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2014年8月 3日 (日)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(11)

b)カントの「カテゴリーの超越論的演繹」をめぐって

いまや問われるべき問題は「字合一的なもの」の成立をめぐる問題である。カントは『純粋理性批判』の「純粋悟性概念の超越論的演繹」において、自己同一性の問題が問われるべき最終的な問題次元は時間性の次元であることをはっきりと示した点で、フッサールの先鞭の範例とも言うべき位置を占めている。「純粋悟性概念の超越論的演繹」とは、カントにとって、私たちの「経験」(すなわち「対象」の「認識」)は、対象を受容し・直観する能力である「感性」と、対象の「何であるか」を規定する概念の能力である「悟性」との結合の上に成り立つ。感性は経験において与えられたものを受け取るという意味でア・ポステリオリな(経験に先立つ)出自をもつ能力である。そこでカントにとって最大の問題は、感性と悟性という出自も内実も全く異なる二つの能力がいかにして結びつけうるのかを明らかにすることであった。すなわち、「純粋悟性概念の超越論的演繹」の役割は、純粋な悟性の能力である概念が感性において与えられたものと結びつき得ることの権利根拠を明示することにある。

感性の基本形式は時間と空間である。私たちの経験に与えられるものはすべて時間と空間の内に在るからである。カントによれば、この内、私たちの外部世界についての認識の基本形式が空間であり、内部世界(すなわち「心」の中)についての認識の基本形式が時間である。外界はものとものが相互に外在する(並存する)空間の秩序に支えられており、内界は意識のさまざまな対象が現われては消えゆく(継起する)時間の秩序に支えられている。もちろんそうは言っても、外界での出来事にも時間的順序はあるのだから、外界についての認識には時間・空間の両形式が関与している。これに対して「心」の中での出来事(意識)には、時間的継起関係しか認められない。したがって、あらゆる経験のもっとも根底にあるのは時間なのである。経験のもっとも基本的な形式である時間においては、実に多様なものが次々と現われては消えてゆく。これは、感性の能力の基底にあるのは多様なものの時間的継起における受容だということにほかならない。しかし、与えられたものが次々と失われてゆくに任せていては、「経験」の成立まではいたらない。「何か」についての経験が成り立つためには、この多様なものを失われるに任せるのではなく、「取り集め」こそが、「何ものか」を受容する能力である「感性」の基本的なはたらきなのである。ところがこの「多様なもの」の「取り集め」が可能になるためには、何しろ時間は一瞬のとどまる間もなく絶えず流れ来たり、流れ去ってゆくものなのだから、次々に失われてゆくものを現在において、「再び産出する」ことが不可欠であることは明らかである。この遡及の仕方は現象学と一見似ているように思われるかもしれないが、フッサールの場合の遡及は現に成り立っている経験から出発してそれを支えているものへと遡るのに対して、カントの場合、話はあくまで「権利問題」として進んでいくのである。つまり、もしア・プリオリな総合判断として経験が成り立つべきであるとすれば、かくかくしかじかの条件が充たされるのでなければならない、というかたちで議論が進行するのである。今の議論の場合も、感性において多様なものの取り集めが成り立つためには、の可能性の条件として、時間の絶えざる流れ去りにおいて失われたものが「再産出」されるのでなければならない、という論証構造になっているのである。カントによれば、この「再産出」の能力は「想像力」に固有の能力である。なぜなら想像力とは、すでに過ぎ去って今はもうないものをあたかも眼の前にあるかのように現前させる能力に他ならず、この能力によってはじめて、現にないものの「再産出」が可能になるからである。だが、かりにこうして失われたものが再産出されたとしても、それだけでも「多様なもの」を「取り集める」ことにはならない。そこにあるものが「かつて在ったもの」であり、時間の流れの中で失われ「もはやない」ものの「再産出」であることが成り立つためには、そこに現われているものを「かつて眼の前に在った」ものの「あたかもいま眼の前に在るかのような」再産出として「再認」するはたらきが前提となるのである。この「再認」が再認識である以上、それは悟性という理解の能力に属していることになる。つまり感性における多様なものの取り集めには想像力を介して悟性の能力である「再認」が機能していたことをカントは立証して見せたわけである。この悟性の能力である「再認」が成り立つためには、再産出されたものが「かつて在ったもの」の再現前であることを認識する何ものかがそこに居合わせていなければならない。しかもこの何ものかは、「かつて在ったもの」といまそこに「再産出」されているものを見比べることができ、その上で両者が「かつての今」と「その再現」であることを保証できる者でなければならない。この条件を充たしうる何者かは、いまや明らかなように、「かつての今」とそれが再現されている新しい「今」の両時点にまたがって自己同一的な者でなければならない。すなわち「同じ私」でなければならないのである。すなわち<いずれの時点においても「私」が居合わせ、しかもそのいずれの「私」も「同一の」私であることを保証する能力>、それがカントによって「純粋統覚」と名付けられた能力なのである。しかもこの能力を彼は「私は考える」と言い換え、これこそがあらゆる経験の成立を可能にしている究極の根拠を呈示するものだというのである。どんな経験にも、それが経験であることの最終的な根拠として、「私はそう考える」が居合わせているのである。

「自己同一的なもの」の成立について、カントの議論は「純粋統覚の自我」をあらゆる経験の究極の条件にして全く形式的なものと主張することで、この「自己同一的なもの」の手前に遡行する途を塞ぐ構造を持っている。この形式がいくらその具体的内容を切り捨てようとも自我と名指されたとき、問題は再び<「多様なものの取り集め」─「再産出」─「再認」>という議論の次元に送り戻されざるを得ない。カントは、この次元での議論を「再認」という悟性の働きを最終的な可能性の条件として呈示するという仕方で終息させた。しかし、「再認」が成り立つためには、再認されるべき当のものが、もはや失われているにもかかわらず何らかの仕方で「再産出」されていなければならない。そのことは、何ものかを認識する能力としての悟性だけでは話が片付くということではない。もはや存在しないにもかかわらず現前へと向けて「産出」する別個の能力である「想像力」が、「再認」にとって不可欠なものであることにほかならない。これと同じことが感性の働きとされた「取り集め」にもあてはまる。

しかしこの事態は、感性と悟性を認識(経験)の二大源泉と見立てて、せいぜい両者を媒介するものとして想像力を位置づけたカント批判哲学の基本構想を崩壊させ、むしろ感性と悟性に共通の根としての「想像力」の内にこそ両者を根付かせるという転倒を引き起こすのではないか。

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