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2014年8月

2014年8月31日 (日)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(5)

第3章 戦国大名の流通政策

そもそも中世における関所とは、街道・海道上の要地に各領主が設立し、通行税を徴収していた。実際の維持は所領の地元集団によって行われていたと考えられるから、領主はそれを政治的行為によって保証し、その対価として通行税の上納を受けていたかたちになる。そしてそれをさらに幕府・朝廷の上級権力が保証し、知行として領主に認めていた。幕府の承認のない関所は「新関」と称され、幕府からは排除の対象になるが、関所の存立は地元集団によって行われること、それを支持する領主の存在などがあって、実際には徹底されなかった。関所の維持が地元集団によって成されていたということは、それに伴う交通施設の維持がそれら地元集団によって行われていたことを意味している。通行料としての関銭は、いわばその維持のための費用といえ、交通施設を利用する受益者負担と理解される。そのため関銭を払わない等の違反者に対しては、地元集団によって、荷物はもちろん輸送のための馬や船の略奪や、輸送者の拘束などの報復が行われた。関銭を払うことで他の集団からの略奪を回避できたという点において、関銭は、いってみれば交通上の安全保障の対価でもあった。

戦国大名によって過書が出されているということは、領国内の関所を大名が統制していたことを示している。しかし実際のところ、大名領国における関所は、それ以前に比べるとはるかに少なく、おおよそ領国境目か、領国内の交通上の要地に限定されていた。それ以前において存在が確認されていた関所が戦国大名領国では見られなくなっている事例はかなり多い。大名領国における交通施設維持も、本来的には地元集団の負担によると捉えられるが、そうすると大名による統制や排除等の実現は、どのような論理によっていたのであろうか。関所が存在するのは街道上であるが、そうした街道は大名も軍事行動に際して頻繁に利用するものであった。このため大名は、周辺村々に夫役を課して道路整備を命じていた。すなわちそうした主要な交通施設は、大名による維持に転化するようになっていった。だからそれまでの関所を廃止することができたのである。こうした事態は、大普請役による公共工事の転用と同じものと捉えられる。そしてこのような状況がみられるようになったのは、そもそも敵地に対する軍事行動の過程で、関所が破られ、以後における領国化のなかで、交通上の安全を最終的に大名が保障することによって、展開されたものと考えられている。これによって大名は不要な関所の撤廃を行いえたのである。また、領国内の経済上の繁栄を見据えて、関所の撤廃が進められることもあった。大名が、個別の集団の利益よりも公共の利益を優先して思考していることが分かる。関所における役銭の廃止は、そのような観点に基づいたものと理解される。逆に言えば、存続された関所などは、大名によって領国を維持するうえでとくに必要とはんだんされた、特別な性格のものであったとみられる。その多くが領国境目であったことから考えると、領国外への出入りに主要な関心が置かれていたことが伺われる。

関所には大名から役人が派遣され、人・物の通過を点検し、課税した。役所とも呼ばれているのはそのためと考えられる。領国境目における関所では、鎖国への出入りが点検された。領国外への移動が禁止されている品物が決められていて、許可なくそれらの荷物を領国外に移動させようとすることがあれば、ただちに押収された。また、領国内で重要な物品について他国へ流出するのを防止する歯止めにもなっていた。それだけではなかった。隣接する大名と敵対関係になった場合には、ただちに両国をつなぐ街道は双方で封鎖され、互いに人と物の出入りは禁止された。こうした状態は「路次断絶」「通路断絶」と称されている。同様のことは海上交通の要所である浦・湊においても見られた。

こうした陸上における関所などや、海上などでの浦・湊における、領国に出入りする人と物の規制は、まさに現代における出入国管理に当たっている。ここに大名領国が、現代の国家に相当する性格にあったことを認識できるであろう。これらのことから関所等の施設は、戦国大名領国の展開に伴って、それまでにおける物質輸送の通行料の徴収や安全の保障を中心とした性格から、国境における領国内外の移動の点検を行う機能に変化したといえよう。

その一方で戦国大名領国における流通は、決して領国内のみで完結したわけではなかった。それは例えば武田氏が、駿河を領国化する以前においては、塩の獲得は領国外からの移入に頼らざるを得なかったことからも、容易に伺えるであろう。またそのことは、現代における国家についてもあてはまることである。そのため大名領国の存立において、他国との恒常的な流通関係は、不可欠の要素をなしていた。そうした領国をまたぐ流通は、同盟関係にある大名領国間にあっては、盛んに行われていたと考えられるし、そのための様々な仕組みの存在も明らかになっている。例えば陸上交通の基幹にあたる伝馬制についても、同盟関係にある大名同士では、その接続が行われていた。

また、領国で確保できない物資は領国外から移入されるが、それをもたらすのが他国商人であった。また、他国商人の他に、日常生活のなかで領国をまたぐ活動を行っていたものに、領国境目の住人があった。そうした人たちは、双方の大名との間に奉公関係などを結んで、生業を展開していた。

先に伝馬制についてのべたところで、伝馬を負担するものとして宿の存在について触れたが、ここでその宿について、もう少し詳しく取り上げることにしたい。宿は主要街道に設置されたもので、その認定は大名によった。しかしその前提には、地元有力者による設立・維持があり、大名に伝馬役を負担することによって、大名から宿として認められた。伝馬役とは、宿と契約する輸送業者に、人と馬によって次の宿まで物資を輸送させる負担である。宿では、輸送業者による伝馬勤仕が義務になっていた。伝馬役は宿に対して課され、各宿ごとに一日における伝馬負担数が決められていた。

ではなぜ宿はこの伝馬役を負担したのかというと、これによって街道上における輸送業の営業を承認されるからである。逆に宿でなければ、輸送業を営業できなかった。輸送業を営むものは宿と契約し、通常の輸送では駄賃が支払われる。そして、宿において伝馬役を差配するものを「問屋」と称した。宿の有力住人で周辺の輸送業者と契約し、彼らに伝馬役を負担させた。この宿問屋は、もともとは商人問屋(承認の宿泊施設)が起源であった。商人は商品を携えていたが、その輸送は業者によって行われる。そのため問屋と輸送業者の繋がりが生じたのである。そして輸送は問屋に限定され、次の宿で、その宿と契約している輸送業者に交替された。その際には荷物の積み替えが行われた。その際に手数料商事、これが宿の利益になった。輸送はこのようにして宿を継ぐ形で行われた。したがって、宿として認められないと、商人の宿泊もなく、また輸送業も行えなかった。そのため街道上に存在した、輸送業者を抱えている村同士では、宿の地位をめぐって競合がみられていた。その強固ヴ出の勝利を確定するものこそ、大名への伝馬役負担による宿の認定であった。

宿では市も開催され、これも大名から保証を受けた。その代替として商売役(営業税)を納入した。多くは1ヶ月に6回の六斎市であった。このような市は、近隣に日をずらしながら存在していた。これによって毎日数キロメートルの範囲の中で市が立てられる状況が作り出されていた。当時の商売は移動商人によるものであり、市日にそれらの商人が参集した。逆に、市以外での商売は、宿の町人や商人中間によって禁止されていた。こうした市を通して商売させることの強制は、宿町人や商人中間によるナワバリの維持によるとともに、大名・国衆にとっては軍事物資の領外移出防止のためでもあったと考えられる。またこのことから、市での販売は移動商人の他、周辺の村民によっても行われていたこと、村人が販売する場合には出入りする市が決まっていたと見られること、また商人による買取についても、位置によって行われるべきものとされていた状況もうかがわれる。

市場には不特定多数の人間が集う。その結果として生じるのが様々なトラブルであった。そのため、宿にとっては市における秩序維持が課題となっていた。本来はそういったトラブルは、宿の町人によって解決が図られた。しかしながら大名や領主の被官による秩序破壊、あるいはトラブルへの介入に対する対処は、支配者への抵抗ともとられかねないから、充分には対処できない場合があった。そのために大名に、そうした市における秩序維持が求められた。大名は町人による自力による秩序維持を「町人さばき」として承認し、それを前提に秩序維持を図っていた。さらに大名は市場における諸役を免除するようになる。これが「楽市」と呼ばれるものだ。このことは、市場における安全保障については大名が最終的に担うものであることになっていった。

また商売には、商品種ごとにナワバリがあり、室町時代までは、「座」という同業組織によってそれらの営業は特権化されていた。座の加入者は、市場での座役銭を、座を支配する領主に納めていた。これについても戦国時代らなると、大名。国衆がそれらの営業についての最終的に保証する存在となり、その対価として商人に対し、商売物役の納入や種々の奉公が求められるようになった。さらに同業者のうちで、それらを統括する商人を商人頭に任じて、商人に対する統制を行った。商人頭はそれらの商人から商売役を徴収し、それを大名に納入したのである。このように大名領国においては、大名に役を負担しなければ営業できない構図が構築されることとなった。その上「楽市」ではかつての座役銭も免除された。これを「楽座」と称した。これによって近辺の村人などは、誰でも市に売りに行けるようになった。ただしその場合でも、特定の座で販売した。したがって、「楽座」というのは、同業者集団としての座の解体ではなく、座役銭の廃止を言ったとされる。

2014年8月30日 (土)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(4)

第2章 戦国大名の税制

領主支配の基本単位となっていたのが所領であるが、年貢の納入先に応じてその性格が区分された。すなわち、大名に年貢が納入されるものを直轄領、大名から所領として与えられた家臣に年貢が納入されるものを給人領、同様に大名から所領として与えられた寺社に年貢が納入されるものを寺社領、と区分された。ただし、所領の形態は様々であった。一郷・一村がまるごと所領となることもあれば、一村の一部が所領となることも多かった。大名・家臣・社寺は、それぞれ独自の裁量によって所領を支配した。所領は複数を有して場合が多かったから、多くは代官を任命して支配を代行させたが、その際に代官が独自に収取できると区分や公事賦課なども認められていた。ひこれらも領主支配の一部をなしていた。それと別に大名は、領国内すべての村を対象にした公事を賦課した。

戦国大名は村に対して、様々な租税を課したが、それは制限なく課されるのではなく、いずれについても基本的に数量が決まっていた。その基準は、村の耕地面積をもとにした村高、村の中の屋敷数にあたる棟別に置かれており、それを確定する製作が、前者では検地、後者では棟別改などといった。村高はそのままで年貢高になるのではなく、様々な控除分が設定され、それを差し引いた残りの部分が実際の年貢高になった。検地は村ごとに行われ、村内の耕地について、賦課単位ごとに田と畠に区分し、面積を算出し、それに基準数値を乗じた高、その分の年貢負担を確定する内容であった。こうしたことから、検地が個々の百姓の土地所有権を決定するものではなかった。個々の百姓の所有地は、村によって決定されていたからである。

このような検地の性格は実は、室町時代までにおける領主検注や、織豊・幕藩権力による検地と、本質的には変わらないものであった。むしろ異なるのは、領主と村との関係のあり方にあったというべきであろう。それが検地の性格を異なるもののようにみせているにすぎない。そしてまた、村を対象にするということは、その村の領域を画定することでもあった。室町時代まで頻繁に見られた、耕地の帰属をめぐる村同士の抗争が、戦国時代になるとあまり見られなくなるのも、検地にともなって、村の領域が大名によって画定されたからと考えられる。これこそ室町時代までの領主と村の関係との顕著な相違といえ、このあり方は以降の織豊・幕藩権力にも継承されていった。もう一つの特徴は、検地によって算出された村高が、大名が家臣に所領として与えた場合に、その所領高としても機能したことである。これによって村高と所領高とが、統一的な基準によって表示され、互いに連動するものとされた。そしてこれは家臣に対する統一的な基準による役賦課をもたらすことになり、すなわち統一的な知行の体系を生み出すことになった。

2014年8月29日 (金)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(3)

第1章 戦国大名の家臣団構造

戦国大名には多くの家臣がいたが、大名家当主が日常的に接していたのは、重臣層や側近・奉行層など一部に限られていた。多くの家臣は、そうした重臣たちを通じて、大名との関係を作っていたといってよい。それが寄親寄子制であり、その関係は下位者による上位者に対しての頼み関係から成っていた。そもそも主従関係からして、頼み関係にあたっていたから、戦国大名の権力機構は、幾重にもわたる頼み関係からなっていたといえ、すなわち重層的な頼み構造として理解される。

大名と家臣との主従関係は、端的には御恩と奉公の関係になるが、もう少し具体的に言うと、大名は家臣に対して知行や特権を安堵する等して、その進退の維持を図り、対して家臣は大名に奉公するという、双務的なものであった。家臣は知行を与えられていたとしても、それに伴う奉公を欠いていた場合には、簡単に知行を取り上げられ、結果として没落してしまうことが往々にしてあり得た。また同じようなこととして、知行の子孫への相続は決して前提的なことになっていたのではなかった。子孫への相続が果たされるためには、生前に後継者などへの譲与について大名から許可を受けてことが必要であった。これは、大名から、後継者について承認を受けることでもあった。この場合、子孫への相続が認められるためには、戦死や特筆される忠節をあげていることが要件であったことから、そのハードルは結構高かったといえる。家臣は軍役などの負担を果たすのが義務であったから、その義務を充分に果たせない場合には、その知行は没収され、義務を果たす能力のあるものに与えられるのであった。そうすることによって家臣の負担能力の維持が図られていたと言える。

また同じ直臣とは言いながらも、その奉公の形態には大きく二つの在り方があった。一つは、当主の側近くにあって「常之奉公」をするもの、もう一つは、戦陣の際にだけ軍役を負担する、というものであった。戦国大名の家臣を特徴づけているのは後者のような存在であった。彼らは、年貢負担の代替として軍役を負担するもので、それに伴い年貢負担血地を知行として認定された存在であった。従って基本的な属性は「百姓」であったといえ、通常は本拠地に所在し、家臣という立場一時的な兼業のようなものであった。こうした存在は在地の土豪層にあたり、家臣としての性格については、いわゆる常勤の家臣と区別するために、在村被官といっている。彼らは本来、年貢を負担していたのであるが、家臣化し、軍役などの知行役を負担する代替として、年貢負担地すべての場合もあれば、そうでない場合もあるなど、さまざまであった。このような土豪層の戦国大名への家臣化は、大名からの軍事動員に応じることに始まり、戦功をあげて年貢負担地を知行化されることで成立するものであった。それはどうしてか。大名・国衆は、領国の防衛戦争に際して、領国の村々に対して軍事動員をかけていた。その代償として公事などの減免を行っていた。その時、具体的に出陣に応じたのが、村の中でも武力担当の役割を負う侍身分にあった土豪層であった。そしてそのなかで戦功をあげた場合に、それへの功賞として知行が与えられ、それによって家臣化したのである。家臣化すると、村内では、村役という、村の百姓が村に対して負担する税金や夫役などが免除された。また身分的にも、「御給人」等と称されて、百姓とは区別されるようになるなど、村内での政治的優位が確立されることになる。しかし、必ずしも良い側面ばかりではなかった。家臣化するとその知行に応じた奉公が義務付けられるが、軍役はどんな遠方でも出陣を命じられれば務めなければならなかった。主家の領国が拡大していくと、全く縁のない遠隔地への出陣も行わなくてはならなくなる。しかも参陣費用は自弁であったから金銭的負担は増すばかりであった。そうして不参陣等が生じると、簡単に改易された。当然のことながらその知行は取り上げられ別人に与えられてしまうことになる。これらは土豪層にあつたとしても、没落をもたらすことになる。さらに敵方の大名との戦争の結果として、主家がその地域を奪はれてしまったり、滅亡したりした場合に、その知行は闕所扱いになり、やはり取り上げられ、領国から追放された。そうすると、大名・国衆への家臣化というのは、それによって村内では優位を確立することができるものの、他方において没落の危険と表裏のものであったことがわかる。そのためその後、土豪側の台替わりを機に大名との被官関係を解消したり、知行を「上表」(返却)して、年貢を負担地に戻すということも決して珍しいことではなかった。

 

2014年8月28日 (木)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(2)

まず戦国大名の支配基盤は、政治団体としての「村」にあった。村が当時における社会主体であり、大名への納税主体であったことによる。村は一定領域を占有し(村領域)、そこから得られる、用水や燃料などの資源をもとに、生産・生活を行っていた。時に、それらの生産資源をめぐって、隣接する村との間で、武力を用いて激しい紛争を行うこともあり、まさに「政治団体」として存在していた。その村の構成員が百姓であった。かつては大名は個々の百姓家を支配していたと捉えられてきたが、村こそが当時における社会主体であり、百姓家は個々に存在しているのではなく、村に所属することで存在することができた。こうしたことから、戦国大名の支配基盤は、個々の百姓家ではなく、それらを構成員とした政治団体である村であった、と捉えられるのである。とりわけ村との関係で特筆すべきは、村による戦争費用の負担である。戦国時代における戦争の恒常化、それに伴う城郭の向上的存在のため、城郭の築造・修築のための普請役、戦時における物資輸送のための陣夫役が恒常化していた。そうした負担は、領国下の村に課された。逆に言えば、それらの負担を受け容れた村々の集合体が、その大名の領国として存在したことになる。そしてそれらの村々自体が、村領域というかたちで領域的に存在していたから、その集合体としての領国も、領域的に展開するという関係にあった。次に戦国大名の権力基盤は、家来の集合体としての「家中」という組織にあった。家来は、いわゆる従者・家臣にあたり、その集合体であることから、「家中」とは、一般的に言う家臣団にあたるといってよい。「家中」という用語そのものは、家来組織を指すものに過ぎず、室町時代にもあったが、その性格が変わるのである。室町時代までは、所領の村同士の紛争から領主間戦争が展開していたが、戦国時代に入って、戦争の恒常化のなか、家中構成員が自力解決を自己規制し、自分たちを超越するものとしての主家である大名家を創り出して、これにすべての判断を委ねることで、互いの存立を図る構造が構築された。こうした状況は15世紀末頃から明確に確認できるようになっている。これによって家来は、自らの存立に関わる問題であっても、それまでのように独自に解決を図ることができず、すべて主家である大名家の判断にゆだねるものとなった。自らの存立に関わる問題、というのは、たいては所領としている村が引き起こす、隣接村との生産資源をめぐる紛争に由来したものだった。家来は、領主という税金を徴収する立場を維持するため、所領の村が引き起こした紛争に際して、それへの支援が求められた。そのようにして村同士の紛争は、互いに領主同士の戦争へと容易に転化していった。しかし大名が対外的な戦争を行う上で、家来同士の抗争が行われていると、大名の戦争そのものが行えなくなる。それは家来の存立にとっても好ましいものではなかった。そのため家来同士の自力解決の自己規制が展開されたと考えられる。しかしそれは、領主としての自力救済の放棄を意味した。家来同士の抗争を禁止するという在り方は、戦国大名の規則にあらわれ、やがて家来同士の私戦そのものを制裁の対象にした喧嘩両成敗法の制定へと展開していくことになる。こうして戦国大名の家中を単位にも個別領主層の戦争は抑止される構造が成立された。このことは同時に、村同士の紛争が領主同士の戦争に転化する回路が切断されたことを意味し、戦国大名の領国内では、領主同士の戦争が抑止され、平和が確保されることを意味した。さらに紛争主体であった村についても、大名の支配を受け、検地などを通じて、村の境目の決定、すなわち村の領域が決定されることで、村同士による基本的な境相論は抑止されるようになった。こうした状況の結果、戦国大名の領国が、平和領域の単位によるという状況が生み出されることになった。そしてそこでの平和は、家来や村について、中世における自力救済のキーワードである「相当」・「兵具」・「合力」の禁止によって、形成・維持された。戦国大名は領国内において平和を確立するが、それは内部における自力救済の抑止によって成り立っていた。

