無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 探幽3兄弟展(2)~狩野探幽 | トップページ | 探幽3兄弟展(4)~狩野安信 »

2014年7月19日 (土)

探幽3兄弟展(3)~狩野尚信

Kano3nao1さほど広くない展示室で、痛々しい状態の狩野探幽の『群虎図襖』に唖然とした隣、狩野尚信の『雉子に牡丹図襖』が展示されていました。『群虎図襖』に較べれば、まだましな状態のようで、痛む前の状態を想像して見るというのは、私のような知識教養のない人間にとっては、いささかつらいものでした。金箔の地に絵の具を定着させるように塗っていくような、このような作品では、以前に出光美術館で見た狩野尚信の特徴的な墨線のダイナミックな動きを見ることもできません。板橋区立美術館というのは狩野派のコレクションや展示を意欲的に行っていることらしいし、今回の展示もその一環ということであろうとすると、この展示は代表的な作品をピックアップしているのだろうと思います。とすれば、私が狩野探幽や尚信に対して注いでいる視点は、多分ズレているのだろうと思いました。別に、私個人が勝手に、好きなように作品を見ているだけなので、それはどうということではないのでよいのですが、自分の視点というのが、何となく、少し見えてきたように思えました。それは、もしかしたら、今回の展覧会での最大の収穫だったかもしれません。

それで、『雉子に牡丹図襖』を見直してみました。多分、私が以前に見た視点では、見えてこない、この作品の魅力があるのかもしれません。ここで、参考として右図の京都二条城の障壁画を参照していただきたいと思います。下の桜の花の前に柴垣があって雉子が配されているのは、尚信の代表作とされているものだそうです。(今回の展示にはありませんでしたので、あくまでも参考)これを見て、真っ先に気が付く面白さは、上下の構図がよく似ているということです。上の松の枝振りと下の桜の木と雲形のおりなす形象はそっくりです。それを飾る場所の違いや意味づけの違いなどによって、似たような形象でも内容が変わって来るということでしょうか。上の大胆で力強い印象に対して、下は繊細で落ち着いた印象ということでしょうか。その下の方で尚信は、落ち着いたといっても、静的な中で、柴垣とか雉子とか様々なアクセントを施すことで動きを与えるとともに、装飾的な豪華さも生み出しているといえます。

Kano3nao3そういう二条城の襖絵に比べて、この『雉子に牡丹図襖』は南禅寺金地院という禅寺の襖絵ということで、求められる機能も異なって来るのでしょうが、構図が二条城と違った意味で工夫されたものになっていると思います。その二条城のものと較べれば、この『雉子に牡丹図襖』の特徴がよく分かってきます。まず、画面の構成要素が極端に少ないということ、そして大部分が余白になっているということ、そして、色彩がかなり偏って使われているということでしょうか。画面左下から右上へ対角線を引くと、対角線の左上はすべて余白になって、右下の部分のみに描かれているという偏った構成が取られています。しかも、一番右側の襖に牡丹と岩が配され、牡丹の花の薄いピンク色や葉のグリーンの鮮やかな(当時は鮮やかだったのだろうと思います。今は色褪せてしまっていますが)色は、右側の襖に集中しています。そのため、参考で見た二条城がそれなりに左右でバランスが図られていたのに対して、この『雉子に牡丹図襖』は意識的にアンバランスな構成が取られています。題材が牡丹の花と一羽の雉子というスタティックなもので、背景も省略されている抽象化された画面の中で、ややもするとスタティックになってしまうところを、構成をアンバランスに偏らせることによって、余白の部分が目立ってくることになり、何やら訳ありに見えてくるのと、余白と描かれている部分が対立的な緊張関係を生み出してくるように思います。それだけでなく、右側の襖に鮮やかな色彩を集中的に投下することで、構成のアンバランスを色遣いでさらに煽って、緊張感を際立たせています。そうなると、画面のとしては静的なものであるのに、ピーンと緊張感が張りつめたような印象となってきます。それは、寺院という落ち着いた空間でありながら、精神修行という緊張を絶えず迫られている場所であるという特性に適した雰囲気を作り出している、と言えないでしょうか。さらに、例えば、一番右側の襖では、柔らかな牡丹の花を鮮やかな色彩で装飾的に描くその下側には、骨法によりゴツゴツした肌触りの岩が、苔むすような渋さで、まるで牡丹の鮮やかさを打ち消すように配されて、両者の対立的な緊張関係が形づくられています。また、真ん中左の襖で雉子のポーズが逆S字になっているのに対するように水流がS字を形づくって、両者が対峙するようになって対立関係を作り出しているなど、大きくは画面構成での対立関係から細かい部分まで対立関係が重層的につくられて、その積み重ねが画面全体として緊張関係を作り出しています。それを考えると、尚信という画家の魅力のひとつに画面の構成力ということがあるのかもしれません。

