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2014年8月 4日 (月)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(12)

c)ヘラクレイトスと「自己同一的なもの」の生成

フッサールにとって現象が現象として姿を現わす最も基本的な次元、私に何ものかが何ものかとして端的に、直接に現象するとき、その最も具体的な相における現象は、絶えず何ものかが到来し己をあらわにしては消え去ってゆき、たちどころにまた別の何ものかが到来する…といった時間的流動のもとで与えられているからである。時間とはフッサールにとって、現象が現象として与えられる際の基本的な様態にほかならない。フッサールはこうした私たちの経験の最下層の有りようを、つねづね「ヘラクレイトス的流れ」と形容していた。世界の根本原理を「万物が流転する」絶えざる生成と消滅の内に見出した古代ギリシャ哲学者に倣ったのである。

何ものかが何ものかとして現に・今・ここで現象しているのだとすれば、少なくともその間は、何らかの仕方で何ものかが流れ去らず、立ちとどまっているにちがいないのである。問題は、この「何らかの仕方で」がどのような仕方なのかということ、そのとき流れ去らずに立ちとどまっている「何ものか」とはなにかということである。第一の点について、たしかに私たちの現実は、一瞬の間もとどまることなく次々に新たなものが姿を現わし、それもまたたちどころに失われていくように見える。「今」は「今」と言った途端にもう過ぎ去ってしまっている。これらの事態は、私たちの経験の現実として揺るがしがたい事実のように見える。そうであれば、何ものかが過ぎ去ってしまった以上、それはいまやここにはない、すなわち不在であると言わねばならない。「今」は、それを捉えて「今」と言った途端、もはやここにはない「たった今」なのであって、「たった今」とは「今」ではない「今」のことにほかならない。次々に新しい「今」が到来し続けているにしても、そのそれぞれの「今」のどれをとってみても、それを「今」と名指した途端、もはや「今」ではない「たった今」に転化してしまうことに変わりはない。つまり、言葉の厳格な意味での「今」はどこにも存在したためしがなく、現象しているのは、「たった今」という仕方でもはや「今ではない」ものばかりなのである。だが、「今」はどこにも存在せず、存在しているのは「たった今」ばかりだとすれば、その「たった今」が、一度も存在したことのない「今」の転化したものであるというのは奇妙なことではないか。この事態のもっと素直な解釈は、次のようなものだろう。「今」という経験の成立ははじめから、それが「今」でなくなることと切り離せないのである。正確に言うと、何かが失われるという経験の成立が、その何かが「在った」という仕方で「存在」の経験をも成り立たせるのである。これを煎じ詰めれば、「不在」の経験がすなわち「存在」の経験だということになる。このときの「存在」とは、本来「存在した」という完了形であることに注意しよう。完了形であるからこそ、そこに「存在」と「不在」を同時に含むことができるのである。この事態を敷衍して言えば、私たちの「経験」とは、その本質からして完了の相のもとではじめて成り立つものであって、逆に、未完了のものはいまだ存在しないことになる。

つまり、どんな現在も、それが過ぎ去ることにおいて初めて現在であるのなら、そしてすべての経験はこちらの意味での現在において成り立つものであるなら、経験において初めて姿を現わす「何ものか」は常に「不在における存在」という構造を持っているという点である。つまり、「何ものか」という現象する「自己同一的なもの」は、その「自己」自身を「絶えずみずからを失う」という仕方で現前させ、この特異な現前の構造の中ではじめて「自己同一的」なのである。そして、この「失うという仕方での現前」、「失うことにおける現前」といった奇妙な事態を可能にするものこそ、「想像力」という特異な能力を措いてほかにないはずである。想像力とは、不在のものをその不在において現前させる能力のことだからである。

こうして私たちは、「現象」の内実を、絶えず不在へと転化してゆく時間的流動の中での「不在における現前」という構造の上に成り立つ「自己同一的なもの」の「現象すること」として捉えたことになる。そして、この「不在における現前」という一見矛盾に見える事態を可能にしたものこそ、「想像力」という特異な能力だったのである。「何か或るもの」という自己同一的なものの成立が私たちの経験の世界をその根底で支えている事態であることを、私たちは先にフッサールとフレーゲとのやり取りの中ですでに予見していたわけだが、そうだとすれば私たちの世界が現に私たちがよく知っているこのようなものであることの根本には想像力という事態があった事を、ここで私たちは見届けたことになる。想像力というこの特異な能力によってはじめて成立した「自己同一的なもの」に、私たちの経験はそのすべてを負っているのである。そして、ここでこれほどまでに重要な役割を演じている「自己同一的なもの」こそ、先に第二章で触れた古来の意味における「超越的なもの=超越範疇」のひとつとしての「一」、「一者」なのである。

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