その結果として、戦国時代における紛争は領域権力同士、すなわち「国家」同士のものに基本的に限定されるものとなった。そして戦国大名同士の領国の境目では、互いに通行が規制された。領国の境目に設置された関所などで、人と物の通行について規制が行われた。領国の出入りは、決して自由ではなく、そこでは大名によって規制が行われていたのである。ここに、国境の形成を見ることができる。こうした事態は、戦国大名という政治権力が、領域権力として存在していたことによって生み出されたものであった。日本列島の歴史において、はじめて現代に通じるような国境という観念が誕生したのである。その結果、領国内に居住する人々は、その大名の領国の住人という観念が生み出されてくることになろう。さらに戦国時代の後半になると、領国が数か国規模わたるような大規模戦国大名同士の戦争が展開されていくようになる。それは戦国大名が、滅亡を覚悟するような深刻な危機感を生み出して行った。そのなかで、戦国大名と村との間で、村に対し、奉公すべき対象として「御国」をあげるようになり、「御国」のためになることは、村自身のためでもある、あるいしそうした奉公は「御国」にいる者の務めである、といった主張をするようになる。「御国」のために、という言葉は「くに」の平和を維持する行為が、同時に領国、国家、すなわち戦国大名家を維持する行為となることを示すものである。逆に言えば、戦国大名家を維持するための行為を「くに」の平和維持に繋がるものとして示そうとするものであった。すなわち戦国大名は、自己の滅亡が予測されるような非常事態にあって、領国内の村人を、その防衛戦争に動員するようになってきたのである。そのための村に対しての説得の論理とされたのが「御国」の論理であり、その登場は、戦国大名が、村の平和を維持しているのは、自己のお蔭によるものとする認識を生み出していたことによっている。それは具体的には、外部勢力との戦争に対処して領国の平和を維持していたこと、あるいは隣国の戦争をはじめとした、さまざまな紛争において、平和的解決をもたらしていたことによっていた、と考えられる。さらには納税者としての村の村立を維持するために、飢餓や戦争災害に対して様々な対策をとって、村の安定的存続である「村の成り立ち」の維持が図られていた。「御国」の論理は、このように戦国大名が「村の成り立ち」について、一定程度担っているという自覚を持つことによって、はじめて登場することができた論理と言える。それは同時に、村が、平和の確保や「成り立ち」の維持において、一定程度、戦国大名に依存していたことの反映と見ることができる。実際に、村の側にも、最も安全なのは大名本拠の城下町であり、最も危険なのは紛争地域に当たる領国境目である、とする認識が生まれるようになっていた。したがってこうした状況は、戦国大名の存立と領国内の「村の成り立ち」が一体化した関係の表現と理解されるであろう。逆に戦国大名は、村がこうした領国防衛のための負担を拒否すると、嫌ならばこの領国から去ればよいと領国からの追放さえ表明するようになっている。このようにして村は、自らの帰属すべき政治領域として、戦国大名を認識するようになった。

2014年8月27日 (水)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(1)

序章 戦国大名の概念

「戦国大名」という用語は、当時における史料用語ではなく、後世における歴史用語、すなわち学術用語である。したがってその定義については諸説あるのが現実である。そうはいっても想定されている対象は、相模の北条氏、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、越後の上杉氏、安芸の毛利氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏など、おおまかな一致を見ている。これらに共通するのは、戦国時代に存在した一定の地域を支配する「家」権力、という性格になる。したがってこうした存在をさしあたって「戦国大名」と括ることは有効であろう。それらに共通する性格、さらには前後の政治権力との相違を追究していくことで、その定義を確立していけばよいのである。またそのような政治権力については、領域権力と呼んでいる。支配が及ぶ地域が面的に展開していたからである。それは当時、「国」と称された。そのため戦国大名が支配する領域を領国と呼んでいる。領国は、線引きできるような、いわゆる国境で囲われた面として存在していた。その領国では、戦国大名が最高支配者として存在した。領国は、他者の支配権が一切及ばない、排他的・一円的なものであった。そこなは天皇や室町幕府将軍等の支配も及ばなかった。こうしたことは、戦国時代が、室町幕府が存在していたとしても、室町時代とは本質的に異なる、時代の特徴を示している。さらに政治権力が領域的に存在したとしても、戦国時代以前の列島社会にはなかったことである。排他的・一円的な支配の転回と、領域性は一体のものであった。以上をまとめると、戦国大名とは、領国を支配する「家」権力ということになる。念のため言っておくと、したがって「戦国大名」はある特定の個人を指すような概念ではない。一般的には、戦国大名家の当主をそのまま「戦国大名」と考えがちになるが、理屈からいうと決してそうではない。大名家当主は、「家」権力の統括者という立場であり、権力体としての「戦国大名」は、大名家当主を頂点に、その家族、家臣などの構成員を含めた組織であり、いわば経営体と捉えるのが適当である。

考えられる戦国大名の特質について、まずは領国を支配するということについて、権原についてである。戦国大名の領国は、当時においては「国家」と称された。領国とそれを主導する大名家が一体のものと認識され、それによって生じた用語と言える。したがって領国は、実質的にも名目的にも、一個の自立した国家として存在していたと捉えられる。

守護は、あくまでも将軍から任命される地方行政・軍政官にすぎなかった。守護の管轄地域は、決して守護の所領であったわけではなく、そこには将軍の直属す多数の人々の所領があった。その所領について、守護不入の特権を与えられることが見られていた。これはともに、将軍に従っているから成立し得た関係であった。戦国大名も、室町幕府や朝廷との間に、大名によって程度の差はあるが、幕府から守護職に任命されたり、幕府・朝廷から官位を与えられるなど、様々な政治関係を維持していた。特に畿内や最後の大名に顕著にうかがうことができる。しかし、幕府・朝廷と頻繁な関係を持っていたのは、畿内・西国の大名に限られている。戦国大名の存立は、あくまで自力によるものであり、たとえ室的幕府や朝廷と関係があったとしても、それは本質的なものではなかったことが分かる。

戦国大名の権力構造を端的に表現すれば、支配基盤としての「村」と、権力基盤としての「家中」の存在に特質付けられていたということができる。そうするとそり構造とは、領国支配を主導し、「家中」に対し主人として存在する大名家当主とそれを支える執行部、それらの指導を受け奉公する「家中」、両者からの支配を受ける「村」の、三者関係として認識することができる。したがって戦国大名は、「家中」と「村」が存続してはじめて存立することができる構造にあった。戦国大名という権力体が存立するためには、軍事・行政の実務を行う家来と、納税する村の両方が、それらの負担が可能な程度に存続していることが前提になっていたのである。したがってここらか、大名が支配下の村に対して、一方的、容赦のない収奪を行うなどということは、あり得ないことが分かる。そのようなことをして村々を潰すことになったなら。自らの存立そのものを危機に陥れることになったからである。

2014年8月26日 (火)

ジャズを聴く(11)~リー・コニッツ「インサイド・ハイファイ」

Inside Hi Fi   1956年9月26日、10月16日録音

Jazleeknitz_hifiKary's Trance 

Everything Happens to Me 

Sweet and Lovely 

Cork 'N' Bib 

All of Me 

Star Eyes 

Nesuhi's Instant 

(Back Home Again In) Indiana

 

Lee Konitz (as) 

Billy Bauer(g) 

Arnold Fishkind (b) 

Dick Scott(ds)  1956年10月16日

 

Lee Konitz (as/ts) 

Sal Mosca(p), 

Peter Ind(b) , 

Dick Scott(ds)   1956年9月26日

 

リー・コニッツという人は、同時代のサックス奏者がチャーリー・パーカーから何かしらの影響を受けていたのに対して、その影響を殆ど受けず、ユニークといえるほど独自の方向を持っていた数少ないプレイヤーで、不思議なことに彼の影響を受けた奏者が後世に一人もいないという人のようだ。その彼の姿勢は一貫していますが、自体と共に少しずつ変化もしていて1950年代のコニッツは、即興を突き詰めて追求していた、キレキレの演奏をしていたと言われている。独特のうねうねフレーズばかりが出て来るので、この時期の録音に対しては、好き嫌いが分かれると思う。その中で、このアルバムはスタンダード曲をとりあげて、その原曲のメロディーをちゃんと演奏しているという、当時のコニッツとしては珍しいもの。ただし、演奏の切れ味は絶好調で、当時のコニッツに親しむ入門用として格好なのではないか。

 

1曲目の「Kary's Trance」が白眉ともいえる演奏。エレキ・ギターが独特のほんわかした輪郭の定まらないサウンドで、不協和音的な響きの情緒不安定で緊張感を煽るようなコード弾きのイントロに導かれるように、コニッツが細い音で斬り込むように最初からアドリブフレーズで入って来ると、ギターの音と対照的でコニッツの鋭さが際立ち、うねうねフレーズにギターが時折ユニゾンで音を重ねていくあたりの一体となって疾走するスピード感と、シンバルを強調しブギウギのようなノリで煽るドラムスは、少し後の『Motion』のホットな疾走に繋がっていくものだ。さらに、ここでのコニッツのプレイは即興演奏のフレーズが、時折まとまったメロディの体を成しているまでいくようなところがある。当時のコニッツの即興プレイの大きな特徴は、メロディになりそうでならない微妙なところで、プレイが続く、いまにも音楽が生まれそうな、言うなれば胎児の状態の音楽のなりかけを剔出してみせる生々しさのようなところがあった。それが宙ぶらりんの彼独特の緊張感をうみだしているのだが、ここではメロディとなったときのカタルシスを一時期に味わえる、極めて珍しい演奏となっている。惜しむらくは、フェイドアウトして終わってしまうこと。次の「Everything Happens to Me」はスタンダード曲だそうで、頼りなげなギターのイントロに乗って、コニッツがちゃんとテーマを吹く。『Motion』での「You'd Be So Nice To Come Home To」のようにスタンダード曲のメロディをズタズタな解体してしまって、そのパーツをもとに最初から即興的にプレイをするのとは違って、ここでは、ちゃんとテーマを吹いて、流れるようにアドリブに移るのだけれど、それがあまりに滑らかに移ってしまうので、どこからがアドリブがわからないほど。それほど、コニッツの作り出すフレーズがクリエイティブだったということ。このアルバムでは他にも「Sweet and Lovely」「All of Me」「Star Eyes」「Indiana」がそう。いずれにしても、演奏のテンションは高い。

2014年8月25日 (月)

ジャズを聴く(10)~リー・コニッツ「モーション」

孤高のピアニストと言われるレニー・トリスターノの弟子からスタートしたアルト・サックス奏者。トリスターノは1940年代に黒人のビ・バップに対抗して、非常に理詰めに考えられた“クール”な音楽を追求した。ある人曰く。「ビ・バップの精密さと緊張感をさらに突き詰めて、ブルース・フィーリングと黒人的なグルーヴ感を除去すると、トリスターノの音楽が出来上がる」。その影響を受けて、コニッツは情緒をむき出しにしないクールな姿勢を持ち続けた。要するに、“俗受け大ブロー”や“センチメンタルな泣き節”といったポピュラー路線からは最も遠い人なのだ。コニッツは即興演奏であるアドリブに全力投球した人だ。その後、コニッツは長い活動期間を通じて、トリスターノの下を離れてから、だんだんウォームなサウンドに変わっていった。

Jazleeknitz_motion

Motion   1961年8月29日録音

I Remember You

All Of Me

Foolin' Myself

You Don't Know What Love Is

You'd Be So Nice To Come Home To

Out Of Nowhere

I'll Remember April

It's You Or No One

 

Lee Konitz (as), 

Elvin Jones(ds)

Sonny Dallas (b) 

 

5曲目のYou'd Be So Nice To Come Home Toはヘレン・メリルの名唱で知られるスタンダード・ナンバーだ。この曲がコニッツの手にかかると、“You'd Be So Nice To Come Home To~”と唄われるお馴染みの甘くて退廃的なメロディが、いつまで経っても聞こえてこない。コニッツは、この曲のコード進行だけをもとにしてアドリブを最初から最後まで押し通してしまう。しゃあ、この演奏がYou'd Be So Nice To Come Home Toだという意味がどこにあるのか、と言いたくもなるけれど。まるで曲そのものを最初から解体してしまったようで、だから分解的と言われることがある。

そのコニッツのプレイ自体は、同じ白人でアドリブ勝負のアート・ベッパーのように音色やヴィプラートのヴァリエィションで繊細な陰影で魅せるというのではなくて、ストレート一本勝負でアドリブのフレーズ創出にすべてを賭けている、というものだ。実際にコニッツのプレイを聴くと、不安定なフレージングのアドリブを延々と吹いていて、うねうねと細かな短いリフのような節がダラダラ続くように聞こえるかもしれない。コニッツに親しめない人は、それがダラダラと感じられて感情移入とか、乗ることができないのだろうと思う。コニッツのフレーズは音の飛躍が少なく、スムーズに流れるようなこともなく、階段を一歩ずつ上り下りするように訥々と音階の上下を繰り返す。ある人は分解的と呼ぶ所以だ。しかし、そのうねうねとした流りに乗っているうちに、恐ろしく新鮮だったり、キュートだったり魅惑的だったりする瞬間に出会うことがある。そしてまた、そうだからこそ、そのうねうねが恐ろしいほど緊張感を孕んでいる。それは、屈曲する激流を川下りするのにも似ている、あちこちで屈曲する川を下っていると屈曲した向こう側に想像もできなかった場面に出会うことがあるのだ。しかし、だからと言って油断していると激流に呑まれてしまうのだ。

ここでは、ペースとドラムだけの贅肉を削いだトリオという編成で、堅実にビートをキープするダラスのベースの上で、コニッツはテーマも吹かずアドリブ・ソロを吹き始める。それを包み込み、斬新なフィルインを入れてコニッツを挑発するのが、ドラムのエルヴィン・ジョーンズ。それを刺激に、また新しいラインを構築するコニッツ。それを聴いてさらにコニッツに迫るエルヴィン。ここでのプレイは、それだけ、それに終始し、徹底してそれをやっている。

そういうコニッツのプレイを聴いて、どう感じるか。かれのアドリブを追いかけるのもいい。これは、私の個人的妄想かもしれないけれど、最初に紹介したYou'd Be So Nice To Come Home Toのプレイを聴いていると、分解されてしまったようなフレーズが延々と呟かれるように演奏されると、それは音楽がメロディをかたち作る前段階の状態で、ずっと待機しているような感じがするのだ。例えていえば、活火山でマグマが噴火口近くまでせり上がってきて、大爆発するのを今か今かとまちうけているような、という感じだ。だから、コニッツの演奏というのは大爆発直前の期待が最高潮に達したワクワク感とか緊張感に漲っている。しかし、その反面、最後ところで肩透かしを食ったような物足りなさも感じてしまうのだ。だから、コニッツのプレイを聴いてカタルシスを感じるとか、爽快感を持てるということはない。だから、聴く側に一定のコンディションや構えがないと、受け容れることが難しくなるのではないか。私も、落ち込んでいる時や疲れている時には、聴こうとは思わない。その意味で、聴き手を選ぶといってもいい。

2014年8月24日 (日)

手続きの独り歩き…かな(4)

難しいことを、難しく話すということは、まあ、たいていの人はできる。そのまま話せばいいことなので。しかし、難しい話を、聞く人に分かりやすく話すということは難しい、とよく言われます。それは、当人が話の内容を十分理解していて、例えば書物で読んで得た知識であれば、それを比喩的に言えば肚に落とし込む、換骨奪胎して自分の言葉に置き換えることで、その知識が生き生きとしたものになります。また、当人にとってリアリティのあるものとして再生することになります。これが第一段階です。第一段階といっても、難しいことです。この段階で既に挫折してしまっているケースが多いと思います。もっとも、それ以前に、この第一段階があるということすら気づいていないケースも少なくありません。次の段階で、今度は分かりやすい説明にするという作業が第二段階です。このときに、説明をする相手が気心の知れた人であれば、どのような考え方をする人であるかとか、どのようなバックボーンをもっているかなどを分かっているのですが、そうでない場合、とくに不特定の人に説明する場合には、そういう土台なしに説明をしなければなりません。そういう場合に分かりやすい説明にするために、一つの方法として複雑な話であれば単純化させて、ある種紋切り型にしてしまうという手法は、かなり有効です。この場合、話を単純化させるためにはポイントを押さえ、それ以外のところを大胆に切り捨てるという作業をすることになります。それは、ポイントを押さえていなければまずは不可能です。そして、それ以外のところを切り捨てて、単純化してしまうことで誤解を招いてしまう危険に対して、責任を負う覚悟がないとできません。当人が、そのようなことができるまで、内容を理解するためには多大な苦労と長い時間がかかっていたはずです。それを短時間の説明で用意のない人に理解できるわけがなく、当人の話を聴いたとしても、いくら分かりやすくなっていたとしても、それは理解の入り口であるに過ぎません。

一方、それを聞く人は、どうなのでしょうか。多分、多くの人は単純化された紋切り型の説明で分かったということになってしまうと思います。それが理解のための入り口つまり、スタートであるにもかかわらず、ゴールであると思ってしまうのです。それによって紋切り型が一人歩きすることになります。しかも、件の説明者が単純化させるために、そのリスクを負ったのとは逆に、紋切り型をそのまま受け取って、それを流してしまう人はリスクを感じることはありません。だからリスクを負いません。そこで、その内容にたいして責任を持つということがなくなり、それに対して生々しいリアリティを感じるとか、あるいは反発するとかいうビビッドな反応が次第に遠のいていくことになってしまいます。そのときに起こるのが紋切り型の一人歩きという現象です。例えば、以前に述べたことで、本来の目的から離れたところで、その目的のための手段が一人歩きしてしまって、あたかもそれが目的であるかのようなことになってしまう。これは、メッセージの伝達のための効率を考えれば、避けて通れないことです。

抽象的すぎて実感しにくいでしょうか。例えば、私が以前携わり、このブログにおいても考えることを盛んに書き込んでいた企業のIRという業務について、企業が事業を発展させていくために必要、あるいは有効であるからこそ行われていることです。私の場合も、勤め先の会社にとってそれが必要であると考えたからこそ熱心にやっていました。だからこと、本当に必要なのかという見直し(自問自答)が必要なのです。それがなくて、ただ実行されているとすれば、もし必要性がなくなった場合であれば、費用の無駄遣いであり、企業の経営の足を引っ張ることになりかねません。それでも、IRをアピールするとかしていたとしたら、それは企業にとって損失です。極端なことを言えば、結果的に、その業務を行っている人は企業に貢献するのではなく、自分の保身のためにやっているということになります。それは、本来の目的ではなく、企業の目的のための手段である業務そのものが自己目的化してしまっている極端な例としてとりあげてみました。なお、付け加えますと、この場合、業務の必要か否かを判断するのは経営者であり、担当者の責任ではないという意見もあると思います。それはもっともなことだと思います。そうでれば、逆にその業務が企業の目的から外れないように、有効であり続けるように自問自答をしつつ軌道修正をしていくことが必要になってくるはずです。その場合には自己保身と企業への貢献が合致するわけで、たえずその方向にいるという、それがマネジメントというものではないでしょうか。それは時には自己否定も避けられないような考えることを常に課せられることではあると思います。

