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2014年7月11日 (金)

岡本隆司「近代中国史」(17)

民間からの積極的な資金拠出が望めないので、まず政府・当局が官金で出資して、工場・企業の創設・経営を主導しなければならない。これを「官瓣」「官督商瓣」と称する。これらは投資・実務・監督をいっさい政府当局が行う方式であり、軍需工場に多い。それに対し、民需企業の経営は「官督商瓣」、経営的な当局の役割を監督に限って、経営実務は民間商人に任せるものだった。こうした商人経営形態に「合股」がある。出資者が利権を一定額ずつ等分に持ち合って事業を営む方法で、法人格をもたない、いわば組合組織であった。出資者はほとんど地縁・血縁のある者、あるいは知友で連帯責任を持ち、外部から招聘した企業家に経営を担当させた。出資者は配当のほかに出資金の貸付利息を受け取った。これは企業経営の安定に大きな障碍となりうるものだったが、それなくしては資金の拠出を期待できなかった。この「合股」は、企業投資に対する法的・制度的な保障のない伝統経済において、なるべく円滑に多額の資金を集める方法だった。しかしこれを近代的な大企業の立場・観点から見れば、人的信用の範囲内でしか資金を調達できず、しかも企業活動の年限を切りつつ、利潤のほとんどを出資者への配当・利息に還元していては、経営の前提をなす大資本や継続性という条件が満たせない。これでは零細な企業規模にしかなり得なかったし、経営は楽なものではなかった。

例えば1870年代に外資系の企業が先導し、生産を始めた器械製生糸は中国の代表的な輸出産品の地位を占めた。しかし、外資系以外は、概して自己資本の乏しい零細な工場で、資本の大部分を外資に仰いでいる。とりわけ原材料の繭は、価格の変動が大きく、零細な製糸業者にはその調達が大きな負担であった。生産した生糸を担保として、金融機関から融資を受ける、という自転車操業を余儀なくされる工場も少なくなかった。すべては大口の金銭貸借を不可能ならしめる「官」「民」の乖離・政府権力の民間経済への不干渉という伝統経済の特質に規定された情況だった。したがって、近代企業を成功させるには、政府が経済活動に対する不干渉を改め、信用構築とリスク回避のために関連する法律や制度を設計整備し、かつ安定的に運用して、散在する遊休資金を企業投資に向かわせる必要がある。政府官僚ばかりではない。企業の経営者にも、このような法律や制度を前提とした経営を遂行する能力が必要不可欠である。しかしそうした人材の養成と登用は、困難を極めた。最大の要因は、科挙制度の存在にあった。実務に通じた人材を養成する、という観念そのものが備わっていなかったし、ましてや、西洋の事物に関する教育など、望むべくもなかった。

このように経済界を揺さぶり始めた貿易の増加は、政府財政にも影響を与えている。流通が増えれば、それに課した税収入が増す。外国貿易の増加は、関税収入の急増をもたらした。この場合の関税とは、もっぱら海関の税収を指している。西洋貿易を所轄する海関には外国の船舶・商社に有効な管理と徴税を及ぼすため、外国人官吏を入れて西洋的な関税業務を行うこととした。それは華人商人たちに貿易取引と関税納入を任せた、それまでの請負とは異なる制度となった。その収入が急増したのも、請負につきものの着服がなくなったためである。

このように財政規模全体が拡大したのは、内乱の鎮圧とそれに続く治安維持、外患に備えた海軍建設などによる軍事費の増加が主な原因である。軍隊を指揮、維持するのは「督撫重権」の役割で、その主要な財源的裏づけは、釐金の収入だった。それに加えて、増加した関税収入も、その支出増をまかなう一翼を担ったわけである。総じて、この時期の政権運営が、貿易とそれに関わる流通に基礎を置くようになったあらわれとみればよい。もっとも釐金とかんぜいとでは、そのあり方と機能が異なっている。釐金は現地で便宜的な出納ができる。地方官の裁量のきく税収だった。逆に言えば、局外からは収支の見えにくい税目であって、従って各種の統計には、その実額がほとんど表れてこない。その意味で旧来の財政に準じた特徴を備えている。それに対して、外国人が管轄した関税は、徴収のプロセスを透明化し、実収額も容易に分かる税目だったので、外からみても計算可能な、信頼できる財源になった。これはかつて存在したことのなかったものである。そのため、開港場では、清朝現地官庁の必要に応じ、この関税収入を担保として外国商社・外国銀行かせ資金を借り入れることが可能になった。そもそも伝統経済の財政で、政府が民間かに借金をすることはありえなかった。社会に対し、収奪者・債権者としてしか振る舞えなかったのだから、実に未曽有の事態、コペルニクス的転換である。しかも外国人は、借款の担保に用いた関税を中央政府の税収・財源と見なした。けだし、当時の欧米人の常識を投影した見方であって、実際には、清朝は19世紀末になっても「コモン・パース」の欠如した、中央・地方の区別のない財政体系であることに変わりがなかったから、誤解というほかない。しかしこの誤解が、以後の中国に中央政府財政を創出し、外国銀行ひいては外国列強が、そこに介入する足掛かりを提供し、財政制度そのものも変容していくこととなった。それがまた、ひろく経済全般に影響を与える体制変革につながるのである。

 

 

こうしてみると、日本のあり方というのは特異であるのが、よく分かると思います。多分、こういう中国のあり方は現代以外の欧米諸国に近いように見えます。多分、中国のあり方のほうに普遍性があって、それを変わっていると見てしまう、私のような立場が、むしろ変わっているといえると思ったりしました。

 

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