岡本隆司「近代中国史」(9)
3.転換と形成
明朝の現物主義はこのように、当時の経済状況と対内的・対外的な政治方針とを巧妙に結びつけた政策であり、周到極まる構想だったといってよい。けれども、いかに構想として巧みであったにせよ、しょせん頭の中で人為的に考えたこと、政治・経済の実体・実勢とうまく合致するとは限らない。明朝が長城以北に駆逐したモンゴルはなお健在だったから、これに対抗する軍事経営は明代の課題となった。軍事は純粋な消費活動である。どうしても、継続的な補給、物資の調達が必要である。そこで商業に頼らなくてはならない。永楽帝が長城に近い北京に本拠を置くと事実上の遷都となる。こうして、政治・軍事の重心が北辺に移ると、いよいよ商業と流通に頼らざるを得ない。生産力の低い経済的な後進地に、官僚と軍隊が集中する一大消費地ができたために、物資の移動流通の必要性が高まったからである。とくに江南から北京への糧食供給は、不可欠だった。大運河が改めて整備され、これを軸に特産品が生産と流通を増やしていく。現物主義の体制は、100年もたたないうちに大きく転換しようとしていた。
先ず租税。現物の租税の米穀では、江南では納める農民自身が収納地の南京まで運ばなくてはならず、その負担に耐えかねて、銀納を求めた。その三年後には、北京の武官たちが俸給を銀で支給してほしいと要求している。当時、文武の官僚たちは南京で俸米を受け取り、その米を他の物資に替えて北京に持ち帰っていた。ところが売る俸米が安く、買う物資が高くなって困窮をきたしていた。以上の経過から、まず米価が下落していたことが分かる。生産が向上した結果と言える。そして、第二に判明するのが、北京などの都市や江南では商品経済が普及し、銀が流通していたことである。税収の銀納化は、財政の運営を流通の現状に近づけようとした措置に他ならない。言い換えれば、現物主義がもはや実体経済から乖離していたことを意味する。
こうした銀の流通をもたらす経済動向の中核は、江南デルタである。中国で最も高い生産力を持つこの地方は、14世紀末から15世紀初頭にかけ、北方の物資需要が高まるなか、推理条件が変わって、生態系と産業構造を一変しつつあった。長江の流れが変わり、江南デルタでは15世紀以降、米作が減少し、木綿、麦、麻が栽培され養蚕が始まるなどして、商業化、集約化がすすむ。やがて産出した生糸・木綿を中心に、織布・染色など高度な手工業も興ってくる。それに伴い労働人口も増えて行った。その結果、人口過剰となって主穀の供給を他の地域、とりわけ新たに開発された長江中流域に仰がざるを得なくなった。その湖北・湖南から百万石の米が移入され、この見返りに、衣と木綿を主とする商品が売られた。つまり、それまでの穀蔵だった江南デルタの産業が転換し、農産物は多様化、商品化し、新しい地方の開発が進んだ。地方間の分業と相互依存が、進展し深化する。物資が夥しく移動し、これに伴い人の移動も盛んになり、交通・交易が頻繁の度を高めていった。
経済全体の商業化と社会全体の流動化は、滔々として、とどめ難い潮流となった。そこでなかんずく、強い集約化に向かった江南デルタで、貨幣需要が増大してくる。ところがその貨幣が、当時は存在しなかった。明朝の貨幣は現物主義の補完物に過ぎない。大規模に商業化しつつあった経済の需要に、とてもこたえられるものではなかった。明朝政府には幣制を改革しようという意思はなかった。その間に貨幣は悉く使い物にならなくなる。政府の法定的通貨は、あてにならない。そこで民間では独自に通貨を設定して、日増しに高まる貨幣需要をまかなおうとする動きが顕著になる。
少額の取引には私鋳銭が流行し、大口・高額の交易では銀の使用が広まった。いずれの場合も、まちがいなく違法行為ではある。だが、そうでもしなくては、経済が立ち行かなくなった。それは民間経済が、法定的な通貨・幣制、あるいは現物主義、さらにいえば明朝政府そのものに、不信任を突きつけたに等しい。民間で流通した私鋳銭の種類や数量はまちまちだったが、取引には売買双方に共通の尺度がなければ成り立たない。まちまちな種類の銅銭は人々の合意信任を通じて選別されたが、その信認は取引にあずかる個々人の自発的な合意なので一定の範囲以外には広がり得ない。このような範囲を地域と呼ぶ。全体としてみると、銅銭は地域ごとに多種多様、バラバラになっている。共通の信認がある範囲の各地域内での取引流通には使えても、その外に出て別の地域で使うことは出来なかった。だとすれば、その範囲を超えて地域と地域の間をつなぐ取引・流通には誰もが共通してその価値を信認できるモノでなくてはならない。このいわば外部流通で通用したのが銀であった。官僚が俸給の受け取り・労役の奉仕でほしがったのも、中国全土に赴任するため、どこでも使える外部通用の貨幣が必要だったからである。こうして経済のみならず、財政も事実上、銀建てに転換していった。ところがすでに当時、中国内に貴金属の埋蔵は殆どなくなっていたために、銀を手に入れるためには海外から輸入しなくてはならない。そこで貿易の要求が強まってくる。それは中国の気運であった。
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