何事かを、とにかく責任を持って実行しようとするとき、最低限必要なことなのではないか、少なくとも自分ひとりではおわらず、自分以外の人と、そのことによって関わるという場合には、避けて通れないことではないか、と最近思っています。

2014年8月23日 (土)

ジャズを聴く(9)~ソニー・ロリンズ「サクソフォン・コロッサス」

ソニー・ロリンズのプレイの最も大きな特徴として、彼の創り出す音楽には歌がある、と言われる。

それは、ロリンズがメロディを情感タップリに嫋嫋と歌うように演奏するというのではない。端的に言えば、ロリンズの生み出すアドリブのフレーズのほとんどがメロディとして聴けてしまうということだ。試しに、他のサックス奏者のアドリブと聴き比べてみると、ロリンズのアドリブが突出しているのが分かる。普通、その場その場の即興で、そうそうまとまったメロディなど作れるものではない。かといって作り置いたものを用意しておいて使うにしても、そこで使えるとは限らないし、そもそも作り置いて新鮮さを失ってしまったものは、生ものであるアドリブとは相いれないだろう。著名なプレイヤーであっても短い節で、せいぜいがメロディのかけらのようなものをプレイしている。それと比べた時のロリンズの創造力の凄さだ。人間の創造力なんてたかが知れている。まとまったフレーズなんてそう簡単に作れるはずがない。仮に作れたとしても、そうたびたび目新しいものなど作れるはずがない。メロディというまとまった形をとれば、人の記憶に残り、似たようなものがあれば、すぐに見破られてしまうだろう。だから。そこで、プレイの度に瑞々しいアドリブプレイを重ねるロリンズが天才的だと言える。

さらに、ロリンズの歌い回しが絶妙で、クラシック音楽で、例えばショパンのピアノ曲を優れたピアニストは、左手で演奏する低音部でキッチリをとり、右手で演奏する高音部のメロディはそのリズムから間をとって心もちズラしたり、リズムを崩したりする。そこにピアニストの個性的な歌い回しが生まれ、独特の情感や余韻を作り出す。クラシックのピアノのテクニックでテンポ・ルバートと呼ばれるものだ。ロリンズにも、そこまで体系化されているわけではないが、おそらく本能的に独特の間の取り方や崩し方で個性を際立たせているところがある。それが、豪快で男性的とも言われるロリンズの演奏を味わい深いものにしている。それがロリンズの歌いまわしだ。

Saxophone Colossus

Jazrollins_colo_2St. Thomas

You Don't Know What Love Is

Strode Rode

Moritat

Blue 7

 

Doug Watkins (b)

Max Roach(ds)

Sonny Rollins(ts)

Tommy Flanagan (p) 

 

冒頭の「St. Thomas 」は“トンスト・トトト・トンスト・トトト”という軽快なドラムから始まって、ロリンズがそっと陽気でかつ翳りを秘めたカリプソ風のテーマ・メロディを吹く。これが有名な一節。初めて聞いたときは、何となく脳天気なメロディと思っていたが、何度も聴くうちに、実はこの何気ないメロディの演奏の背後には緊張感が張りつめていることが分かってくる。それは、この後の展開を知っているからこそなのだが、ロリンズは、テーマをワンコーラス吹いた後、これを何度か繰り返し、さらに、たった二音の単純なリフを何度も繰り返す。ここのことを次のように言う人もいる。“おそらくロリンズは、この繰り返しのところで、どんな方向へ向かって自分の歌を離陸させようか、探っているのだろう。つまりロリンズは勝手知ったる自作曲であっても、それをあらかじめ煮詰めることで完成へもっていくのではなく、即興の精神そのままに、自分の曲が演奏に臨んでどんな方向へと育っていくのかに、じっと耳を傾けるのだ。ロリンズはこのアルバムで、こうした綱渡りのような危険な賭けを─というのも、先の展開はその場の成り行きなのだからメチャメチャになる可能性をいつも孕んでいる─全編にわたって繰り広げている。それにもかかわらず、気軽に聴けばそれなりに楽しめてしまうのは、ロリンズならではの才能ではあるが、じっくり聴けば、これはけっこう緊張する演奏でもある。”そこまで、深読みしなくても、と思うが、それは聴く方にもひしひしと伝わってくる。単純なリフの繰り返しの度に、どんどん緊張感が高まって来るのだ。それを聴く方は、逆に期待感がどんどん高まっていく。実は、そういう緊張感の高まりが最初のテーマのところから徐々に高められてきている。しかし、その緊張感が高まっていくにつれて、ロリンズのサックスの音が徐々に軽くなっていくのだ。精神が緊張していくにつれて、音は逆にリラックスしていく。実際に、そこから始まるロリンズのソロは、吹きまくるということをしない。しかし、そこで出てくるのは、最初のテーマから、どうしてこうなってしまったのかと、まるでワープしてしまったかのような突拍子もないのだけれど完璧に歌となったメロディが出てくる。とくに、最初に一発カマすなどという必要がなく、フレーズで勝負してくるのだ。実際、ドラム・ソロが終わって、曲が後半に入るころ、ようやくロリンズは豪快に走り出す。それは、だから、そういうこともできる、という程度のアクセントなのだろう(とは言っても豪快で、力強いもので、その迫力は、簡単に真似のできるものではないだろうけれど)。そこには、豪快で、天才的な閃きに満ちているとはいいながら、フレーズ一本で勝負している愚直なまでのロリンズの姿勢が現われている。

最後の「Blue 7」は、わずか12小節のブルースのメロディを、ロリンズは原曲の小さい部分(モティーフ)を変えて、他の部分と結びつける際に、何ももとの順序に従う必要はないと、いくつかの目ぼしい音(X)に変化をつけて演奏し、別の数音(Y)に変化をつけ、さらに別の数音(Z)に変化をつけ、ふたたびYに変化をつけ、Xに変化をつけるというふうに演奏する。時にその変奏はテンポを倍加してパーカーふうな音の奔流となるが、それ以外では不可欠のもの、そう、たった二つの音、ひとつの音程にまで削ぎ落とされる。そういう極限まで研ぎ澄まされたような、夾雑物を排した即興に臨むロリンズには鬼気迫るものを感じる。

2014年8月22日 (金)

石井彰「木材・石炭・シェールガス」(6)

第6章 エコという迷宮

電気自動車は走行時に全くCO2を排出しないので、エコであると言われ、自治体などから各種の補助金が出されている。しかし、それに充電する電気は、発電段階で大量にCO2を排出している。とくに原子力発電所がほとんど停止した後では、発電の9割が火力発電となったので、さらにCO2発生量は大きく増えた。通常のガソリン車と比べて、電気自動車が排出する間接的なCO2は発電時に排出されるものと、リチウムイオン電池を製造する過程で排出するもの2つである。リチウムイオン電池を1キログラム製造するのに、50キログラム弱のCO2を排出しなければならない。それらを全てカウントすると、市販の電気自動車とほぼ同じ車格の低燃費ガソリン車と比べて、原発のほとんどが稼働していた頃でも電気自動車はCO2発生量が少ないとは必ずしも言えないのだ。ある推計では、リチウムイオン電池の充電回数寿命を勘案した電池交換を行うと、走行距離で10万キロメートルまで、すなわちほぼ車体寿命に至るまで、日本における電気自動車は、同車格のガソリン車をCO2排出量において下回ることができない。しかも、原子力発電所がない前提では、さらに電気自動車のCO2排出量は大幅増加する。もちろん、ガソリン車よりも、電気自動車の方が全体エネルギー・ロスがずっと少ないとの反論もあるかもしれないが、必要エネルギー量の桁が全く違うのである。仮に、ライフ・サイクルでの電気自動車のエネルギー効率が、同車格のガソリン車やハイブリッド車よりも2、3倍良いと仮定しても、逆立ちしても無理である。

もう一つ、電気自動車の燃費(充電コスト)は、ガソリン車より大幅に安いので、車体価格が大幅に高くても、利用者にとっては結局経済的だというのも、原理的には成り立たない。消費者の車体購入価格に対する大幅な公的補助金を別としても、電気自動車の燃費の安さには、原発フル稼働による夜間電力料金の大幅値引きと、消費者価格の3割が日本国による税金であるガソリンと異なって、電気料金にはほとんど税金が課されていないという2つのカラクリがある。この2つのからくりは近い将来にはほとんど消えることが確実だ。安全性への配慮から1日24時間定常運転せざるを得ない原発は、電気需要が大幅に減る夜間でもフル発電を続けざるを得ないので、夜間は原発の電気が余ってしまう。そこで考えられ、導入されてきたのが、夜間の電力需要を人為的に増加させるための夜間電力料金の大幅値引きだ。今後、原発による発電量が大幅に低下していくので、この割引制度は早晩雲散霧消ことが必至だ。一方、ガソリンと電気に対する課税の極端な不公平は、万が一将来に、電気自動車が石油駆動自動車の大半を駆逐したとすれば、現在巨額の道路関連予算に充当されているガソリン税収が激減するので、道路関連予算が維持不能になる。そうなれば、巨額の道路予算の確保のために、高率のガソリン課税の代わりに、高率の電気課税が必須となるだろう。

いずれにしても、電気自動車が自動車の主流になるには、原子力発電が震災前の数倍以上の規模になることが絶対必要条件なのだ。

 

2014年8月21日 (木)

石井彰「木材・石炭・シェールガス」(5)

第3章 第一の革命─再生可能エネルギーは環境に悪い

産業革命以前の経済の最大の制約はエネルギーだったと言われる。低効率の再生可能エネルギーに全面的に頼っていて、高効率で豊富な化石燃料を使用できなかったからだ。にもかかわらず、ほぼ全面的な森林破壊、森林払拭に代表される再生可能エネルギー利用による環境破壊は、現在とは比較にならないぐらい深刻なものであった。

風力葉電や太陽光発電などの新世代の再生可能エネルギーは、通常の火力発電や破滅的事故が起きない前提での原子力発電のコストに比べても数倍から5倍のコストがかかり、かつ不安定な利用勝の低い電源であることは明白だ。しかも、天気や昼夜に左右されて発電量や電圧が目まぐるしく変動する太陽光発電や風力発電は、火力発電や原発と比べて必要な時にいつでも電気を使える、というものではない。必要な時にいつでも電気を使えるようにするためには、機動性のあるバックアップ電源が必要であり、単独では利用できない。このバックアップ電源は、極めて高価な蓄電池か、天然ガスのシングル・サイクル発電、ないしは水力発電になるが、そのコストも上乗せしなければ、火力発電や原子力発電と本当のコスト比較にはならない。これを含めると太陽光発電や風力発電はさらに数倍もコストが高くなり、全く経済的な競争力はなくなり、社会的コストは極めて高くなる。不安定で効率の悪い再生可能エネルギーの実質コストは、元来非常に高いのである。言い換えれば、原理的に効率が非常に悪い。例えばリチウムイオン電池の蓄電コストは発電コストの平均の10倍以上にもなる。欧州では、既に再生可能エネルギーの固定価格買取制度で、財政負担や電気代上昇が限界的になっている。また、欧州の国々は、欧州、EU全体の大電線網に寄りかかり、不安定な風力発電や太陽光発電を大幅導入して、これまでバックアップコストをその他大勢国の電力需給の変動吸収能力に言わばタダ乗りしてきた。しかし、日本は島国であり、他国の変動吸収能力にタダ乗りすることは物理的にできない。さらに、一般に、風況がよく、大規模風力発電設備が建設できる地域・海域は、人口密集地や産業集積が大きくある地域ではない。それは原理的に裏腹の関係にある。その間をつなぐ大規模送電網を建設しなければならない。

たしかに、CO2排出という点では、それらの機器の製造過程はともかく、発電時には全く排出しない、環境負荷の最優等生に見える。しかし、環境問題はCO2排出=人為的な地球温暖化リスクの問題だけではない。エネルギー利用による、直接的な大規模生態系破壊は、それと同等かそれ以上の大問題である。化石燃料や原発の一定程度の補完的役割を超えた再生可能エネルギーの大規模導入は、コストの大幅上昇の問題を除いても、原理的に非常に大きな環境負荷の問題がある。薪炭などの伝統的なバイオエネルギーについては既に歴史に見たとおりだが、新世代の再生可能エネルギーも本質的には同じである。

大規模利用した場合に、直接的な生態系破壊が問題になる一番分かり易い例が、大規模太陽光発電、すなわちメガソーラー発電である。太陽光パネルを屋根や屋上、工場跡地などに小規模分散して設置するのではなく、大発電量を得ようとして農地・休耕田や原野、森林など、植生のある土地で一か所に大規模に地表に敷き詰めると、その下は太陽光が当たらなくなり、必然的に植物は生育できない。もちろん、それに依存している動物相も壊滅的な打撃を受ける。また、その地域全体の保水力も大幅に低下するので、台風などで大雨が降れば、たちまち洪水になる。また、夏場の快晴時には、大きな発電量は得ることができるが、パネルの色が通常黒色なので、パネルの温度は最高摂氏70度以上にもなり、その地域全体で強い上昇気流が発生し、局地的気象さえ変えてしまうリスクも指摘されている。もちろん、その場所で局地的にヒートアイランド現象を間違いなく引き起こし、設置場所付近の温度は大きく上昇する。耕作放棄地や休耕田をメガソーラー発電所にするのは、大規模な環境破壊である点では森林伐採と全く変わりがない。

風力発電や太陽光発電は天候次第で、分秒単位で発電量が目まぐるしく変動するので、大規模に利用するためには、あるいは独立してそれに全面的に依存する場合には、必ず発電供給量を安定化するための蓄電池、シングル・サイクルのガスタービン発電機などのバックアップ電源が必要となる。だが、何れのバックアップ電源の場合も、大規模に利用した場合には、別途大きな環境負荷も新たに生じる。例えばリチウムイオン電池は、その製造のためにリチウム採掘現場の精製・製造過程で大量の水を必要とし大量のCO2を輩出する。また、発電所をバックアップ電源とするのは、何のために無理してコストの著しく高い発電所に替えて、敢えて効率の悪い再生可能エネルギーを入れるのか意味不明になる。しかも、バックアップとしての使用は、天候によってつけたり、消したりを繰り返すので、常時利用にくらべて2倍のCO2を排出する。これなら初めから再生可能エネルギーを使用しないで火力発電の常時使用の方がCO2排出量が少ないということになりかねない。なにしろ、現代人は、再生可能エネルギーに全面的に依存していた産業革命前に比べて、凄まじいまでに厖大なエネルギーを使用して生活し、社会を維持しているのである。

2014年8月20日 (水)

石井彰「木材・石炭・シェールガス」(4)

水力発電は、歴史的には水車そのものの発展型である。最古の水車は古代ギリシャ等で発明された、水平に回転する水車で、この水平水車は18世紀ごろまで使用された。紀元前後のローマでは、垂直に回転するより汎用性の高い水車が発明され、歯車と組み合わされて、動力をいかなる方向にも供給することが可能になった。垂直式の水車は大型化が容易で、数馬力程度の水車が製作され、灌漑や製粉に使用され始める。川だけでなく、中世ヨーロッパでは海岸で使用され実用化されている。水車は次第に大型化、効率化された。水車の欠点は、川などに立地が制限されだけでなく、冬の川の凍結、夏場の渇水、大水の際の破壊などで、定常的な稼働が困難であったことだ。また、産業革命後の石炭による蒸気機関等に比べると、大出力を出すのは極めて困難であった。この水車を発電機を動かす動力として、1870年代、英国で世界初の水力発電所が誕生した。日本では、1888年に宮城県で水力発電が開始され、各地に次々と建設された。いずれも、今日でいう既存水路を利用した小型水力発電で、言わばその場で電力が消費される地産地消発電であり、自然破壊の程度は僅かなものであった。長距離送電を前提とした水力発電所は1907年、日本初の大型ダムを伴う大型水力発電所は1924年の大井ダムで、その後1960年代から70年代に次々と大型ダムが建設された。その代表的なクロヨンダムの出力は33万キロワットで、今の原子力発電所1系列の4分の1程度、天然ガス火力発電所の1系列の半分程度に過ぎない。もし現時点において、このような巨大ダムを新たに建設しようとしても、自然愛好者、環境派の反対運動で建設は不可能だろう。発電量と自然環境破壊のバランスの釣り合いが全く取れていないからだ。また、このダムがある黒部川が注ぐ日本海の海岸のすぐ東側、すなわち潮流の下流側にある、新潟県糸魚川市の姫川河口付近の海岸は、多数の大型ダム建設によって黒部川などの西側の川からの砂の供給が絶たれたため、年々砂浜海岸浸食されてほとんどなくなってしまっている。ただし、大型水力発電所は、再生可能エネルギーの中では最優等生である。なぜならば、出力あたり、あるいはエネルギー供給量当たりの自然生態系の破壊程度は、メガソーラー発電所や風力発電所等に比べれば小さく、しかも再生可能エネルギーの中では最も発電コストが低い。かつ最も供給量が安定しており、また機動性(電力需要の変動に応じた出力の随意の調整能力)も高い。コスト、安定性、供給可能量の面では火力発電や原発に肉薄し、機動性の面では石炭火力や原子力を遥かに上回る。水力発電は古くから実用化され、日本でも世界でも、地理的条件が許せば主要電源の一つとして信頼され、大規模に利用されているのである。他のすべての再生可能エネルギーは、原理的に、効率・コスト・安定性・信頼性・環境負荷などの全ての面で水力発電ゆりも大きく劣る。特に日本は、年間平均降水量が1500ミリを超え、地形が非常に急峻という、世界的に見ても水力発電に最も恵まれている国である。この水力という、再生可能エネルギーの中で最も優れ、かつ世界的に見て国土面積当たりで最も恵まれている水力資源をほぼ目一杯使い尽くしても、日本の電力総需要の僅か8~9%を賄っているにすぎないのである。しばしば、テレビなどで先進諸国の中で最も再生可能エネルギーに対する依存度が高いスウェーデンの事例が紹介されるが、スウェーデンの再生可能エネルギーの大半が水力発電である。しかし、スウェーデンは国土面積は日本とさほど変わらないが、人口密度が日本の20分の1程度しかない。それだけ日本は、国土面積に対して人口と産業規模、すなわちエネルギー需要密度が大きいのである。これは、人口密度が低く、経済規模が小さい北欧諸国等と再生可能エネルギーの導入比率を比較する場合に決定的なポイントである。

一方、水車は3000年前のエジプトから灌漑用に使用され出したが、水車と同様の種々の用途に本格的に使用されだしたのは7世紀のイスラム圏であり、欧州では12世紀からである。水車同様に水平回転方式と垂直回転方式があり、垂直回転方式の方が後から発明されて、より出力・効率が向上した。風車は水車に比べると、文字通り「風任せ」のため、更に使い勝手が悪く、稼働率も圧倒的に低かった。風車は水車よりも維持費もかかった。だから、川がほとんど流れない全くの平地や、低湿地のために水車がほとんど使えない場所、乾燥地で水車があまり使えない場所以外ではそれほど普及せず、水車の補完的位置づけに過ぎなかった。この水車と風車の歴史的な優劣関係は、今日での水力発電と風力発電の原理的な優劣関係と同じである。風力発電は、単に風車に発電機を取り付けたものにすぎず、原理的には何ら新しくない。近代以前のように風車に粉ひきやポンプの動力源として直接使用するのではなく、より利用の汎用性を得るため、動力の長距離移送のために、発電機をつけて電気に変換したに過ぎない。風力発電は1930年代のアメリカ中西部でブームになったことがある。農家と農家の距離が離れている中西部では、送電線網を建設するのはあまりに効率が悪すぎた。そこで水ポンプや冷蔵庫、照明、ラジオを駆動するために送電線が要らない風車を利用した風力発電機と蓄電池をセットしで各農家に設置することがブームとなったのである。しかし、風が吹くときは発電できるが、そうでない時はまったく発電できず、しかも発電できるときは電圧がふらつき、蓄電池があっても使い勝手が悪く、コストも非常に高かった。冷蔵庫やポンプのように、発電量や電圧が多少ふらついても、何とか意味のある利用が可能な機器なら良いが、それ以外の電気機器ではそうはいかない。祖孫送電線網が整備されるとともに風力発電は駆逐されていった。

