無料ブログはココログ

« ジャズを聴く(9)~ソニー・ロリンズ「サクソフォン・コロッサス」 | トップページ | ジャズを聴く(10)~リー・コニッツ「モーション」 »

2014年8月24日 (日)

手続きの独り歩き…かな(4)

難しいことを、難しく話すということは、まあ、たいていの人はできる。そのまま話せばいいことなので。しかし、難しい話を、聞く人に分かりやすく話すということは難しい、とよく言われます。それは、当人が話の内容を十分理解していて、例えば書物で読んで得た知識であれば、それを比喩的に言えば肚に落とし込む、換骨奪胎して自分の言葉に置き換えることで、その知識が生き生きとしたものになります。また、当人にとってリアリティのあるものとして再生することになります。これが第一段階です。第一段階といっても、難しいことです。この段階で既に挫折してしまっているケースが多いと思います。もっとも、それ以前に、この第一段階があるということすら気づいていないケースも少なくありません。次の段階で、今度は分かりやすい説明にするという作業が第二段階です。このときに、説明をする相手が気心の知れた人であれば、どのような考え方をする人であるかとか、どのようなバックボーンをもっているかなどを分かっているのですが、そうでない場合、とくに不特定の人に説明する場合には、そういう土台なしに説明をしなければなりません。そういう場合に分かりやすい説明にするために、一つの方法として複雑な話であれば単純化させて、ある種紋切り型にしてしまうという手法は、かなり有効です。この場合、話を単純化させるためにはポイントを押さえ、それ以外のところを大胆に切り捨てるという作業をすることになります。それは、ポイントを押さえていなければまずは不可能です。そして、それ以外のところを切り捨てて、単純化してしまうことで誤解を招いてしまう危険に対して、責任を負う覚悟がないとできません。当人が、そのようなことができるまで、内容を理解するためには多大な苦労と長い時間がかかっていたはずです。それを短時間の説明で用意のない人に理解できるわけがなく、当人の話を聴いたとしても、いくら分かりやすくなっていたとしても、それは理解の入り口であるに過ぎません。

一方、それを聞く人は、どうなのでしょうか。多分、多くの人は単純化された紋切り型の説明で分かったということになってしまうと思います。それが理解のための入り口つまり、スタートであるにもかかわらず、ゴールであると思ってしまうのです。それによって紋切り型が一人歩きすることになります。しかも、件の説明者が単純化させるために、そのリスクを負ったのとは逆に、紋切り型をそのまま受け取って、それを流してしまう人はリスクを感じることはありません。だからリスクを負いません。そこで、その内容にたいして責任を持つということがなくなり、それに対して生々しいリアリティを感じるとか、あるいは反発するとかいうビビッドな反応が次第に遠のいていくことになってしまいます。そのときに起こるのが紋切り型の一人歩きという現象です。例えば、以前に述べたことで、本来の目的から離れたところで、その目的のための手段が一人歩きしてしまって、あたかもそれが目的であるかのようなことになってしまう。これは、メッセージの伝達のための効率を考えれば、避けて通れないことです。

抽象的すぎて実感しにくいでしょうか。例えば、私が以前携わり、このブログにおいても考えることを盛んに書き込んでいた企業のIRという業務について、企業が事業を発展させていくために必要、あるいは有効であるからこそ行われていることです。私の場合も、勤め先の会社にとってそれが必要であると考えたからこそ熱心にやっていました。だからこと、本当に必要なのかという見直し(自問自答)が必要なのです。それがなくて、ただ実行されているとすれば、もし必要性がなくなった場合であれば、費用の無駄遣いであり、企業の経営の足を引っ張ることになりかねません。それでも、IRをアピールするとかしていたとしたら、それは企業にとって損失です。極端なことを言えば、結果的に、その業務を行っている人は企業に貢献するのではなく、自分の保身のためにやっているということになります。それは、本来の目的ではなく、企業の目的のための手段である業務そのものが自己目的化してしまっている極端な例としてとりあげてみました。なお、付け加えますと、この場合、業務の必要か否かを判断するのは経営者であり、担当者の責任ではないという意見もあると思います。それはもっともなことだと思います。そうでれば、逆にその業務が企業の目的から外れないように、有効であり続けるように自問自答をしつつ軌道修正をしていくことが必要になってくるはずです。その場合には自己保身と企業への貢献が合致するわけで、たえずその方向にいるという、それがマネジメントというものではないでしょうか。それは時には自己否定も避けられないような考えることを常に課せられることではあると思います。

何事かを、とにかく責任を持って実行しようとするとき、最低限必要なことなのではないか、少なくとも自分ひとりではおわらず、自分以外の人と、そのことによって関わるという場合には、避けて通れないことではないか、と最近思っています。

« ジャズを聴く(9)~ソニー・ロリンズ「サクソフォン・コロッサス」 | トップページ | ジャズを聴く(10)~リー・コニッツ「モーション」 »

あるIR担当者の雑感」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 手続きの独り歩き…かな(4):

« ジャズを聴く(9)~ソニー・ロリンズ「サクソフォン・コロッサス」 | トップページ | ジャズを聴く(10)~リー・コニッツ「モーション」 »