無料ブログはココログ

最近読んだ本

« 手続きの独り歩き…かな(1) | トップページ | 手続きの独り歩き…かな(2) »

2014年8月 6日 (水)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(14)

第4章 身体と私─「現象」の媒体

本章の主題は、「現象すること」にとって不可欠の媒体である「私」である。

1.現象を見てとる者─「私」

「現象すること」とは、とりもなおさず「何ものか」が現象することである以上、その「何ものか」の自己同一性の成立がまずもって見届けられねばならなかったわけである。しかし、「現象すること」にとって、現象する「何ものか」の自己同一性の成立をもってすべてが成就するわけではない。何ものかが現象すると言えるためには、現象する何ものかをまさしく現象するものとして見てとる「何者か」が、そこに居合わせているのでなければならないのである。誰もそれを見てとる者がいないところで、現象するものだけが現象しているという事態はありえない。何者もそれを見てとっていないのであれば、それは端的に何も現象していないのである。私たちの日常の語法ではそうしたとき、<それはただ「在る」だけで現象していない>と表現されるだろう。しかし、還元をすでに経た私たちにとっては、「在る」もまたひとつの現象の形態以外ではなかったのだから、<何かがただ在る>といったとき、すでにそれはそのような仕方で現象してしまっているのである。かくして私たちは今、「何かがただ在るだけで、現象はしていない」という言い方が成り立たない地点に立っている。ここでは、現象することと存在することとが正確に肩を並べているのである。

こうした存在と現象との比肩を可能にしたものこそ、自己同一的なものの成立だったと言ってもよい。これを逆から言えば、いかなる自己同一的なものの成立もない単なる「存在」が想定可能であれば、そのとき、そしてそのときにのみ、現象には背後があることになろう。だが、それは想定不可能なのである。すべての自己同一的なものを消去したとき、そこには文字通り何も残らないのである。言葉の厳密な意味で<何ものも現象=存在しないこと>とは、私たちには思考不可能なこと、少なくとも思考の限界を画する事態だと言わねばならない。この事態に直面したとき、私たちはそこで自分が「何を」考えているのか知らないのである。かくして、何ものかが存在するのであれば、必ずやそれは何者かに対して存在しているのでなければならない。見てとるものなしの端的な存在とは、いまや背理だからである。「現象すること」は、その不可欠の分肢として、「現象するもの」と「現象を見てとるもの」を必然的に含むのである。

ここではっきりさせておきたいことは、「現象すること」こそが私たちの世界の成立にとって最上位に位置する事態だという点である。「現象すること」は、世界のすべてを貫通する「超越範疇」=「超越論的なもの」なのである。したがって、「現象するもの」も「現象を見てとるもの」も、ともに「現象すること」という最上位の事態の下に包摂されていることになる。これは、「現象すること」という事態の生起なしには、「現象するもの」も「現象を見てとるもの」も成り立ち得ないということにほかならない。だが、それにもかかわらず、「現象すること」と、「現象するもの」ならびに「現象を見てとるもの」との関係は、完全に対等なものではない。このことは、「現象するもの」ならびに「現象を見てとるもの」がすでに自身の想定の内に「現象すること」を含んでしまってことからも、容易に見てとれよう。これら両項はいずれも、自らの存在を「現象すること」の方から受け取っているのである。そして、「現象するもの」と「現象を見てとるもの」はともに「現象すること」に属する不可欠の分肢である限りでは、同等の位置占めると言ってよいが、「現象」という観点から両者の在り方を眺めて見るとき、そこには大きな違いがあることに気づかされる。ますず、「現象するもの」が端的に現象しているのに対して、当の「現象するもの」を見てとっている「現象を見てとるもの」の方は、そのような仕方では現象していない。「現象を見てとるもの」は、それが「見てとるもの」であるかぎりで、それ自体は、決して見えないのである。視野の中のどこを探しても、当の視野がそこから開けているはずの視点それ自体を発見することはできない。