2014年8月19日 (火)

石井彰「木材・石炭・シェールガス」(3)

第2章 再生可能エネルギーの世界史

現在は、すでに述べたように相反する3つのエネルギーの「反革命」が進行中だ。言うまでもなく一つは、過去2回の真正エネルギー革命に反する、中世以前へのエネルギー回帰、復古運動ともいうべき、再生可能エネルギー導入促進運動だ。再生可能エネルギー推進派は、これは革命であるとしているが、エネルギーの歴史から見れば、間違いなく復古、反革命である。二つ目は、北米におけるシェールガス・シェールオイルの爆発的増産、資源量増大という「シェール革命」、すなわち再生可能エネルギー派からは、むしろ再生可能エネルギーによる「真の」エネルギー革命に反する「反革命」と見られている動きだ。三つ目は、同じく「石炭から石油へ」の第二エネルギー革命への反革命である、「石油から石炭」への再移行だ。

まず、再生可能エネルギーの導入促進運動が、なぜ反革命なのかをもう少し具体的に説明しよう。メソポタミア、インダス、黄河な゛との古代文明では、人口増加に伴う、農地拡大による森林破壊もあるが、通常は過度な薪炭採取によって森林が破壊された後に、農地として利用されたケースが大半と考えられる。薪炭の過度の利用→森林破壊→農地拡大→人口拡大→薪炭の更なる需要拡大と回転していき、遠からず環境崩壊に突き当たり、人口崩壊することになった。生活の維持に必要な、暖房・調理・土器製造・金属機器の冶金用・レンガ製造・窯業などの熱源は、世界中で薪炭がほとんどであった。薪炭の最大の問題は容易に手に入るので、長期的には再生可能であるにもかかわらず、容易に資源枯渇しやすいことであった。

欧州では、中世以降に次第に興隆してきた製鉄・金属産業や、窯業、レンガ製造、製塩、暖房、炊事の燃料として、18世紀まで森林を大量破壊してしまった。スイスやオランダの全面積に相当する森林が4年ごとに消滅していた。これは、建築用や造船用の木材需要を除外してである。だから、当時の風景画や人物画の背景は、はげが山が実に多い。このままでは、欧州も古代文明のように砂漠化、荒廃化の進行が必至であった。特に英国では18世紀初めまでには、ほぼ森林が消滅し、価格高騰で木炭を使えなくなった製鉄業や窯業が存亡の危機に瀕するようになった。そのため、それまでは存在を知られていたが、汚く、地中深く掘削するのが困難なために打ち捨てられていた石炭の本格使用を始めた。最初は石炭を製鐵に使用するのは、不純物が多くて極めて困難だったが、やがて石炭を蒸焼きにして不純部を取り除き、純粋の炭素成分に近くしたコークスを使用することで、これを解決した。この結果、むしろ木炭使用よりも製鉄の効率化がよくなった。これが産業革命に結びついていく。元来、西欧・中欧は大森林地帯であり、「木の文明」であった。家も家具も、公共建築物も乗り物も農具も機械類も燃料も、ほとんど何もかもが楢を中心とした木でできていた。今日、欧州の多くの地域では、住居や建築物の大半は石・煉瓦・コンクリートなどでできている印象が強いが、これは中世から近世に至る時代に、欧州では森林資源の大半を蕩尽してしまい、木材が払底した結果である。欧州は中世から18世紀にかけて、主として燃料用として薪炭需要を賄うために森林を徹底的に破壊してしまったから、近代になってやむを得ず石、煉瓦、コンクリート製の住居が主流になったのである。

森林枯渇、森林破壊によって石炭の本格的利用という、言わば「怪我の功名」である産業革命が生じたことについて、20世紀初頭のドイツの経済学者ソンバルトは「18世紀に、木材不足によって資本主義の終焉が目前に差し迫っていた。しかし、石炭は資本主義を、さらに欧州の文明的進歩そのものを救った」と指摘している。薪炭、牛馬から石炭への「強制された移行」は、単に結果的に経済的幸運を生んだ竹ではなく、欧州の森林回復への大きな福音となった。建造物の構造材などの材木としての利用も、石炭をはじめとして化石燃料が大量使用され出した後は、より強度があり、加工しやすい鉄骨などの金属材料、煉瓦、コンクリート、20世紀に入ってからはプラスチックにほとんど代替されて需要が減少し、森林復活に大きく寄与した。これから金属材料、煉瓦、コンクリート、プラスチック類の製造には、莫大な量の化石燃料が費やされる。

当然のことながら、日本でも事情はまったく同じであった。

2014年8月18日 (月)

石井彰「木材・石炭・シェールガス」(2)

第1章 「エネルギー反革命」の時代

エネルギーの歴史、人類史を振り返ってみれば、再生可能エネルギーへのシフトは、新しい時代に入る「革命」や技術「革新」などではなくも中世以前への回帰、一種の復古運動である。少なくとも、進歩史観に沿ったバラ色の将来は見えてこない。

18世紀の英国において、人類史上初めて大量の石炭を利用することによって発生した産業革命は、本当意味での革命であった。それによって、エネルギー源の効率と供給可能量が一桁上にジャンプして、その結果、世界人口は僅か200年の間に10倍にまで爆発し、世界の平均寿命は2倍以上に伸びた。それ以前、人類は再生可能エネルギー源しか利用できていなかった。薪、炭、畜糞、水車、風車、牛馬、帆船、人力が、産業革命以前の人類が使用していたエネルギー源の全てである。わずかな例外はあるものの、薪から人力に至る、中世までの人類が利用し得たエネルギー源の全ては、再生可能である。エネルギー源の人類史を繙けば、狩猟採集経済以来の再生可能エネルギーから18、19世紀の欧州に至ってはじめて石炭が本格的に使用されるようになった。さらに20世紀前半から半ばに米国で石炭から、より効率がよく、使い勝手が良い石油へ主軸エネルギー源が移行して、それが世界にも伝播した。再生可能エネルギー⇒化石燃料⇒原子力というのがエネルギー史の大きな流れであり、再び、再生可能エネルギー主軸の時代が仮に来るとすれば、それは「革命」ではなく、「反革命」「復古」ということになる。

CO2をほとんど排出しないエネルギー源と言う意味では、再生可能エネルギーが環境に優しいエネルギー源であることは間違いなく、今後重要性が増してくることは当然だろう。日本でも世界でも、今後新世代の再生可能エネルギー源の導入量が3.11以前の数倍から数十倍、百倍にもなるだろう。しかし、人類社会が直面している深刻な環境問題、環境負荷というのは、何も地球温暖化問題だけではないという点があまりにも意識されていない。1990年代以前は、環境問題とは、経済開発による世界的な森林面積の大量消失や、化学物質・毒物による汚染、生物資源の絶滅・枯渇などの、人口急増と経済開発に伴う様々な文明の存続と人類の生存を危うくする不都合な現象全体のことであり、CO2排出による地球温暖化はその一部の問題であった。

現代の化石燃料や原子力のかなりの部分、例えば3割とか半分とかを再生可能エネルギーに代替した場合には、桁違いに温暖化以外の環境問題を深刻にし、また同時に著し低効率であり、使い勝手が悪いがために、現代文明、現代社会の存続を危うくさせる。すなわち、巨大な人口崩壊の危険をもたらすのである。これは全く原理的な問題であって多少の技術革新ではどうにもならない宿命、業である。化石燃料が数百年というタイムスパンでではいずれ枯渇するという原理的宿命とCO2排出という業を持っていること、原子力が常に放射能汚染のリスクを原理的宿命、業として持っていることと、全く同じことである。エネルギー源の大量利用と環境破壊の矛盾、深刻な二律背反は、何も20世紀末に至っては自明人類が直面した問題ではない。人類が狩猟採集生活から古代文明に移行した時代から何度も直面してきた、極めて「伝統的」で深刻な構造的問題、根本矛盾である。この矛盾が深刻化して崩壊した古代文明は、世界史上枚挙にいとまがない。この最も基本的な環境とエネルギーの関係史の毛騎士的事実を認識せず、反革命と革命とを完全に取り違え、そのことを全く意識すらしていない議論があまりに多い。エネルギーと環境の構造的な矛盾の問題に簡単な解決策は存在しないし、原理的に存在し得ない・まずは、この冷徹な事実かを見つめることから始めないといけない。

人類史を振り返ると確固とした2つのエネルギー革命が存在する。最初は、18世紀中葉における産業革命時の石炭の大量使用開始である。この産業革命発生の理由は、単に偶然、英国に石炭資源が豊富にあったからだけではなく、石炭の産出/投入比率、すなわちエネルギー源としての効率が、それまで使用していた薪炭などの再生可能エネルギーに比べると圧倒的に高かった、換言すると、本源的コストが圧倒的に安かったからである。その理由は、石炭はワットの蒸気機関と組み合わさることによって、石炭をエネルギー源として蒸気機関を駆動し、その蒸気機関を利用して石炭を掘る、すなわち「石炭で石炭を生産する」というスパイラル的な拡大再生産が可能になったからである。英国において、石炭が本格的に使用され始めたのは、18世紀初頭までに、それまでに次第に拡大してきた鉄鋼業、窯業などのために大量の薪炭を使った結果、国内の森林を伐採し尽くして、全く薪炭が手に入らなくなったからである。それまで、燃料として存在自体は知られていたが、見た目が汚く、硫黄分を含むため燃焼させると臭くて黒い煤煙が出るとし、しかも地中から人力や牛馬の動力で掘り出すには大きな困難が伴ったので、取得が容易で臭い煤煙の出ない薪炭に大きく劣る燃料としてしか見られず、本格的に利用されることはなかった。英国内の森林絶滅によって、止むに止まれず薪炭の代わりに利用し始めた石炭が、たまたま同時期に発明されたワットの蒸気機関と結合して、地下の石炭坑道において排水、換気、地表への搬出が機械化できるようになり、安価大量に供給されるようになったのである。いわば森林枯渇による怪我の功名である。

一方も第2のエネルギー革命は、第一次世界大戦前後から徐々に始まり、1950年代に至って一挙に日本を含む世界に拡大した、石炭から石油への燃料大転換である。

2014年8月17日 (日)

石井彰「木材・石炭・シェールガス」(1)

まえがき─歴史と原理が蔑にされている

いわゆる「クリーン・エネルギー」、太陽光、風力発電などの再生可能エネルギーを仮に化石燃料や原発を大きく代替するほど大規模に導入した場合、確かに二酸化炭素削減には効果がある。しかし、逆に化石燃料や原発などとは比較にならないほどの凄まじい生態系破壊、すなわちグリーン破壊が必然的に生じて、全くグリーンとは程遠くなるという皮肉な原理がある。もちろん、実質コストが著しく高く、生活水準、経済水準を大きく下げてしまうという問題もある。これは、エネルギーと環境の相互作用の歴史を、ほんの少し振り返ってみれば、たちまち明らかとなる。

再生可能エネルギーは、薪炭などのバイオエネルギーや水車、風車、動力・交通用の牛馬など、太古から人類の歴史とともにずっと利用されてきたものであり、決して新しいものでも何でもなく、18世紀の産業革命以前は、人類は再生可能エルネギーに100%依存していた。この極めて基本的なことをわきまえていない素朴な議論が、これまでかなり横行していた。例えば、風力発電は、中世以来使用されてきた風車に発電機を取り付けて汎用性を高めただけのモノ、水力発電も、古代からの水車に発電機を取り付けただけのモノである。量子論を応用した太陽光発電でさえも、地表面積当たりでエネルギー密度が非常に低い、フローの太陽光エネルギーを直接利用するという巨視的な意味において、同様にフローの太陽光エネルギーによる光合成を利用した太古からの薪炭利用の、効率と汎用性が若干高くなっただけのモノと言えなくもない。しかし、化石燃料を本格的に使用し始めた産業革命の前は、再生可能エネルギーの原理的な供給量の限界、効率の限界によって、世界の人口、あるいは生活水準や平均寿命は、現在とは比べ物にならないほど低かったし、それにもかかわらず、薪炭利用のための森林伐採を中心に自然環境は激しく毀損されて、17~18世紀の西欧も、古代・中世の中国も、江戸期の日本も、まさに砂漠化、国土崩壊の寸前だったのである。この極めて重大な歴史的事実が、ほとんど忘れられている。この砂漠化、国土荒廃による文明破壊の危機を救ったのが、産業革命による石炭をはじめとした化石燃料の本格的利用だったのである。驚くことに、いわゆる環境派と言われ根人々の多くが、この最も基本的な環境史の事実を認識していないようだ。

2014年8月13日 (水)

5年目になりました

おかげさまで、このブログを始めて5年目に入ります。

とりあえず、継続第一で内容なんぞは二の次で、質より量で毎日アップすることを続けてきました。元来、飽きっぽい性格で、何をやっても三日坊主だった私が、何とか続けることができたのは、個人的だったり、ネットを通じてだったりで何人かの方からのリアクションをいただくことができたからでした。昨年のちょうど今頃、突然不本意な事態に直面し、間髪を置かずに入院することになったときも、励ましていただいたり、我が事のように真摯に考えていただり、ということがあって、何とか過ごすことができました。1年前と客観的な状況は変わっていませんが。毎日、何とか前向きな気持ちになることができているのも、ここでブログを続けさせていただいているがゆえです。

今では、このブログを続けているのは生活の一部と化し(たまに休むのは、過度のアルコール摂取によるものです)、一日のなかでの貴重な時間となっています。これからも、続けていきたいと強く思っています。

たまに、気が向いたときに覘いていただいて、おっさんが懲りずにやっていると呆れてもらえると、うれしく思います。

なお、お盆のため、数日アップを休みます。

2014年8月12日 (火)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(18)

第6章 時間と他なるもの─「現象」の外部へ

1.時間とは何か─「不在」ということ

時間は、私たちの世界が「現象すること」の基本様態である。どんな世界の現出も何らかの仕方で時間的様相を帯びていないものはない。「一」という「数」が「一」として現象するとき、それは必ずやその現象を見てとる誰かに対してなのであり、それは誰かが「一」を考え・理解すること以外ではあり得ない。そしてこの「考える」ことはすでに、あるとき・どこかでという時間的・空間的様態を帯びている。このように、時間は空間とならんで世界が現象することの基本様態なのである。したがって、<世界が現象すること>そのことを超越論的現象学が問おうとするのであれば、それは当然、そのことの基本的様態としての「時間」を問うことを避けて通ることはできない。

「時間」は、語の普通の意味で「現象するもの」ではない。それはちょうど、かつて『イデーン』期のフッサールが、「純粋自我」に関して「一種独特な超越としての<内在における超越>」と呼んだのと同じような困難を伴った問題事象なのである。ここで「純粋自我」を引き合いに出したのは、たまたまのことではない。世界に現象する多様なものが、その多様さにもかかわらず<ひとつの流れ>としてのある統一をいつもすでに有していることが、フッサールをして「純粋自我」という考え方へと向かわせた次第を私たちはすでに見たが、この同じ事態を彼はまさしく「時間」として捉え直し、『イデーンⅠ』では保留し・棚上げにせざるを得なかった「純粋自我」の解明を、「時間」の解明として行ったのである。

「時間」に関して彼が明らかにしたのは、次のような事態であった。まず彼は、時間が次のような構造を持った一種の構造体であることを析出する。現象するものの全領域は、当の対象が直接にありありと現前している「現在化」領域と、あたかも直接に現前しているかのような仕方で現前する「準現在化」領域に区分される。前者が時間位置としての「現在」に対応しているのに対して、後者は「過去」ならびに「未来」に対応する。ところが時間の実態に即してみると、この二つの領域は必ずしも截然と区別されない。というのも、「現在」なるものは決して時間上の点のようなものではなく、常にある「拡がり」や「幅」をもっており、この「拡がり」の中には「たったいま」という仕方ですでに過ぎ去ってしまい、もはや現前していないものや、「ただちに」という仕方で現前へといたるべく準備しているものがすでに入り込んでいるからである。このような仕方で「現在」の内に入り込み、当の「現在」の「幅」を構成している「もはや/いまだ現前しないもの」は、先の「準現在化」領域に属するものであり、この場合の<もはや現前しないものをなお現在の内に、あたかも現前しているかのように保持するはたらき>が「把持」と呼ばれ、<いまだ現前しないものをすでに現在の内に、あたかも現前しているかのように予め招き入れるはたらき>が「予持」と呼ばれる。そして「現在」の中核には、まったき意味でのありありとした現前を構成する「原感覚」ないし「原印象」と呼ばれる契機が含まれていると考えられる。こうして「現在」とは、その内に「現在化」と「準現在化」という二つの異なるはたらきが介在し、連続的にそれらが移行しあうところであることになる。ここでの「把持」や「予持」は、本来の意味である「想起」や「予期」とは厳密に区別される。なぜなら、本来の意味でのそれらにおいては「現在」との関係がいったん切り離され、「現在」とは異なる時間位置を占めるものとしてそれぞれの対象が姿を現わしているのに対して、「把持」や「予持」においてはそれらの対象は「現在」との密接な関係の中に保持されているからである。

時間が絶えざる流動であることの根本は、「現在」において「現在化」と「準現在化」が絶えず連続的に移行しあうことの内に見届けられる。すなわち、「予持」という仕方で現前へと待ち受けられていたものがただちに現前へと移行し、瞬く間に「把持」における「たったいま」へと移行する。そのとき、先の「予持」のさらに先で現前へと待機していたもの(準現在化)がいまや現前(現在化)へといたり…、以下同様というわけである。問題は、このとき移行し合うのはあくまで何らかの「もの」ないし「こと」以外ではない、という点にある。そもそも「時間」は「もの」ても「こと」でもないのだから、「時間」という構造自体が「流れ去る」ことなどありえないのである。すなわち、「時間」が流れ去るのではない。「何ものか」が流れ去るのであり、それが「時間」なのである。この「何ものか」すなわち「自己同一的なもの」とは、絶えざる流動の内で自らを失うという仕方で、当の失われたものが自己自身のもとにあったこと、つまりは自己自身を所有するという事態が成立していたことを逆説的にも証しするもののことであった。しかもこの自己所有は、それがもはや失われたものとして姿を現わした時、決して完全に失われてしまったわけではないのである。それは失われたものとして保持されてもいるのである。想起=記憶とはこのことに他ならない。これらの事態はいずれも「不在における現前」という構造を共有しており、すなわちあの「想像力」という特異な能力によって一挙に成立したのである。想像力が「不在における現前」の能力として私たちのもとに姿を現わすことと、何ものかが自己自身のもとにとどまりうること、そしてすべてが流動してやまないこと、これら三つの事態はいずれも一挙に成立したのである。つまり「万物流転」は、決してほかの二つの事態に先行していたわけではないのである。流れ去る「何もの」も姿を現わさないのであれば、そもそも「流れる」ということ自体が成り立たないのであり、流れ去る「自己同一的なもの」の成立は「想像力」によってのみ可能となったからである。それらはいずれも、いわば「等根源的な」事態なのである。あえて「根源的」というのであれば、それは三つの事態を集約した「記号」という事態、すなわち<あるものがみずからの不在という仕方で、みずからでないもののもとで、みずからを現前へと至らしめる>という事態の成立であろう。この構造の内の「不在」という契機をもっとも鋭く体現しているのが、「時間」という事態なのである。