Kano3nao2このことは、最初に私が述べた尚信の魅力である墨線という、画家が筆で一瞬の線を引くという肉体的な技量の修練と、一瞬の技によってきまる、いわば即興的な要素とは、全く逆の、知的で論理的な計算による画面構成という尚信の特徴というものを認識させられた、ということでしょうか。しかし、このことは、逆に予め構成を考えるためには、各構成要素の組み合わせという要素が強くなってくることや、頭で考えていくことはパターン化に陥る危険が高くなる恐れがあります。そのことは、後に狩野派に冠される“粉本主義”という批判が生まれる素地にもなっている可能性も考えられなくもありません。そういう危うさが、実は探幽にはない尚信の魅力なのかもしれません。

 

Kano3nao4_3尚信は、上記のように金箔を施した上に彩色するような作品よりも、墨一本で勝負する水墨画のほうに真骨頂があるのだろう、というのが私の印象です。ここでの展示も水墨画点数の方が多かったことから受けた影響かもしれませんが。しかし、私には、以前に出光美術館での展覧会でみた尚信の水墨画に比べて、今回展示されていたものはピンとくるものがありませんでした。『西湖図屏風』は中国の有名な景勝の風景を描いた伝統的な画題で、パターンは確立されているものではないかと思いますが、これは、そういう伝統をお勉強しています!という作品として、私には見えました。当時の尚信は、職業としての画家で注文があれば、それに応じなければならないので、そういう注文があったということではあるのでしょう。たしかに、墨線の千変万化とも言ってもいいヴァリエイションの多彩さは、彩色を抑えたことで際立っていて、尚信の線を堪能するのに余りあるものとはなっています。とくに、岩峰や建築物を描く線は力強く、ゴツゴツした雪舟の骨筆の肌触りを感じさせつつも奔放さをコントロールしてカチッと決まっているという洗練を加えたものと、遠景や水辺の墨がにじんでぼかしたり紙にフェイドアウトするように輪郭がうすまっていくものとが、対比的に計算されたように構成されているところなど、見どころの少なくない作品です。でも、上の『雉子に牡丹図襖』のようなパターンからいったん飛び出してしまうような奔放さがありながら、結果的にパターンになっている、というのか新たなパターンとなってしまっているような、形式に対するダイナミズムを、この『西湖図屏風』からは感じることはできません。

そういう、私が尚信の魅力と思っているものを感じさせてくれたのが『山水花鳥図屏風』でした。残念ながら、画像はありません。大胆に余白をとっている、というよりは地の部分がほとんどで、点景のようにところどころに何かが描かれているという感じで、手抜きか?と思えてしまうほど。多分描かれているのは、流水と岩とそこにしがみつくように生えている樹木と数羽の鳥なのではないかと思う。というのは、私には正確には何が描かれているか判然としないところがあるからで、それよりも、尚信の筆致というのでしょうか、墨が滲み、跳ね、引かれ、というように墨の軌跡の縦横さに翻弄されるようです。それは、抽象画に近い様な感触でしょうか。筆で墨を即興的に紙に乗せ、滲ませた奇跡を、鳥だの流水だのに後でこじつけた、とでも想像してしまいそうなもので、結果として山水画になっている、と私には見えてしまう作品です。それだけに、私には尚信らしさが全開と思えるものです。ただ、ここでは奔放過ぎというのか(私は、そういうのも好きです)、結果的にできたものがひとつの新たなパターンになっているというような、形式と奔放さのせめぎあいとそこから生じるピリピリとした緊張感というはなかったのでした。たとえば、点景のように描かれた部分がバラバラで、例えば流水がメインとしてその流れに沿って岩や樹木があるといった全体としての一本の筋のようなものがない。それで、一般的な説明では構成が弱いというような評価が書かれていました。

« 探幽3兄弟展(2)~狩野探幽 | トップページ | 探幽3兄弟展(4)~狩野安信 »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 探幽3兄弟展(3)~狩野尚信:

« 探幽3兄弟展(2)~狩野探幽 | トップページ | 探幽3兄弟展(4)~狩野安信 »