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2014年8月11日 (月)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(17)

2.純粋自我から世界へ─「経験的すること」そのことをめぐって

以下では、フッサールの超越論的現象学の構想にとって、「純粋自我」の問題を超越論的次元で徹底して問うことが不可欠であること、ならびにそれが私たちをどのような地点に導くものであるのかを明らかにしたい。

フッサールは、自我をめぐる自身の分析が『イデーン』期においては結局不十分なものに終わらざるをえなかったことを後年自己批判して、みずから軌道修正する発言をしていた。例えば世界の実在性などは典型的な「超越」(すなわち、その根拠が必ずしも明白でないままに、そのそれ自体での存在─即自存在─が暗黙の内に信じられているもの)であり、この「超越」を一旦機能させなくすることが「遮断」すなわち「スウィッチを切ること」であった。「内在」への還元である。ところが「純粋自我」は、その存在をこの意味での「内在」に還元することができないにもかかわらず、「遮断することは許されない」「一種度得な超越」だというのである。それが「内在」に還元できないのは、それは決して体験の多様な中に対象として姿を現わしていないからである。そうであるにもかかわらず、それを「遮断」できないのは、それが「現象するもの」の多様を統一し・中心化する機能をはたしているのでなければ、「内在」の領野において紛れもなく「多様な体験の一つの流れ」が成立していることの説明がつかないからにほかならない。したがって、現にこのような「ひとつの流れ」が成り立っている以上、それがいかにして構成されたのかが問われねばならないのだが、その構成原理と目された「純粋自我」が現象の内に姿を見せていないがゆえに、構成分析はこの問題に手を付けることができないまま、それを前提とせざるをえないのである。

いまや私たちは、ここでフッサールによってその問題の解決が留保されざれをえないとされた問題こそ、「超越論的なもの」そのものにかかわる問題であったと考えることができる。しかし、フッサールは『イデーン』においては、「自我」の問題を現象世界に内在する次元で、すなわち経験的自我として分析する方向へ向かっていたのである。超越論的還元によって切り拓かれた超越論的な次元において体験の多様として現象するものの構成分析にまずもって着手した現象学は、そのような自らの分析が「そこにおいて」なされている超越論的な次元そのものの解明、すなわち「純粋自我」とさしあたり呼ばれた問題の解明を棚上げにしたまま、同じ「自我」の問題を「心」ならびに「精神」として現象する「人格」の次元での具体的分析によって解明する方向に進んだのである。その後、フッサールは『イデーンⅡ』での「心」や「精神」としての「自我」の分析が、世界内の様々な存在者を「領域」に区分する「本質」として行われたことは、それがいまだ静態的現象額の段階にとどまっていたことを意味する。これに対してフッサールの関心は、やがてそのような諸「本質」をその発声へと遡って問う分析へと移行していき、発生的現象学と呼ばれる段階を迎える。このときそれらの諸本質の発生は、しばしば「私には~と思われる」の「私」の作用によるものとみなされ、その「私」の属する次元が曖昧なまま、「習慣性」や「能力性」といった潜在的な領野に関わる問題系が開拓される。なぜ「私」の属する次元が曖昧かといえば、この分析が超越論的次元でなされている以上、そこで固有の意味で「自我」と呼ばれているものも超越論的なものでなければならないはずであるにもかかわらず、それが「純粋自我」として捉えられたままそれ以上の解明が留保され、実際の分析の上で機能している「自我」概念は『イデーンⅡ』以来の経験的次元のそれが暗に想定されているからである。

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