この絶えざる不在化において、何ものかが現象する。<何ものかが存在する>という事態は、それが絶えざる不在化であることと表裏一体なのである。フッサールが、「世界の現象すること」の基本的構造としての「時間」という事態の内にこうした仕方で「記号」という構造を突き止めるに至ったことは、ほぼ間違いないと思われる。彼が「現象すること」という事態の成立の根本に「記号」という構造が隠れているのを突き止めるにあたっては、次の二つの事実の発見が決定的であった。第一は、時間分析においては「統握」と「統握内容」という枠組みが有効に作用しないことの発見である。彼は当初、時間についての意識を、把握された事態の内容(「統握」)に対する、その把握の仕方ないしはたらき(「統握作用」)のヴァリエーションとして分析できると考えていた。例えば「本を読む」という「統把」に対して、「本を必ず読む」とか「たまたま本を読む」というようにその把握の仕方は様々に変様することができる。この把握の仕方の変様ひとつに時間意識を組み込むことができる、というわけである。すなわち「いま、本を読んでいる」とか「かつて本を読んでいた」というように。この場合、中核にある統握内容自体は普遍の項、すなわち同一の内容でなければならない。ところが、たとえば「現在」の出来事について不可欠の構成契機である「把持」において与えられているものは、「原感覚」において与えられている「感覚与件」と同じものではない。同じでないどころか、全く別の在り方をしている。いまわたしがある音を聴いているとすると、原感覚において与えられている音は現に鳴り響いている音でもなければ、その残響でもない。それはあくまで「もはやない」音なのである。そうだとすると、原感覚と把持では、そもそもの「内容」をなす与えられているもの自体が別物であることになる。これはすなわち。原感覚から把持への移行において生じているのは、いったん与えられたものの把握の仕方の変化ではないことを示している。「いま」与えられているのが実際に鳴り響いている音の「感覚」であるのに対して、「たったいま」において与えられているのは決して「感覚」ではない以上、そう言わざるを得ない。したがって、時間意識には「統握─統握作用」という分析の枠組みが通用しないのである。

フッサール自身はそこから次のような事実に直面する。把持(「たったいま」)が把持であるためには、そこで把持されている当のもの(「いま」)がなくてはならないのだが、その「いま」が何ものかの感覚的現前であり、他方で「たったいま」の内には「感覚」はもはや含まれていないのだとすれば、把持の方から感覚的現前への通路は断たれていることなる。別の言い方をすれば、把持である「たったいま」の内に含まれている「いま」は感覚的現前であるかぎりでの「いま」ではないのである。では、感覚的現前である限りでの「いま」はどこにあるのか。フッサールは、現前ということの中核をなしているはずの「感覚」に「生き生きとした現在」の名を与えこの端的な現前の在りかを探そうとする。ところが、私たちの経験の事実が示すのは、まさしく一瞬も止まることを知らぬ絶えざる流動以外の何ものでもない、ということなのである。「いま」と思った途端に、それはすでに「たったいま」に移行してしまっており、すべては常に「把持」への連続的移行でしかないのである。逆に言えば、私たちが「いま」すなわち「現在」として認識ないし経験しているものは、当初より彼が示していたように、つねに「準現在化」が浸透したそれであって、そうした「準現在化」を含まない<何ものかの端的な感覚的現前>など、どこにも存在しないのである。

フッサールはこの事態を「生き生きとした現在の謎」と呼んで、この前に立ち尽くす。ここで彼は、自らの分析を導いてきたもうひとつの基本的枠組み、すなわち<「現在化」と、その変様にして派生形態としての「準現在化」>という枠組みの解体の現場に立ち会っているのである。かれを記号という事態へと導く第二の発見である。私たちの経験に与えられているのが、いつでもすみずみまで「準現在化」に浸されたものでしかないのだとすれば、すなわちどこにも純粋な「現在」が存在しないのだとすれば、「準現在化」は「現在化」がひとたび現われた後の、その変様態ではなく、「現在」ということが意味を持つとすればそれは「準現在化」においてでしかないこと、この意味で「準現在化」の方が「現在化」を可能にしていることを、それは示しているのである。この事態は何を意味しているのか、話を単純化するために、経験の「過ぎ去りゆく」側面にのみ注目してみる。私たちに与えられているものと言えば、それは「把持」の連続体のみ、すなわち<絶えざる過ぎ去りの中で、失われた「いま」を「たったいま」という仕方で保持するはたらき>の連続体のみであることを、先の分析は示していた。これは失われた「いま」を「たったいま」として、まさしくそれが失われたものである限りで現象へともたらす「記号」という事態にほかならない。つまり、「現在」の中核をなしているはずの厳密な意味での「いま」を「たつたいま」として、まさしくそれが失われたものである限りで現象へともたらす「記号」という事態にほかならない。つまり、「現在」の中核をなしているはずの厳密な意味での「いま」、すなわち「たったいま」がかつての自己自身として遡示している「いま」そのものは、いつも不在なのである。「原感覚」「生き生きとした現在」などは「現象するもの」の中核にあってその現象性を支えるある種の「根源」であるはずなのだが、それらがいつも不在であることが私たちの現実を、すなわち私たちの世界を構成していているのである。

もし、時間の源泉と目された「生き生きとした現在」が「不在」であるとするなら、いったいこの「時間」という事態はどこから与えられたのか、という問題が生じはしないか。源泉が不在であるにもかかわらず、それは現に与えられているのである。

2014年8月11日 (月)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(17)

2.純粋自我から世界へ─「経験的すること」そのことをめぐって

以下では、フッサールの超越論的現象学の構想にとって、「純粋自我」の問題を超越論的次元で徹底して問うことが不可欠であること、ならびにそれが私たちをどのような地点に導くものであるのかを明らかにしたい。

フッサールは、自我をめぐる自身の分析が『イデーン』期においては結局不十分なものに終わらざるをえなかったことを後年自己批判して、みずから軌道修正する発言をしていた。例えば世界の実在性などは典型的な「超越」(すなわち、その根拠が必ずしも明白でないままに、そのそれ自体での存在─即自存在─が暗黙の内に信じられているもの)であり、この「超越」を一旦機能させなくすることが「遮断」すなわち「スウィッチを切ること」であった。「内在」への還元である。ところが「純粋自我」は、その存在をこの意味での「内在」に還元することができないにもかかわらず、「遮断することは許されない」「一種度得な超越」だというのである。それが「内在」に還元できないのは、それは決して体験の多様な中に対象として姿を現わしていないからである。そうであるにもかかわらず、それを「遮断」できないのは、それが「現象するもの」の多様を統一し・中心化する機能をはたしているのでなければ、「内在」の領野において紛れもなく「多様な体験の一つの流れ」が成立していることの説明がつかないからにほかならない。したがって、現にこのような「ひとつの流れ」が成り立っている以上、それがいかにして構成されたのかが問われねばならないのだが、その構成原理と目された「純粋自我」が現象の内に姿を見せていないがゆえに、構成分析はこの問題に手を付けることができないまま、それを前提とせざるをえないのである。

いまや私たちは、ここでフッサールによってその問題の解決が留保されざれをえないとされた問題こそ、「超越論的なもの」そのものにかかわる問題であったと考えることができる。しかし、フッサールは『イデーン』においては、「自我」の問題を現象世界に内在する次元で、すなわち経験的自我として分析する方向へ向かっていたのである。超越論的還元によって切り拓かれた超越論的な次元において体験の多様として現象するものの構成分析にまずもって着手した現象学は、そのような自らの分析が「そこにおいて」なされている超越論的な次元そのものの解明、すなわち「純粋自我」とさしあたり呼ばれた問題の解明を棚上げにしたまま、同じ「自我」の問題を「心」ならびに「精神」として現象する「人格」の次元での具体的分析によって解明する方向に進んだのである。その後、フッサールは『イデーンⅡ』での「心」や「精神」としての「自我」の分析が、世界内の様々な存在者を「領域」に区分する「本質」として行われたことは、それがいまだ静態的現象額の段階にとどまっていたことを意味する。これに対してフッサールの関心は、やがてそのような諸「本質」をその発声へと遡って問う分析へと移行していき、発生的現象学と呼ばれる段階を迎える。このときそれらの諸本質の発生は、しばしば「私には~と思われる」の「私」の作用によるものとみなされ、その「私」の属する次元が曖昧なまま、「習慣性」や「能力性」といった潜在的な領野に関わる問題系が開拓される。なぜ「私」の属する次元が曖昧かといえば、この分析が超越論的次元でなされている以上、そこで固有の意味で「自我」と呼ばれているものも超越論的なものでなければならないはずであるにもかかわらず、それが「純粋自我」として捉えられたままそれ以上の解明が留保され、実際の分析の上で機能している「自我」概念は『イデーンⅡ』以来の経験的次元のそれが暗に想定されているからである。

2014年8月10日 (日)

手続きの独り歩き…かな(3)

6月の終わり、大きな話題となった項目の影に隠れるように国会の会期の最終日に、ひっそりと会社法の改正案が可決成立しました。企業法務にかかわる人以外には、あまり縁のない、したがって人々の関心も薄かったものだったと思います。新聞やテレビでも報道されなかったり、取り上げられたとしても通り一遍の報道で終わっていたように思います。法案の内容は手続き的な改正が大部分で関係者向けのものとなっているので、報道関係の記者の人々には分かりにくいことは確かです。新聞の経済欄で思い出したようにコーポレートガバナンスとか社外取締役とか見出しが出ることがありますが、記事を書くほうも上っ面だけを眺めて生半可なところでしか書いていないから、よく分からないというところではないでしょう。一応、新聞やニュースなどでは改正会社法の目玉ということになっているようです。

そもそも会社法というのは何を決めているのでしょうか。会社法というからには会社についての条文があるということでしょう。ということは会社についてのすべてがここに決められていて、会社は会社法に従わなければいけないのでしょうか。例えば、会社が存続するために一番重要な商売のことはどうでしょう、ものを売るということは売買契約です。これについては民法が規定しています。では売り掛けの回収については、これも民法の債権のなかにあります。商売の規制については独占禁止法や不正競争防止法等のいわゆる経済法があります。労働者については労働法があり、会社がつぶれたときには破産法があります。何か会社にとって重大なことはここにあげたものでほぼ全部ではないでしょうか。じゃあ、会社法っていうのは何なのか、ということでしょうね。で、会社法に主に書かれているのは、新たに会社を設立しようとしたときに、自己資金が潤沢にあればいいのですが、まず自己資金だけでは足りません。銀行も簡単に融資をしてくれないでしょう。となると。知り合いとかつてをもとめて人々を説得して資金を投資してもらうわけです。そのときに、その知り合いの人々は、担保も保証もないところに金を出すわけですから、何らかのルールが必要です。そのルールとして決められているのが会社法と思ってもらえれば、間違いはないです。会社を作ったからといって、投資してもらったお金をすぐに返すことができるわけではありません。だから会社を作ったときの関係が投資した人にはずっと続いているわけです。その人には、一体全体、いま、会社がどんな状態にあるのか分からないと不安でしょう。だから、一定期間で決算をしてその報告を株主総会でやらなきゃいけないし、大事な金を預かった会社が、その金を活用してちゃんと事業をするために、ルールで義務付けてあげなければなりません。それを全般的に決めているのが会社法です。そして、その中でも、とくに会社を動かしていく中心が社長とか取締役といった経営者ですから、そういう勘所の人たちを押さえれば、会社を押さえることになるので、その部分に絞ったのがコーポレートガバナンスです。

どうでしょうか、分かったような分からないようなことです。だから、このようなことを強く決めましょうという動きがあるということは、会社に出資した人々が、その出資したことに対して不安に思っているということが大きな理由として考えられます。なけなしの金を出資しているけれど、もしかしたら踏み倒されそうかもしれない。けれど、あの社長ががんばっているようには見えない。単純化するとそのような心情が、そういう動きの底流にあると思います。だから逆に言えば、会社の景気がよくて、株価がうなぎ上りで、配当金はたくさんもらえる。会社の将来も明るいなどというのであれば、だれも会社に対して不安を抱くことはないわけです。しかし、会社の業績は低迷して、リストラなんかやってるなどということになると、真面目にやってんのかということになるわけです。実際のところ、日本の株式市場を見てみると、いわゆるバブル経済という今から20年以上前につけた株価の最高値にいまだに追いついていないという異常な状態が続いているわけです。世界中の国々を探して20年以上前の株価と現在の株価を比べれば、例外なく、今の株価のほうが高くなっています。その中で日本だけが、20年前に届かない。ずっとマイナスです。ということは日本の企業経営はずっとマイナスの評価を受けているということです。ということは、そんな経営で果たしていいのか、日本国内だけをみれば、みんなマイナスですから怖くないのですが、そもそも、マイナスが続いて会社がつぶれないわけがないというのが普遍的な常識です。そんな常識外の経営をしているとしか、日本以外の常識では見えてしまう。だから、日本企業の経営をなんとかしろ、とコーポレートガバナンスの要求が生まれているといえるのです。

コーポレートガバナンスについて新聞等では不祥事が続く等と説明されていますが、企業不祥事なんて何も今に始まったことではなく、昔からあることで、その昔からコーポレートガバナンスなんて言われていたわけではないんです。実際、新興国の企業なんかで不祥事があってもコーポレートガバナンスことが大騒ぎにはならないでしょう。それは新興国の企業が成長拡大しているからです。ところが日本の場合は成長もしないで、しかも不祥事が重なるので経営は何をしているのか、ということになるわけです。だから、成長すれば実は文句をいう人もいなくなる。そういうものだと思います。

このような経緯を追いかけてみると、コーポレートガバナンスをきちっとやった、それで企業が成長拡大できるでしょうか。何か、これも大きな取り違えをしているように見えて仕方がありません。かりに、今回コーポレートガバナンスをキッチリやりました。とはいっても、それで企業が成長拡大し株価があがり続けましたということには、まずならないでしょう。そうであれば、投資をした人の不安は消えません。そうしたら、さらに経営者は何をやっているのか、ということになって、コーポレートカバナンスが足りないということになって、数年前のデフレスパイラルの説明そっくりのように見えてきます。

企業に投資をする人は、この会社はコーポレートガバナンスがしっかりしているから投資をしようというひとは、あまりいないのではないかと思います。それよりも、大多数の場合は、この会社は成長しそうだとか、いい製品作っているとかそういうところに会社の魅力を見つけ出して投資をしようとするのではないでしょうか。コーポレートガバナンスは、そういう点では会社を評価するときに減点を以下に減らすかという程度のことで、これが加点要素になることはあまりないのではないか、と思います。成長している企業にコーポレートガバナンスがしっかりしている会社が多いと言われそうですが、コーポレートガバナンスいいから会社が成長するということにはならないからです。

ここで、一ついえることは、コーポレートガバナンスという形式が会社の外から見えやすいということです。コーポレートガバナンスをしっかりやりました、ということは目に見える実績になる。しかも、このこと自体は悪いことではありません。ひこでは、私には当面の責任追及を受けなくてすむというような、あまり考えることをしないで、その場しのぎをしているように見えて仕方がありません。これも、前回のイノベーションと関連しているつもりですが…。

その辺のことは、うまく説明ができていなくて、私自身も歯がゆく思っています。

ひとつ申し添えてきますが、日本企業の経営者がサボっているとか、バカとかいっているわけではないのです。私自身、経営者ではありませんが、企業の中にいる人間ですので、経済状況についての責任を免れる立場ではないのです。もし、そんなことをいえば、それは天に向けてつばを吐くようなものです。そうでなくて、全体としての風潮というのか、そういう議論が大手を振って通ってしまうことに対して、どうなのかということが、うまく言葉にならないのですが、つらつらと書いているというわけです。

2014年8月 9日 (土)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(16)

第5章 世界─「現象」の場所

フッサール自身のもとでは、「現象」の座をなしていたのは、超越論的主観性ないし純粋自我と呼ばれる「自我」だった。つまり彼のもとでは、「現象すること」の場所を問う問いは「身体としての私」を含む「自我」の問題系の内に基本的には吸収されてしまっており、ことさらに現象が「どこにおいて」成り立っているかを問う必然隊はなかったのである。だが本論にはこれに異論がある。なぜなら、前章で「私」を現象の「媒体」と捉えたことからも明らかなように、たしかに「現象すること」そのことはその「私=自我」を経由することなしには成り立たない事態であるとしても、「現象すること」そのことはなしには成り立たない事態であるとしても、「現象すること」そのことはその「私=自我」の内で十分に問い尽くせるものではない、と考えるからである。

「記号」という仕方ではじめて現象を可能にする不在の能力としての想像力は、「私」の能力ではなく、むしろこの能力の方が、様々な能力を自己の能力として所有し得る「自己同一的なもの」としての「私」を成立させていたのだった。そうであってみれば、「現象すること」は「私=自我」をもその内に自らの構成分肢として含むという仕方で、その本質からして当の「私=自我」をはみ出してしまう事態なのである。かくして「現象すること」そのことを全体として問うためには、現象の媒体としての「私」を超えて、あらためてその場所が問われなければならないのである。

 

1.さまざまな「自我=私」─「経験的なもの」と「超越論的なもの」

フッサールが「自我」として明示している事態は、大きく言って次の三つに大別できる。

彼の「自我」概念の第一は、<体験に与えられた多様なものを、その多様性にもかかわらずひとつの流れの内へと統合する原理>として想定された「自我」である。夢さえ見ないほどの深い眠りに落ちている時を除けば、通常「私」には、実に多様で一見互いに何の脈絡もないものが、次から次へと意識されては消え去っていく。いまフッサールの「自我」概念につて考えているかと思えば、次の瞬間には窓外の景色に気をとられ、さらには差し迫った用事を思い出し…といった具合なのである。これほど多様で何の脈絡もなさそうな諸々の現象が、そのばらばらさにもかかわらず、たしかにひとつの意識の流れを形成している。そうであれば、ここに体験の多様を統合する何らかの原理が機能していると考えてもよいのではないか。そして、この統一化の原理こそ「自我」の名に値するのではないか。フッサールは、この自我が経験的次元ではなく超越論的次元に位置づけられている理由を次の二点として述べている。第一は、体験の多様さを統一している原理自体は、決して体験の対象としてその多様の中に姿を現わしてはいないというフッサールが考えた点に求められる。「純粋自我」が体験の対象として多様の中に現象していないのであれば、それをもはや経験的な次元での自我とと呼ぶことはできない。第二には、体験の流れのこの統一は、超越論的還元を経てすべてを「純粋な」現象に還元した後にも、まさしく当の現象の多様がひとつの流動する全体として残っているのだから、この「純粋現象」の次元で、その統一化原理として機能しているものには、当然「超越論的」の名が冠せられるべきなのだ。いまや超越論的還元を経て、「経験的」なものはすべて括弧に入れられているからである。