確認しよう、まずもって現象しているのは「現象するもの」の方であって、それを「見てとるもの」の方ではない。この意味では、両者の関係は対等なものではない。では「現象するもの」は、どのようにして現象するのか。それは、もはやそこにはないものを、あたかもそこにあるかのような現前させる「想像」の能力によってであった。私たちはたしかに、もはやそこにない音を聞いているのである。私たちの知覚は、現にそこに在るはずのものを遥かに越えて、ひろがっているのである。これが「不在における現前」、すなわち「記号」という事態であった。それは、「もはやない」という仕方で「かつてあった」ものがはじめて、くっきりとした輪郭をともなって姿を現わすという事態である。あるいは、「いまだない」という仕方で「やがてあるだろう」ものがはじめて、現象にもたらされる事態である。このときの「ない」という経験の内には、何ものかが「失われた」という意味合いが色濃く反映している。何ものかが「失われた」のであれば、それはかつては「所有」されていたのである。換言すれば、何ものかが「失われる」ことの経験は同時に、何ものかが「所有」されうることの経験の成立でもあるのだ。そして「喪失」にせよ「所有」にせよ、それらが事態として成り立つのであれば、それは明らかに誰かがこの「喪失」と「所有」にすでに立ち会っていることを示している。この「誰か」とは、煎じ詰めればこの「私」以外にではありえないだろう。それは、紛れもなくこの私の手からこぼれ落ちて行ったのである。つまり、私の存在がそこに反映されているのである。

「現象するもの」には「現象を見てとるもの」としての私が常に居合わせている。正確に言い直せば、現前を可能にする不在が「喪失」の色合いを帯びていることの内に、私のこの「居合わせ」が暗示ないし告知されているのである。しかしこの告知は、それだけをとってみれば、ほとんどそれとして気づかれることすらないほど微かなものではないのか。不在が単なる不在ではなく、紛れもなく「喪失」であることが明らかになるためには、「現象するもの」の側にのみ目を注いでは不十分なのではないか。まさしくそのように思われる。

何ものかを失うことができるためには、その何ものかがすでに所有されていたので居たのでなければならない。そしてそれが所有であるからなは、何ものかを所有している当の者がそこに居合わせているのでなければならない。さらに一歩進めると、いまや、所有されていた何ものかが「失われた」ものとして現前している。そうであれば、何ものかを所有していた当の者もまた、その所有が失われたかぎりで、ともに失われたのではないか。何ものかが失われるという経験の成立は、失われるという仕方での失われた当のものの経験であると同時に、何ものかを失う当の者自身の経験の成立でもあるのではないか。ここで何ものかを失う当の者は、自身をも、その失われた当のものとともに失われたものとして、経験するのではないか。自己自身を、失われたものとしてはじめて見出すのではないか。このときそこに、「現象を見てとるもの」自身の自己同一性が成立しているのである。「現象するもの」の内に孕まれた不在が「喪失」の相の下に立ち現われるためには、その「現象するもの」を自らの経験において証し・保持する者が、まさしく当の自己自身を失うという仕方で、すでに自らに対して姿を現わしているのである。

かくして、<「現象を見てとるもの」が現象する>という事態が成立したのである。これが「不在における現前」という「記号」の本質を充たしていることは言うまでもない。それどころか、「記号」という事態の根本には、自己自身の「不在」のもとで己を「現前」させるという仕方で自己自身が記号そのものであるような「現象を見てとるもの」が存しているのである。自らが記号であるような「現象を見てとるもの」のもとではじめて、世界のすべては「現象するもの」となる。この意味で、「現象を見てとるもの」すなわち「私」は、紛れもなく「現象すること」の媒体なのである。この「媒体」としての「現象を見てとるもの」こそ、自らが絶えず不在に、喪失に、自らの外部に、自らの他者に曝され・投げ出されていることの発見の中で、おのれが何者であるかをその自己同一性において初めて露わにし、そのことを通じて世界のすべてを現象へともたらす者、すなわち「私」にほかならない。そして「私」とは、みずからが「記号」そのものであることによって、「不在における現前」の能力である「想像力」がそこに根を下ろし、「現象すること」がそこにおいて可能になる場所のことでもある。これはすなわち、想像力とは私の能力のことではないということである。なぜなら、想像力という「不在における現前」の能力が根付くその場所においてはじめて、「私」という自己同一的なものがみずからに対して現象することが可能になったからである。この想像力の方こそが、本来「現象すること」の媒体であった「現象を見てとるもの」をも、「私」という自己同一的なものとして現象することを可能にしたのであり、この意味でいわば想像力の方が私を所有しているのである。このようにして、私が私であるのは、あくまでもそれが私として、すなわち自己同一的な何ものかとして現象するかぎりにおいてである。すなわちそれは「現象するもの」であって、このかぎりで世界の内部に、つまりは経験的・自然的なものとして存在する。他方、みずからもこのようにして現象する「私」は、それを通してそもそも世界がはじめて現象するに至る媒体なのだから、そしておよそすべてが現象することを可能にしているのは想像力の方なのだから、真に超越論的なものでは、この想像力のことなのである。

« 手続きの独り歩き…かな(1) | トップページ | 手続きの独り歩き…かな(2) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(14):

« 手続きの独り歩き…かな(1) | トップページ | 手続きの独り歩き…かな(2) »