、内乱を制圧し、事後の騒乱を未然に防ぐため、自らの利害に大きく反しない限り、おおむね事情に通じた現地当局の処置にまかせている。それが総督・巡撫の拡大した裁量の正当化に等しくなり、中央の君臨と地方の統治が噛み合って、バランスを保った。

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