フッサールの「自我」概念の第二のものとは、<世界の特定の見えのパースペクティヴの原点>としてのそれである。これは知覚の場面を例にとると分かり易い。いま私に、その上に本を乗せた机の上面と前面の一部が見えている。机が私に見えるとは、このようにいつも特定の側面においてなのであって、一挙に机の全側面が見えるということはあり得ない。これが知覚のパースペクティヴ性ということである。このとき机のその都度の特定の側面の見え(パースペクティヴ)は、机がそのように、そしてそのようにのみ見えるこれまた特定の地点から私が机を見ていること、すなわちその特定の地点に私がいることを同時に示している。これをフッサールは、どんな「現象」も、それをほかでもないこの特定の現象として捉える「自我」が居合わせているのである。この「自我」もそれがその都度のパースペクティヴの原点である限りで、それ自体は現象している対象ではない。いわば、自らが放射する光の前にすべてを現象へともたらしつつ、光としての・そして放射の原点としてのそれ自身は決して見えない、そのような「放射中心」としての自我である。それは現象する経験論的自我ではなく、あらゆる経験=現象を可能にする超越論的な自我なのである。

フッサールの「自我」概念の第三として、以上二つの自我概念を言わば一挙に表現するものとして「極」というある種の比喩的な言い方を援用している。極は、ばらばらなものを統一化する原理としての機能と、その統一化の中心点としての機能を、あわせて具体化している。もう一つ重要なことは、「極」はそれ自体はあくまでも作用の中心であって、この作用=はたらきによって統一化され・中心化された体験の多様とははっきり区別されるという点である。減少しているのは体験の多様のみなのであって、体験の多様をそのように統一化し、特定の中心へと向けて配列している作用自体は、紛れもなくそこ居合わせているのも関わらず、それ自体現象しているわけではない。<現象しているもの><それを支配している原理>とは、それぞれ別の次元に属しているのである。

こうした「極」自我という捉え方は、<体験の多様の統一化原理>としての「自我」と、<パースペクティヴの原点>としての「自我」とを、具体的なイメージのもとに統合したものとみなすことができるので、本質的には後二者の自我概念に吸収されうる。すなわち後二者の自我概念こそフッサールが「純粋自我」の名のもとに考えていたものだと言ってよい。その後のフッサールは「人格」としての自我を追求していく中で、「純粋自我」が具体性を欠いた抽象的に映っていく。つまり、「極」として純化された自我は、個々の具体的な意見の多様はもとより、その作用すらはぎとられ、極小化されて、現象の豊かな多様の場面からいわば消失してしまった。そこまで先鋭化された純粋自我は、それがもはや現象するものでないがゆえに、現象学的構成分析の前から跡形もなく姿を消してしまい、現象学的に有効な概念として機能しなくなってしまったのである。これに対してフッサールが自我概念のもとに新たに分析の俎上に乗せるのが、「習慣性」の基体としてそれ自身発声の歴史を担い、しかもそれを潜在的な自我地平として沈殿させ、さらには「私は~できる」という「能力性」の身体的受肉として機能する、まさしく「現象することの媒体」としての「自我」であった。ここで「習慣性」とは、自我のさまざまのレヴェルでのふるまいの反復を通じて獲得された、自我の様々な行為能力のことにほかならない。彼にとって、その具体性における自我とは、現象する世界のすべて帆、その内に潜在態として含み持つ、あくまで一個のそれ自体完結した「個体」であり、この意味で「人格」として具体態における自我はまたこれ以上分割できないものとして、ある「力」の担い手であり、かつ世界のすべてを時間的にもその内に「映して」いるものなのである。

このような自我を、超越論的・現象学的還元により確保した新しい次元である「超越論的主観性」とピッタリ重ね合わせることはできない。このような自我は<超越論的なものの接点に立つ自我>、すなわち「現象すること」の媒体としての「私」に他ならない。しかし、「現象すること」そのことは、「現象することの媒体」つまりは「現象を見てとるもの」としての「私」を不可欠の一構成分肢として含む、より包括的な出来事なのであって、この「現象すること」そのことを一個の哲学的問題として問うことを可能にしたものこそ超越論的・現象学的還元だったのであり、この還元を通して切り拓かれた新たな次元だったはずである。そのことが、本章の冒頭で<「現象すること」がおのれを実現するのはいったい「どこにおいて」なのか>というかたちで改めて問おうとしたものであった。ところがフッサールは、この問いを、みずからが「超越論的主観性」と呼んだ「自我」へと引き取ってしまうために、この問いが本来問おうとしていたことを十分に問う途を自ら閉ざしてしまう。それが「純粋自我」概念の「人格」概念への変容なのである。

2014年8月 8日 (金)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(15)

2.身体としての私─「自由」と「間身体性」

私における超越論的なものとは想像力であることを確認した。そして想像力とは、「不在における現前」の能力のことであった、この「不在における現前」を、あらためて<現にそうではないものが、あたかもそうであるかのように姿を現わす>と捉え直すことができる。この能力は同時に、私たちを現にそうであるもの<現実>への拘束から解き放つ可能性をも開示する。なぜなら、この現実がこのようであることにはもちろんそれなりの理由や根拠や原因があるにしても、それが必ずしも絶対にそうでなければならなかったわけではないのだとすれば、そのとき私たちはすでにこの現実から何程化距離を取った地点に身を置いているのであり、現実からのこの距離がすなわち現実からの解放を告げ知らせているからである。これはすなわち、私たちがこの現実に対してすでに「自由」であることに他ならない。だが、この限りでの「自由」は、私たちの現実からの自由である。この「自由」において開示された「世界の別様である可能性」は、この現実と直接には何の関わりもなしに、いわばこの現実とは没交渉なままに、当の現実と並存している。これに対して、私たちの「自由」はすでに別の側面をも含んでしまっている。それは、ほかならぬこの現実に介入し、それを変革する「自由」である。

ここで決定的な役割を演ずるのが、「現象を見てとるもの」として「私」の独特の在り方である。「私」は「現象を見てとるもの」であると同時にそれ自身「現象するもの」として、自己同一的なものであった。これは想像力の媒体である「私」が、当の想像力によって現象する世界の内部に場をもっていることを意味する。そして、「私」が現象するものたちの間に身を置くその仕方が「身体」なのである。すなわち私の身体は、見えるものであり、聞こえてくるものであり、触れることの出来るものであり…なのである。しかもそれは、単に「現象するもの」であるばかりではない。それは世界の中でみずから動くものでもある。「現象を見てとるもの」でもあれば「現象するもの」でもある私は、その自己同一性を「身体」において、「身体」という仕方で、一個の能力の主体として具体化しているのである。想像力という能力が、いまや身体という仕方で自己同一的なものである私の能力として、現象する世界の内に場を占めるに至ったと言ってよい。ここで私の能力とは、「私は~をなしうる」ことにほかならない。そしてその「なしうる」当のものは、それが「なしうる」ものであるかぎりで、いまだ現実ではない。すなわち可能性の世界に属している。つまり、私が今やその能力の主体として姿を現わすにいたった当の能力は、本質的に想像力によってのみ可能となった能力である。世界のすべてが現象することのもはやそれ以上遡り得ない究極的な能力としての想像力は、現象する世界における私の能力として具体化される。こうして、そもそも何ものかが「現象する」ことの内にすでに孕まれていた「自由」は、いまや私の能力として、それも「私は~をなしうる」という身体能力としていわば「受肉」したのである。「現象すること」の内に孕まれていた「自由」は、すなわち「可能性の空間」は、私という身体の主体の能力として世界の内に根付いているこれは、「自由」という「現象するものの可能性の空間」が私の身体において、ほかならぬ私の「行為」の可能性として具体化されていることを意味している。

想像力が私の能力として身体において具体化されるという決定的なことが生ずるのは、私の身体こそが「見るもの」でもあれば「見えるもの」でもあるという二重性をもつ特異な事態であることによっていた。フッサールは「見るもの」と「見えるもの」をいわば内側からつなぐ役割を演じているのが、「キネステーゼ」と呼ぶ事態で「運動感覚」と訳されることもある。それは、何か運動するものについての感覚のことではなく、それ自身が何か運動であるようなものの感覚である。つまり、「私は動く」「私はなす」において生ずる、それ自身が何か運動であるようなものの感覚である。つまり、「私は動く」「私はなす」において生ずる、まさに私が動いていることの感覚、私が何ごとかをなしていることの感覚なのである。この意味でキネステーゼは、もともと「見るもの」であるかぎりの身体に内蔵して発生する感覚である。「見るもの」である私が動くことにおいて、キネステーゼがその都度発生しているわけだが、その動くことのそれぞれにおいて世界の現象の仕方は変化してゆく。私が部屋の中を歩き回れば、その時々で机が見えたり本棚が見えたり、同じ本棚でもこの側面が見えたり別の側面が見えたり、…と変化してゆく。そのつど異なるそれぞれの現象には、いつも「私は動く」というキネステーゼが居合わせている。しかも、そのように動く私の身体は、同時に「見えるもの」でもある。私の身体においてのみ、「見るもの」と「見えるもの」が同じキネステーゼによって結合されているのである。

私たちの世界の現象においては、いつでもキネステーゼを伴った身体がともに居合わせているのである。この意味で「身体」こそ、世界が世界として現象することの根本条件をなしているのである。私たちの世界は、その「現象すること」の当初から、「身体」という仕方で居合わせる「私」を伴っている。まさしく「世界は身体という生地で仕立てられている」のである。ところで、このような仕方で世界の「現象すること」に立ち会っているのは、さしあたっていま・ここで・現にこのような仕方での世界の現象に立ち会っているこの私であって、他の誰でもない。

「現象する私」であるかぎりでの身体、その典型としての「物体としての身体」は、この机やあの窓と同じように一個の個体として同定され、世界の中の一部分を占めているものに他ならない。また、ある特定の観点から私の身体を見れば、机でも窓でもないという意味でそれらから区別された一部分であるというにすぎず、別の観点からそれを捉えれば、呼吸や飲食や排泄という仕方で絶えずその外部と物質のやりとりを通して交通しており、そこでやりとりされる物質は、少なくとも地球大に偏在しているのである。これは、私の身体が地球大の規模でさまざまな物質とつながっていることに他ならない。物質という観点から見る限り、すべては連続と循環の内にあり、そのどこに区切りを入れるかは、どのような観点を設定するかに依存するかに依存したまったく相対的なものに過ぎないのである。

しかしここで問題にしたいのは、私の身体の別の側面である。私の身体とは単に「現象するもの」であるばかりでなく、自ら動き、可能性の空間を自由という仕方で世界の内にもたらすキネステーゼの主体としての「現象を見てとるもの」でもあった。私の身体がこのような仕方で「現象を見てとるもの」すなわち「現象を構成するもの」として機能するとき、それはこの身体がこのような仕方で「現象を見てとるもの」すなわち「現象を構成するもの」として機能するとき、それはこの身体が単独で行うことではないのである。フッサールが注目したのは、私の身体の各部分肢がその機能と意味を受け取るのは、それが他の身体の部分肢と対になることによってであるという事実であった。この事実は、とりわけ発達の場面に目を向けると分かり易い。身体の部分肢が発達した多くの動物の幼い個体は、その部分の使い方を、おやのそれを模倣することで習得する。それがとくに発達したのが人間の場合で、例えば、喉と舌と口蓋の使い方を模倣を通して習得することで可能となる言語音声の獲得である。人間の幼児といえども、ある一定の年齢に達するまでに周囲から言語を伴って働きかけられることがないと、ついに言葉を話すようにならない事実が知られているように、子は親の発声を真似、親は子の正しい発声を反復・強化し、誤った発音を訂正することで、ついに私たちは身体の各部位の機能のさせ方を身に着けるに至るのである。私たち人間のように、その生の具体相がいわゆる本能のレヴェルをはるかにこえて豊かに分節化されている場合には、身体部位の用い方もまたそれぞれの文化共同体に応じてさまざまである。人が人と出会ったときに手と手を差し伸べあうのか、頭を下げるのか…といったことだ。そういった文化的相違の頂点に、各国語という言語体系が位置している。そしてこの言語において、想像力の機能である「記号」という事態は、もっと高度な発達を遂げているのである。言語は、世界が現象することのいかに、すなわちこの内実に決定的な仕方で関与しているのである。「現象を見てとる」という現象の構成に、身体の機能のさせ方は本質的な仕方で関わっているのであり、しかもそうした機能のさせ方を私の身体が身に着けるのは、何よりもまず他の身体との「対化」を通してなのである。

かくした私の身体は、その「現象を見てとるもの」としての側面においてこそ、決定的に他の身体とつながっていることが明らかになった。このことは、世界が具体的な内実をともなって現象するにあたって、身体のレヴェルから、さらにそれに基づけられた言語のレヴェルにいたるまで、ことごとくそこには他人が居合わせていることをはっきりと告げている。世界は紛れもなくこの私のもとで、このものとしてしか現象しないのだが、それにもかかわらず私のもとでのこの現象には、はじめから他人たちが居合わせているのである。他人たちが居合わせていることによってのみ、他のどれでもないこの現象は初めて可能になったのである。フッサールの相互主観性の帰結は、このことを述べている。

2014年8月 7日 (木)

手続きの独り歩き…かな(2)

考えながら書き込んでいるので、ロジックがちゃんとしていなくて、独りよがりの展開になってしまっているところがあると思います。今回は、前回と関連していないようで、いるようで、脈絡がない、かもしれません。

このところ、多くの企業が第一四半期の決算を発表しています。そのせいでしょうか、新聞等でも景気動向へのコメントが増えてきているようにも感じられます。その中でよく見かけるようになっているのが、「企業が成長のためにはイノベーションを起こしていかなければならない」といった類のコメントです。このイノベーションという言葉、流行なのでしょうか評論家といわれる人たちや経営者、政治家もよく口にしているようです。経営者が経営を語るときに必ずといっていいほどイノベーションを語るようになってきているようです。ある会社では、経営者だけに限らす、全社的にイノベーションを起こしていこう、現場作業の末端の従業員にまで意識付けをして社内で議論されているところもあるということです。じゃあ、そのイノベーションとはいったい何なのでしょうか。私見によれば、20世紀前半のオーストリア出身の経済学者シュムペーターが当時のドイツなどの新興の急激な経済発展を遂げている国や企業を調べると、その多くに従来にない革新的な技術や経営で新たな市場を起こしたり変革を起こしたりしていたりするのを見出し、それをイノベーションと呼んだということです。19世紀イギリスの産業革命がそうですが、蒸気機関という動力の登場と機械化による大量生産によって、従来の市場を破壊してしまう一方で新たな市場をつくりだし、それが爆発的に成長していったことで、企業が急成長を遂げ、そこに新たな企業が参入していくことでさせ、新たな市場に展開し、それが成長する。というように成功した経済や企業の多くがイノベーションを起こしていた。現代でいえば、スマートフォンという従来にない製品とコンセプトで大企業となったアップル等がそれに当てはまるかもしれません。そういうものが、企業の成長に必要だから、どの企業もイノベーションを起こしなさいというのが、最近よく言われることであると思います。

しかし、それは、結果の側からみたもので、急成長した企業を見てみたら、イノベーションを起こしたところが多かったということでしかありません。(学問的に正確なところは私には分かりませんが)実際に、他の会社の真似をして急拡大した企業だってあるはずです。(どことは言いませんが、アップルとスマートフォンで競争している大企業なんか、そう見えたりするのですが)逆に、イノベーションを起こしたから企業が急成長したかという、それは法則化できるものではい、というところでしょう。だから、イノベーションを起こしたから企業が成長できるかどうかは別のことではないのでしょうか。イノベーションが企業の成長や業績の拡大にいたるのは確率の問題で、相対的に高いという程度なのではないでしょうか。それは、技術面でのイノベーションについては技術革新という言葉が当てはめられます。そうかつて技術革新を次から次へと進めていた日本の「ものづくり」はそれだけイノベーションを起こしたはずですが、それらの企業は業績をさらに拡大したかといわれれば、多くの企業が衰退し、あるいは市場から退場してしまいました。だから、私が思うに企業が業績を伸ばし、日本経済が成長していくためにはと、金科玉条のようにイノベーションを起こせと連呼することではなく、それぞれの企業でイノベーションの可否をまず検討して、それが有効であるとしたら、何をどのようにという戦略が検討されるというのが本筋ではないかと思います。そこでは、イノベーションを進めるということについてロジックが必要なのではないかと、私には思います。イノベーションは手段であって目的ではないということです。そして、手段としていくつかあるうちのワンオブゼムであるということです。その目的と手段を取り違えて、イノベーションそのものが目的となってしまってケースが結構あるように思います。イノベーションといっても様々な内容があるはずで、その内容を問わないで、まずイノベーションありきというような議論がなされているように私には見えます。

先ほど、例として述べましたが、全社的に従業員みんなでイノベーションを起こしていこうという企業の例であれば、新機軸などということは果たして末端の現場から起こすことはありうるのでしょうか。それは職場の身近なところでの改善をしていきましょうということとは本質的に違うことのはずです。最初に述べた定義で言えば、イノベーションというのは従来の枠を塗り替えてしまうようなことなのですから。逆に身近にところで仕事を改善するということは従来の枠組みを強化することであって、むしろイノベーションに対立する行為であるはずです。たぶん、それを職場の上司が従業員に指示したということになるのだとすれば、そこでイノベーションということにでもなれば、その上司は必要ないということになってしまう可能性が高いのではないかと思います。

そこで見えることというのは、私にとってですが、イノベーションという流行の言葉のかっこよさにあまり考えることなく飛びついてしまって、とにかく現状を何でもいいから変化させるという形式的なことを実行してみる、ということです。私の見方はシニカルで独善的かもしれません。そこに、企業であれば、この会社というのは本来何をする会社であるのか、この会社の強みは何なのかということが検討されずに、イノベーションという特効薬のように見えるものに、流行に乗り遅れてはいけないと我先に飛びついているという光景です。

前回のべたことと、つながりを感じられたでしょうか。私も、つながっているつもりなのですが、うまく整理がついていません。

2014年8月 6日 (水)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(14)

第4章 身体と私─「現象」の媒体

本章の主題は、「現象すること」にとって不可欠の媒体である「私」である。

1.現象を見てとる者─「私」

「現象すること」とは、とりもなおさず「何ものか」が現象することである以上、その「何ものか」の自己同一性の成立がまずもって見届けられねばならなかったわけである。しかし、「現象すること」にとって、現象する「何ものか」の自己同一性の成立をもってすべてが成就するわけではない。何ものかが現象すると言えるためには、現象する何ものかをまさしく現象するものとして見てとる「何者か」が、そこに居合わせているのでなければならないのである。誰もそれを見てとる者がいないところで、現象するものだけが現象しているという事態はありえない。何者もそれを見てとっていないのであれば、それは端的に何も現象していないのである。私たちの日常の語法ではそうしたとき、<それはただ「在る」だけで現象していない>と表現されるだろう。しかし、還元をすでに経た私たちにとっては、「在る」もまたひとつの現象の形態以外ではなかったのだから、<何かがただ在る>といったとき、すでにそれはそのような仕方で現象してしまっているのである。かくして私たちは今、「何かがただ在るだけで、現象はしていない」という言い方が成り立たない地点に立っている。ここでは、現象することと存在することとが正確に肩を並べているのである。

こうした存在と現象との比肩を可能にしたものこそ、自己同一的なものの成立だったと言ってもよい。これを逆から言えば、いかなる自己同一的なものの成立もない単なる「存在」が想定可能であれば、そのとき、そしてそのときにのみ、現象には背後があることになろう。だが、それは想定不可能なのである。すべての自己同一的なものを消去したとき、そこには文字通り何も残らないのである。言葉の厳密な意味で<何ものも現象=存在しないこと>とは、私たちには思考不可能なこと、少なくとも思考の限界を画する事態だと言わねばならない。この事態に直面したとき、私たちはそこで自分が「何を」考えているのか知らないのである。かくして、何ものかが存在するのであれば、必ずやそれは何者かに対して存在しているのでなければならない。見てとるものなしの端的な存在とは、いまや背理だからである。「現象すること」は、その不可欠の分肢として、「現象するもの」と「現象を見てとるもの」を必然的に含むのである。

ここではっきりさせておきたいことは、「現象すること」こそが私たちの世界の成立にとって最上位に位置する事態だという点である。「現象すること」は、世界のすべてを貫通する「超越範疇」=「超越論的なもの」なのである。したがって、「現象するもの」も「現象を見てとるもの」も、ともに「現象すること」という最上位の事態の下に包摂されていることになる。これは、「現象すること」という事態の生起なしには、「現象するもの」も「現象を見てとるもの」も成り立ち得ないということにほかならない。だが、それにもかかわらず、「現象すること」と、「現象するもの」ならびに「現象を見てとるもの」との関係は、完全に対等なものではない。このことは、「現象するもの」ならびに「現象を見てとるもの」がすでに自身の想定の内に「現象すること」を含んでしまってことからも、容易に見てとれよう。これら両項はいずれも、自らの存在を「現象すること」の方から受け取っているのである。そして、「現象するもの」と「現象を見てとるもの」はともに「現象すること」に属する不可欠の分肢である限りでは、同等の位置占めると言ってよいが、「現象」という観点から両者の在り方を眺めて見るとき、そこには大きな違いがあることに気づかされる。ますず、「現象するもの」が端的に現象しているのに対して、当の「現象するもの」を見てとっている「現象を見てとるもの」の方は、そのような仕方では現象していない。「現象を見てとるもの」は、それが「見てとるもの」であるかぎりで、それ自体は、決して見えないのである。視野の中のどこを探しても、当の視野がそこから開けているはずの視点それ自体を発見することはできない。

確認しよう、まずもって現象しているのは「現象するもの」の方であって、それを「見てとるもの」の方ではない。この意味では、両者の関係は対等なものではない。では「現象するもの」は、どのようにして現象するのか。それは、もはやそこにはないものを、あたかもそこにあるかのような現前させる「想像」の能力によってであった。私たちはたしかに、もはやそこにない音を聞いているのである。私たちの知覚は、現にそこに在るはずのものを遥かに越えて、ひろがっているのである。これが「不在における現前」、すなわち「記号」という事態であった。それは、「もはやない」という仕方で「かつてあった」ものがはじめて、くっきりとした輪郭をともなって姿を現わすという事態である。あるいは、「いまだない」という仕方で「やがてあるだろう」ものがはじめて、現象にもたらされる事態である。このときの「ない」という経験の内には、何ものかが「失われた」という意味合いが色濃く反映している。何ものかが「失われた」のであれば、それはかつては「所有」されていたのである。換言すれば、何ものかが「失われる」ことの経験は同時に、何ものかが「所有」されうることの経験の成立でもあるのだ。そして「喪失」にせよ「所有」にせよ、それらが事態として成り立つのであれば、それは明らかに誰かがこの「喪失」と「所有」にすでに立ち会っていることを示している。この「誰か」とは、煎じ詰めればこの「私」以外にではありえないだろう。それは、紛れもなくこの私の手からこぼれ落ちて行ったのである。つまり、私の存在がそこに反映されているのである。

「現象するもの」には「現象を見てとるもの」としての私が常に居合わせている。正確に言い直せば、現前を可能にする不在が「喪失」の色合いを帯びていることの内に、私のこの「居合わせ」が暗示ないし告知されているのである。しかしこの告知は、それだけをとってみれば、ほとんどそれとして気づかれることすらないほど微かなものではないのか。不在が単なる不在ではなく、紛れもなく「喪失」であることが明らかになるためには、「現象するもの」の側にのみ目を注いでは不十分なのではないか。まさしくそのように思われる。

何ものかを失うことができるためには、その何ものかがすでに所有されていたので居たのでなければならない。そしてそれが所有であるからなは、何ものかを所有している当の者がそこに居合わせているのでなければならない。さらに一歩進めると、いまや、所有されていた何ものかが「失われた」ものとして現前している。そうであれば、何ものかを所有していた当の者もまた、その所有が失われたかぎりで、ともに失われたのではないか。何ものかが失われるという経験の成立は、失われるという仕方での失われた当のものの経験であると同時に、何ものかを失う当の者自身の経験の成立でもあるのではないか。ここで何ものかを失う当の者は、自身をも、その失われた当のものとともに失われたものとして、経験するのではないか。自己自身を、失われたものとしてはじめて見出すのではないか。このときそこに、「現象を見てとるもの」自身の自己同一性が成立しているのである。「現象するもの」の内に孕まれた不在が「喪失」の相の下に立ち現われるためには、その「現象するもの」を自らの経験において証し・保持する者が、まさしく当の自己自身を失うという仕方で、すでに自らに対して姿を現わしているのである。

かくして、<「現象を見てとるもの」が現象する>という事態が成立したのである。これが「不在における現前」という「記号」の本質を充たしていることは言うまでもない。それどころか、「記号」という事態の根本には、自己自身の「不在」のもとで己を「現前」させるという仕方で自己自身が記号そのものであるような「現象を見てとるもの」が存しているのである。自らが記号であるような「現象を見てとるもの」のもとではじめて、世界のすべては「現象するもの」となる。この意味で、「現象を見てとるもの」すなわち「私」は、紛れもなく「現象すること」の媒体なのである。この「媒体」としての「現象を見てとるもの」こそ、自らが絶えず不在に、喪失に、自らの外部に、自らの他者に曝され・投げ出されていることの発見の中で、おのれが何者であるかをその自己同一性において初めて露わにし、そのことを通じて世界のすべてを現象へともたらす者、すなわち「私」にほかならない。そして「私」とは、みずからが「記号」そのものであることによって、「不在における現前」の能力である「想像力」がそこに根を下ろし、「現象すること」がそこにおいて可能になる場所のことでもある。これはすなわち、想像力とは私の能力のことではないということである。なぜなら、想像力という「不在における現前」の能力が根付くその場所においてはじめて、「私」という自己同一的なものがみずからに対して現象することが可能になったからである。この想像力の方こそが、本来「現象すること」の媒体であった「現象を見てとるもの」をも、「私」という自己同一的なものとして現象することを可能にしたのであり、この意味でいわば想像力の方が私を所有しているのである。このようにして、私が私であるのは、あくまでもそれが私として、すなわち自己同一的な何ものかとして現象するかぎりにおいてである。すなわちそれは「現象するもの」であって、このかぎりで世界の内部に、つまりは経験的・自然的なものとして存在する。他方、みずからもこのようにして現象する「私」は、それを通してそもそも世界がはじめて現象するに至る媒体なのだから、そしておよそすべてが現象することを可能にしているのは想像力の方なのだから、真に超越論的なものでは、この想像力のことなのである。

手続きの独り歩き…かな(1)

かなりとりとめのないことを、暫くの間、断続的に書いていこうと思います。途中で話がとんだり、と思ったら、前のところと繋がっていたり、読みにくい書き方になると思います。

それでは、いったい何を書こうとしているのか茫洋としすぎているので、一応の取っ掛かりは「手続きの一人歩き」とか「手続きの肥大化」とでもいうことから始めていきたいと思います。

「手続きの肥大化」といっても雲をつかむような話です。例えば、以前このブログで選挙のときの1票の格差についての考えを述べたことがあります。国会議員の選挙のときに選挙区によって抱える人口に大きな差がある。一つの選挙区からは一人の議員が選出されることになると、その議員が選挙区の代表であるとすると背後に抱える選挙区の人口に大きな差があるので、そこに格差が生まれ、それが憲法で保障された平等に反するということです。これに対しては、もともと、国会議員というのは選挙区で選出されますが、選挙区の代表者という立場で国政について議会で議論するものではないということを述べたと思います。今回は、そのような理論的な話ではなく、実際的な話から入ります。

それは、ここでいう「平等」というのが目的なのかということです。たしかに、みんなが自由で平等で豊かな生活を安心してすごす事ができる社会というのを一つの理想として目標にする(これを理想的な目標ではないという主張もあると思うので、単に目標のたとえとして受け取ってください)というのはありだと思います。しかし、これと選挙における1票の平等がイコールなのか、私にはそう思えないのです。かりに、理想の目標としている社会が実現していて、みんなそう思っている社会になっているところで、1票に格差があるから直そうというのであればイコールで結びつく可能性はあると思います。しかし、現在はそうではない。(現在が理想が実現した社会であると思っている人はいないでしょう)そうであれば、理想を実現するために、様々な問題や課題を乗り越えていかなければならない。そこには、様々な人々の利害が対立し、課題が果たして課題であるのか、あるいは複数の課題のうちどれを優先的に着手しなければならないかで人々によって考え方が様々に異なっている、とまあ単純化していますが、そういう状態である思います。そのときに、様々な意見や利害の対立を調整したり、その中からみんなで歩いていこうとする道を探し出して、みんなに納得させようという機能を担っているのが政治とか、制度でいえば国会ということになっていると思います。なんか社会科の教科書みたいな建前を言っています。少し背筋が痒くなってきました。ということで、今は利害対立の真っ最中のはずというわけです。この解決には客観的な正解というのは、おそらく存在しないでしょう。100%の人々が納得して賛成するなどということはありえない話です。正解がないというところでは、人々は少しでもいいから自分にとって有利な意見に傾いていくことになると思います。それ以上に、もっと積極的に自分たちにとって有利な結果に導こうとする動きもある、つまりは、政治の場では様々な利益対立があって、それを調整しているというのが実際のところではないかと思います。例えば、平等な社会を実現するための具体的施策としてA案を実現したいがそれには予算が必要という場合、それに対してもっと優先的に別の施策に予算を振り向けたいというのもあるでしょう。あるいは、A案はある業界の商売が成り立たなくなるから反対だという意見も出てくるかもしれません。そのときに、ではA案をあきらめますか、とはならずに、やはり未来に向けてA案は妥協してでも、やらなければならない。ということになれば、そこでいろいろなことが為されることになるのでしょう。そうやって、様々なことが決められたり、実行されたりしていっているのではないかと思います。

そのときに、選挙の1票の格差があって不平等だから直そうというのは、いったい何を求めているのでしょうか。例えば、1票の格差をなくすということで、上で述べたプロセスをどのように変えていこうとしているのでしょうか。何を言いたいかというと、1票の格差の是正を求める人はその人なりの利害関係の中で生きているはずで、このようなことを裁判で提起しているのですから政治に対して、当然のこととして自らの利害に有利にように導く動機をもっているはずです。さっきのA案を実行させたいと思っているかもしれません。政治に参加するということはそういうことではないかと思います。そのときに、1票の格差を是正するということが、その動機にそったものになっているのか、かなり外れているのではないかと、私には思えます。裁判で言う「訴えの利益がない」ということです。私には、そういう動機と関係ないところで手続きの形式的な正しさを単に求めているだけにしか見えないのです。自分としてはぜひ実現してほしいことがある。というのを措いておいて、正しい(実際、客観的に正しいかは別にして、当人がとりあえずそう思っている)手続きを踏んで処理されることを求めている。正しい手続きが正しい結果を生むとは限りません。そうであれば、まずは正しい結果を求めて行動をすべきではないか、というところで手続きの正しさを求めている、私にはピントがずれているように思えてなりません。むしろ、正しい手続きを踏んでの結果なので仕方がない、という弁解をつくるための何だか虚無的な考えが透けて見えるような気がします。それは、目的と手段の取り違えのように私には思えるのです。意地悪な質問かもしれませんが、選挙区が是正されて平等な代表による議会で不平等を作り出す法案が成立した場合、それは平等ということになるのでしょうか。実際に裁判を起こしている人々は、1票の格差是正は最初の1歩にすぎないからというのでしょうけれど、そういうビジョンは誰も語っていません。私には、ここで取り違えということと、手続きという形式的なものを対象にするとイメージしやすいし単純化しやすい、つまるところ紋切り型にできる。ということは自分の頭で自分の言葉で、自分はどうなのかと突き詰めることをしなくていい、という考えることから逃げているように、私には見えてしまうということがあります。最後は誹謗中傷になっているかもしれません。これは、そういう裁判を起こしている誰々さんを非難する個人的事情はなく、そういうことが起きている風潮とか傾向に対して懐疑の目を向けているという言い方がきつくなってしまっているかもしれません。

2014年8月 5日 (火)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(13)

3.虚構としての現実─あるいは「意味」

私たちの経験を根底で支えている自己同一的なものが、その存立を「不在における現前」という事態を可能にする想像力に負っているとすれば、この自己同一的なものの中核をなす「不在における現前」という構造は「記号」の構造そのものであることに注目しよう。なぜなら「記号」とは、何ものかを、その何ものかり不在において指し示すという事態のことにほかならないからである。たとえば、いま皆さんが「虹」という言葉を聞いたとしよう。大抵の場合、皆さんの眼の前に虹が現象しているとは言えないであろう。そうであるにもかかわらず、皆さんはそれが何であるかをたちどころに理解したはずである。つまり、「虹」という音声あるいは文字は、それ自身当の虹とは似ても似つかぬ全くの別物であるにもかかわらず、それ自身のもとには存在していないあの虹を、不在のままに指し示すことができるのである。これが「記号」の基本構造である。つまり、「記号」とは、原理的に何ものかが不在であることをもって、その不在である当のものが現前するという機構にほかならず、私たちの経験は隅から隅までこの「記号」によって成り立っているのである。そしてこの構造の成立は、私たちの経験の根底に位置する絶えざる時間的流動の相のもとで、すでに見て取れるのである。前節で考察したように、たしかに私たちの現実は絶えず新たなものが到来し、到来したものはたちどころに失われてやむことがないのだが、それにもかかわらず、もはやないものが、あたかも存在するかのように現前させられることをもって、何ものかが自己同一的なものとして現象するのである。これはすなわち、すべてが「意味」として現象するということにほかならない。

したがってここでは、知覚されたものもすべて「意味」といってよい。それらもまた、私たちの経験の世界に属する以上、時間的流動を免れてはおらず、たちどころに失われてゆくものであるにもかかわらず、たしかに「何ものか」が見え、「何ものか」が聞こえる…のである。このとき「見え」たもの、「聞こえ」たもの…は、すでに不在を内に孕んだ「意味」なのである。ここで「意味」と呼んだものを、フッサールの現象学の述語でおきかえるなら、「ノエマ」と呼んで間違いない。ノエマとは、現象にやいて現象する当のもののことであった。それらは「現象であるかぎりでの現象」なのであり、言ってみればそれ以外のどこにも支えを持っていないのであった。これが還元における宙吊りということの内実である。

ここで用いられた「意味」という概念は、私たちの世界の根底にあって私たちの世界のすべてを支えている基盤である「純粋な現象」の次元が、ある種の「虚構」であることを告げているのではないか。ここで「ある種の」と留保をつけたのは、それが通常の意味での虚構と同じではないからである。というのも、通常の意味でのそれは、その対立項として「現実」なるものを有しているのに対して、ここで「意味」としての現象の「虚構性」とは、もはやその外部にみずからの対立項をもたないからである。それが「宙吊り」等という言葉で示唆されていた事態にほかならない。むしろ通常の意味での現実と虚構の区別は、この「ある種の虚構」の内部で構成されるものなのである。

したがって、<すべてが「不在における現前」としての「意味」である>と言った時の「意味」は、普通の意味での虚構としての「不在」と、同じく普通の意味での現実としての「現前」を単に重ね合わせてそう言っているのではない。そうではなくて、「意味」とは、すべてがたちどころに失われてゆく以上そもそも現前ということがありえないにもかかわらず、「何ものか」が自己同一的なものとして「現象」するという事態における「現象するもの」の別名なのである。つまり、ここでの「意味」は、通常の意味における「不在」と「現前」の結合なのではなく、そもそも現前がありえないところで現前が成り立っているという意味で、端的に「不在」なので「ある」。

すべてが「意味」であるといったときのその「意味」とは「不在」がすなわち「存在」、「不在」=「ある」とでも表現するしかない事態なのである。いってみれば、現前している当のものの隅々にまで「不在」が浸透しているのである。あまりよい譬えではないかもしれないが、今あなたに現象しているすべてが、そのままでその「向こう側」に透けてしまっているかのようなのであり、しかも透けた先の「向こう側」には文字通り、何もないのである。すなわち「不在」なので「ある」。

2014年8月 4日 (月)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(12)

c)ヘラクレイトスと「自己同一的なもの」の生成

フッサールにとって現象が現象として姿を現わす最も基本的な次元、私に何ものかが何ものかとして端的に、直接に現象するとき、その最も具体的な相における現象は、絶えず何ものかが到来し己をあらわにしては消え去ってゆき、たちどころにまた別の何ものかが到来する…といった時間的流動のもとで与えられているからである。時間とはフッサールにとって、現象が現象として与えられる際の基本的な様態にほかならない。フッサールはこうした私たちの経験の最下層の有りようを、つねづね「ヘラクレイトス的流れ」と形容していた。世界の根本原理を「万物が流転する」絶えざる生成と消滅の内に見出した古代ギリシャ哲学者に倣ったのである。

何ものかが何ものかとして現に・今・ここで現象しているのだとすれば、少なくともその間は、何らかの仕方で何ものかが流れ去らず、立ちとどまっているにちがいないのである。問題は、この「何らかの仕方で」がどのような仕方なのかということ、そのとき流れ去らずに立ちとどまっている「何ものか」とはなにかということである。第一の点について、たしかに私たちの現実は、一瞬の間もとどまることなく次々に新たなものが姿を現わし、それもまたたちどころに失われていくように見える。「今」は「今」と言った途端にもう過ぎ去ってしまっている。これらの事態は、私たちの経験の現実として揺るがしがたい事実のように見える。そうであれば、何ものかが過ぎ去ってしまった以上、それはいまやここにはない、すなわち不在であると言わねばならない。「今」は、それを捉えて「今」と言った途端、もはやここにはない「たった今」なのであって、「たった今」とは「今」ではない「今」のことにほかならない。次々に新しい「今」が到来し続けているにしても、そのそれぞれの「今」のどれをとってみても、それを「今」と名指した途端、もはや「今」ではない「たった今」に転化してしまうことに変わりはない。つまり、言葉の厳格な意味での「今」はどこにも存在したためしがなく、現象しているのは、「たった今」という仕方でもはや「今ではない」ものばかりなのである。だが、「今」はどこにも存在せず、存在しているのは「たった今」ばかりだとすれば、その「たった今」が、一度も存在したことのない「今」の転化したものであるというのは奇妙なことではないか。この事態のもっと素直な解釈は、次のようなものだろう。「今」という経験の成立ははじめから、それが「今」でなくなることと切り離せないのである。正確に言うと、何かが失われるという経験の成立が、その何かが「在った」という仕方で「存在」の経験をも成り立たせるのである。これを煎じ詰めれば、「不在」の経験がすなわち「存在」の経験だということになる。このときの「存在」とは、本来「存在した」という完了形であることに注意しよう。完了形であるからこそ、そこに「存在」と「不在」を同時に含むことができるのである。この事態を敷衍して言えば、私たちの「経験」とは、その本質からして完了の相のもとではじめて成り立つものであって、逆に、未完了のものはいまだ存在しないことになる。

つまり、どんな現在も、それが過ぎ去ることにおいて初めて現在であるのなら、そしてすべての経験はこちらの意味での現在において成り立つものであるなら、経験において初めて姿を現わす「何ものか」は常に「不在における存在」という構造を持っているという点である。つまり、「何ものか」という現象する「自己同一的なもの」は、その「自己」自身を「絶えずみずからを失う」という仕方で現前させ、この特異な現前の構造の中ではじめて「自己同一的」なのである。そして、この「失うという仕方での現前」、「失うことにおける現前」といった奇妙な事態を可能にするものこそ、「想像力」という特異な能力を措いてほかにないはずである。想像力とは、不在のものをその不在において現前させる能力のことだからである。

こうして私たちは、「現象」の内実を、絶えず不在へと転化してゆく時間的流動の中での「不在における現前」という構造の上に成り立つ「自己同一的なもの」の「現象すること」として捉えたことになる。そして、この「不在における現前」という一見矛盾に見える事態を可能にしたものこそ、「想像力」という特異な能力だったのである。「何か或るもの」という自己同一的なものの成立が私たちの経験の世界をその根底で支えている事態であることを、私たちは先にフッサールとフレーゲとのやり取りの中ですでに予見していたわけだが、そうだとすれば私たちの世界が現に私たちがよく知っているこのようなものであることの根本には想像力という事態があった事を、ここで私たちは見届けたことになる。想像力というこの特異な能力によってはじめて成立した「自己同一的なもの」に、私たちの経験はそのすべてを負っているのである。そして、ここでこれほどまでに重要な役割を演じている「自己同一的なもの」こそ、先に第二章で触れた古来の意味における「超越的なもの=超越範疇」のひとつとしての「一」、「一者」なのである。

2014年8月 3日 (日)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(11)

b)カントの「カテゴリーの超越論的演繹」をめぐって

いまや問われるべき問題は「字合一的なもの」の成立をめぐる問題である。カントは『純粋理性批判』の「純粋悟性概念の超越論的演繹」において、自己同一性の問題が問われるべき最終的な問題次元は時間性の次元であることをはっきりと示した点で、フッサールの先鞭の範例とも言うべき位置を占めている。「純粋悟性概念の超越論的演繹」とは、カントにとって、私たちの「経験」(すなわち「対象」の「認識」)は、対象を受容し・直観する能力である「感性」と、対象の「何であるか」を規定する概念の能力である「悟性」との結合の上に成り立つ。感性は経験において与えられたものを受け取るという意味でア・ポステリオリな(経験に先立つ)出自をもつ能力である。そこでカントにとって最大の問題は、感性と悟性という出自も内実も全く異なる二つの能力がいかにして結びつけうるのかを明らかにすることであった。すなわち、「純粋悟性概念の超越論的演繹」の役割は、純粋な悟性の能力である概念が感性において与えられたものと結びつき得ることの権利根拠を明示することにある。

感性の基本形式は時間と空間である。私たちの経験に与えられるものはすべて時間と空間の内に在るからである。カントによれば、この内、私たちの外部世界についての認識の基本形式が空間であり、内部世界(すなわち「心」の中)についての認識の基本形式が時間である。外界はものとものが相互に外在する(並存する)空間の秩序に支えられており、内界は意識のさまざまな対象が現われては消えゆく(継起する)時間の秩序に支えられている。もちろんそうは言っても、外界での出来事にも時間的順序はあるのだから、外界についての認識には時間・空間の両形式が関与している。これに対して「心」の中での出来事(意識)には、時間的継起関係しか認められない。したがって、あらゆる経験のもっとも根底にあるのは時間なのである。経験のもっとも基本的な形式である時間においては、実に多様なものが次々と現われては消えてゆく。これは、感性の能力の基底にあるのは多様なものの時間的継起における受容だということにほかならない。しかし、与えられたものが次々と失われてゆくに任せていては、「経験」の成立まではいたらない。「何か」についての経験が成り立つためには、この多様なものを失われるに任せるのではなく、「取り集め」こそが、「何ものか」を受容する能力である「感性」の基本的なはたらきなのである。ところがこの「多様なもの」の「取り集め」が可能になるためには、何しろ時間は一瞬のとどまる間もなく絶えず流れ来たり、流れ去ってゆくものなのだから、次々に失われてゆくものを現在において、「再び産出する」ことが不可欠であることは明らかである。この遡及の仕方は現象学と一見似ているように思われるかもしれないが、フッサールの場合の遡及は現に成り立っている経験から出発してそれを支えているものへと遡るのに対して、カントの場合、話はあくまで「権利問題」として進んでいくのである。つまり、もしア・プリオリな総合判断として経験が成り立つべきであるとすれば、かくかくしかじかの条件が充たされるのでなければならない、というかたちで議論が進行するのである。今の議論の場合も、感性において多様なものの取り集めが成り立つためには、の可能性の条件として、時間の絶えざる流れ去りにおいて失われたものが「再産出」されるのでなければならない、という論証構造になっているのである。カントによれば、この「再産出」の能力は「想像力」に固有の能力である。なぜなら想像力とは、すでに過ぎ去って今はもうないものをあたかも眼の前にあるかのように現前させる能力に他ならず、この能力によってはじめて、現にないものの「再産出」が可能になるからである。だが、かりにこうして失われたものが再産出されたとしても、それだけでも「多様なもの」を「取り集める」ことにはならない。そこにあるものが「かつて在ったもの」であり、時間の流れの中で失われ「もはやない」ものの「再産出」であることが成り立つためには、そこに現われているものを「かつて眼の前に在った」ものの「あたかもいま眼の前に在るかのような」再産出として「再認」するはたらきが前提となるのである。この「再認」が再認識である以上、それは悟性という理解の能力に属していることになる。つまり感性における多様なものの取り集めには想像力を介して悟性の能力である「再認」が機能していたことをカントは立証して見せたわけである。この悟性の能力である「再認」が成り立つためには、再産出されたものが「かつて在ったもの」の再現前であることを認識する何ものかがそこに居合わせていなければならない。しかもこの何ものかは、「かつて在ったもの」といまそこに「再産出」されているものを見比べることができ、その上で両者が「かつての今」と「その再現」であることを保証できる者でなければならない。この条件を充たしうる何者かは、いまや明らかなように、「かつての今」とそれが再現されている新しい「今」の両時点にまたがって自己同一的な者でなければならない。すなわち「同じ私」でなければならないのである。すなわち<いずれの時点においても「私」が居合わせ、しかもそのいずれの「私」も「同一の」私であることを保証する能力>、それがカントによって「純粋統覚」と名付けられた能力なのである。しかもこの能力を彼は「私は考える」と言い換え、これこそがあらゆる経験の成立を可能にしている究極の根拠を呈示するものだというのである。どんな経験にも、それが経験であることの最終的な根拠として、「私はそう考える」が居合わせているのである。

「自己同一的なもの」の成立について、カントの議論は「純粋統覚の自我」をあらゆる経験の究極の条件にして全く形式的なものと主張することで、この「自己同一的なもの」の手前に遡行する途を塞ぐ構造を持っている。この形式がいくらその具体的内容を切り捨てようとも自我と名指されたとき、問題は再び<「多様なものの取り集め」─「再産出」─「再認」>という議論の次元に送り戻されざるを得ない。カントは、この次元での議論を「再認」という悟性の働きを最終的な可能性の条件として呈示するという仕方で終息させた。しかし、「再認」が成り立つためには、再認されるべき当のものが、もはや失われているにもかかわらず何らかの仕方で「再産出」されていなければならない。そのことは、何ものかを認識する能力としての悟性だけでは話が片付くということではない。もはや存在しないにもかかわらず現前へと向けて「産出」する別個の能力である「想像力」が、「再認」にとって不可欠なものであることにほかならない。これと同じことが感性の働きとされた「取り集め」にもあてはまる。

しかしこの事態は、感性と悟性を認識(経験)の二大源泉と見立てて、せいぜい両者を媒介するものとして想像力を位置づけたカント批判哲学の基本構想を崩壊させ、むしろ感性と悟性に共通の根としての「想像力」の内にこそ両者を根付かせるという転倒を引き起こすのではないか。

2014年8月 2日 (土)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(10)

2.想像力の根本性

a)フッサールとフレーゲ

この二人の関係は通常次のように見られている。即ち、『算術の哲学』で心理学主義の立場から数概念の基礎を考察したフッサールに対して、フレーゲから論理学主義の立場での反論と批判が寄せられ、フッサールがこの批判の正当性を認めて次著『論理学研究』においてみずからの心理学主義批判を展開することで決着した、というわけである。しかし、フッサールとフレーゲの間の表面上の対立とその解消の経緯ではなく、当初の二人の間での対立にもかかわらず、はじめから両者が、数概念の成立の根本に、或る同一の事態を見て取っていた可能性がある。

まずフレーゲから見てみよう。「数」についての彼の考え方の根本にある発想を一言で言ってしまえば、「数」の概念には「同数」という概念が先行しており、この「同数」をもって「数」を定義することができる、ということである。フレーゲによる「数」の定義の根本にあるのは、「何か或るもの」と「何か或るもの」が特定の関係の内に立つという事態である。

次はフッサールである。彼が『算術の哲学』において行った「数」の心理学主義的基礎づけとは、次のようなものであった。彼によれば「数」概念が成り立つためには、まず「何か」をとり集めることが先行条件となる。このとり集められたものが集合である。この取り集めは集められるものの性質とは無関係に成り立つ。ただただ「何か」と「何か」と…をとり集めて行けば集合は形成される。だからそうした性質とは別の次元に属していることになる。それをフッサールは心的次元と考える。こうして心的作用である取り集めによってできた集合は、「何かあるもの」という「ある一つのもの」が「ひとつ」「ひとつ」と…という仕方で結合された「多」という性格を持つ。この「多」を構成する「あるもの」が「いくつ」という仕方で明確に規定された時、そこに「数」が成立するというのである。かくして「数」とは、「規定された多」のことなのである。このときの「いくつ」という規定を与えるのは、それが「あるもの」の内実には一切関わりがないゆえに「ひとつ」といった仕方で「数える」という心的作用以外にはない、とフッサールは考えるのである。ここでも注目したいのは、「数」が成立するそのもっとも基盤には、取り集め的結合のはたらきによって取り集められる「何か」が「あるもの」としてすでに成り立っているのではなければならない、という点である。

このフレーゲとフッサールの何れの説明においても一番基底にあるのは「何かあるもの」とは「何かひとつのあるもの」のことであり、この場合の「ひとつ」は未だ数詞としての「一」ではないということに注意しなければならない。このことはフレーゲが同数ということを「数」に先行するものと考えていた点にも対応している。つまり、「数」概念が成立するためには、「何か」が「何かあるもの」として、すなわちある「自己同一的なもの」として成り立っていることが必須の条件なのであり、フッサールの言っていた「ひとつ」とはこの「自己同一性」のことなのである。フレーゲの言う「一対一対応」が成り立つためにも、そこで対応関係に立ちうる「何か」と「何か或るもの」、すなわち「自己同一的なもの」の成立が不可欠であることはもはや言うまでもないであろう。

 

2014年8月 1日 (金)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(9)

1.本質直観と想像力─形相的還元

形相的還元とは、超越論的還元によって得られた純粋な現象(「私には~と思われる」)の内にすでに与えられている現象するものを、その「何(であるか)」(本質)において明示する操作である。例えば、いま眼の前の物体が「私には机と思われる」という仕方で現象しているとしよう。ここで現象の内に姿を現わしているもの(「現象するもの」)は「机」である。だが「机」とはいったい何のことか。私がいま「これは机だ」と認識しているとき、普通はその「机」とは何であるか(すなわちその本質)について、いちいち明確な意識を持っているわけではない。しかし、だからといって私は「机」とは何であるかを知らないわけではない。「机」の本質は、私がそこに「机」を見て取っているとき、すでに何らかの仕方で理解されているのである。私は、当の「机」を、眼の前にあるそれを離れて想像の内で自由に変更することができる。想像の中で机でありうることとありえないことの様々なヴァリエーションを自由に想い描くことを通して、私は「机」のいわば理念型を明確に呈示することができるのである。すなわち、机が机でありうるために何が必要かというようなことである。

そして机のこうした理念型を規定しているのは、<それを使って人が本を読んだり、パソコンを操作したり、ものを書いたりするための道具>という「本質」であることも、私は知っているはずである。机のような道具の場合、その用途が当のものの「何であるか」を根本において規定しているのである。以上のような操作を通じていまや私は、机の何であるかを「明確に」「ありありと」「直接に」捉えていることになる。この「明確に」「ありありと」…といった与えられ方が一般に「明証性」と呼ばれる。いまや机は、その「本質」が明証性において「直観」されていると言ってよいのである。

フッサールは、この明証に大きく二つの区別を与えている。第一は「十全的明証」と呼ばれるもので、現象するものが<その全体をあますところなくあらわにしている>場合である。第二は「必当然的明証」と呼ばれ、現象するものが<もはやそれ以外である可能性が考えられない>ものをいう。彼にとって当初、明証性の範例は十全的なそれであった。しかし、たとえば知覚における明証性は常に与えられていない側面を原理的に有しており十全的明証たりえない。十全的明証が想定しているような、すべての面が同時に一挙に、一点の曇りもなくありありと与えられる場合がそれほど多くないことに、やがて彼は気づくようになる。知覚的対象の場合ばかりでなく、理念的対象の場合であっても、例えば数学の定理なども、すべてが一挙に与えられているわけではない。これに代わって彼が改めて注目したのが、たとえ十全にすべてが与えられていなくても、ある与えられた現象がそれ以外である可能性がもはや考えられないという仕方で姿を現わしているような「必当然的明証」である。これを彼は「学」が追求すべき明証性とみなすようになったのである。フッサールは、「必当然的明証性はきわめて明確に規定された独特な意味での絶対的な不可能性であり、学者がすべての原理に対して要求する不可能性である」と述べているのだが、そのような「絶対的な不可疑性」は必ずしも「純粋な現象」に対して保証されないこと、それにもかかわらず、すべての認識がそこから以外に始まりようのない最終的な基盤(起源)を求める超越論的動機は全うされうることを、私たちはすでに見たからである。つまり、「私には~と思われる」という最終的な定式がもたらす現象の「端的」で「ありありとした」与えられ方を指し示す「明証性」は、それが疑いうるか否かと独立なのである。たとえば、机の知覚の場合でも、それが直接に現前しない裏面や背面をもっていて裏に回ってみたら実は張りぼてだったという可能性があるにもかかわらず、「いま・ここで・現に私にはそれが机と思われる」のであれば、そのこと自体は「端的」かつ「ありありと」している。そのかぎりで「十全的な」明証と言ってよい、という意味である。たとえ何かが「ぼんやりと」、「不明瞭な」仕方でしか現われないとしても、「現われている」そのかぎりでそれは「端的」かつ「ありありと」していると言ってよい次元があるのである。

話を形相的還元に戻してまとめよう。このような「明証性」の内で、現象するものの「本質」を想像による「自由変更」を通してあらためて明確な直観にまでもたらすこと、それが形相的還元である。したがってこの還元は、何かが現象するのであれば、そこで現象しているものに対してそれを行うことが原理的に可能なのであるから、先の机の例のように、実際の机の知覚から出発する必要は必ずしもないことにも注意しておこう。たとえば「これは机だ」が単なる想像の世界で現れたとしても、それがひとたび現われたのであれば、そこから出発して形相的還元を遂行することができるのである。つまり、何ものかがひとたび現象したのであれば、それが現象であるかぎりで、すでにそのものの「本質」は原理的に与えられているのである。

形相的還元における本質直観にとって重要なことは、それが現実を離れた「純粋な可能性」の空間が開かれることを前提としている点である。それをフッサールは「特定の事実と結びつける一切のものから純化された純粋な可能性を私たちに提供する<あたかも~であるかのように>の領域への移行」と表現している。ここで私たちはこの<あたかも~であるかのように>が、「純粋な現象」の根本性格である「私には~と思われる」と同じ次元に属していることに気づくべきだろう。つまりそれは、一方に現実が存在することを前提にした上での単なる可能性ないし想像の領域のことではなく、現実なるものの定立を停止し、いわばそれをも可能性の領域の内に一事例として引き入れた<あたかも~であるかのように>なのである。ここで言われている<あたかも~であるかのように>は普通の意味での想像の世界ではあり得ず、可能性といっても現実を対立項に置いた上での論理的可能性ではない。こうした純粋な可能性の空間を開き、そのような領域への移行を可能にするものとしてここで名指しされている想像力もまた、私たち人間の心的能力としてのそれのことではないのである。言ってみればそれは「超越論的想像力」なのであり、「超越論的」とはすべてがそこにおいて「可能」となる最終的な場所のことに他ならなかったのだから、いまや世界のすべてがこの意味での「想像力」の内にすっぽりと包まれていることになる。

超越論的還元の真面目とも言うべき超越論性の次元に至る以前の段階においてすでにはっきり姿を見せている理念的存在としての本質の領域と、そのような本質が経験的事実としてそこにおいて捉えられる私たち一人一人の「心」の領域とは、それらが暗黙の内に遂行している両領域の存在の定立を停止することによって直ちに超越論的な次元へと移行し得るものである以上、具体的で詳細の分析の一切は、超越論的次元への移行以前に行われていても何ら差し支えない。そこで彼が考えているのはこういうことである。超越論的現象学と現象学的心理学との決定的にして唯一の違いは、前者が超越論的還元を経ているのに対して、後者はそれ以前の自然的態度にとどまっている点である。すなわち後者は、世界内の人間という存在者が持つとされる「心」についての研究なのである。そのかぎりで後者は、哲学的思考が要求する厳密さを欠いている。なぜなら、それは「心」というみずからの対象領域の存立を自明のものとして前提してしまっており、そもそもいかにして「心」なる領域がその存立を保証されるのか、あるいはそれが前提される理由は何かについて問うことがないからである。もしこの問いが問いとして成り立つのであれば、少なくともその時には何らかの仕方で「心」の領域の外部に立つ視点が確保されているのでなければならない。そしてフッサールにこの問いを可能ならしめたのが、超越論的な次元への移行だったのである。現象学的心理学でなされた「心」についての分析の成果は、それがともに発動させている存在=真理定立を停止することで超越論的次元へと直ちに移行できる以上、ほとんどそのまま超越論的現象学に取り入れることができる。同時に、現象するもの(ノエマ)をその本質において捉え、それら諸本質間の関係を厳密に理念の観点から分析する作業は論理学主義と呼ばれて差し支えないが、右で超越論的現象学と現象学的心理学との並行関係が言われたのと同じ意味で、超越論的現象学と現象学的論理学との並行関係が成立し得ることは明らかであろう。

このように見てくると、現象学が超越論的還元と形相的還元というふたつの還元から成り立っていることは、それがその内部に超越論的現象学と現象学的心理学との並行関係、ならびに超越論的現象学と現象学的論理学との並行関係を含みもつという事態と連動しているさまが見えて来るであろう。このことは、もともとフッサールにとって<心理学主義か論理学主義か>という二者択一自体が事象にふさわしくない誤った問題設定であったことに照らしてみれば、むしろ当然の帰結と言ってよいものである。現象学的心理学と現象学的論理学がそれとの並行関係を通して結びついている超越論的現象学は、前二者のいずれによっても解明することのできない固有の問題をもっている。この固有の問題の解明をまってはじめて、彼のそもそもの疑問にようやく正面から向かい合うことができるのである。

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