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2014年8月 1日 (金)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(9)

1.本質直観と想像力─形相的還元

形相的還元とは、超越論的還元によって得られた純粋な現象(「私には~と思われる」)の内にすでに与えられている現象するものを、その「何(であるか)」(本質)において明示する操作である。例えば、いま眼の前の物体が「私には机と思われる」という仕方で現象しているとしよう。ここで現象の内に姿を現わしているもの(「現象するもの」)は「机」である。だが「机」とはいったい何のことか。私がいま「これは机だ」と認識しているとき、普通はその「机」とは何であるか(すなわちその本質)について、いちいち明確な意識を持っているわけではない。しかし、だからといって私は「机」とは何であるかを知らないわけではない。「机」の本質は、私がそこに「机」を見て取っているとき、すでに何らかの仕方で理解されているのである。私は、当の「机」を、眼の前にあるそれを離れて想像の内で自由に変更することができる。想像の中で机でありうることとありえないことの様々なヴァリエーションを自由に想い描くことを通して、私は「机」のいわば理念型を明確に呈示することができるのである。すなわち、机が机でありうるために何が必要かというようなことである。

そして机のこうした理念型を規定しているのは、<それを使って人が本を読んだり、パソコンを操作したり、ものを書いたりするための道具>という「本質」であることも、私は知っているはずである。机のような道具の場合、その用途が当のものの「何であるか」を根本において規定しているのである。以上のような操作を通じていまや私は、机の何であるかを「明確に」「ありありと」「直接に」捉えていることになる。この「明確に」「ありありと」…といった与えられ方が一般に「明証性」と呼ばれる。いまや机は、その「本質」が明証性において「直観」されていると言ってよいのである。

フッサールは、この明証に大きく二つの区別を与えている。第一は「十全的明証」と呼ばれるもので、現象するものが<その全体をあますところなくあらわにしている>場合である。第二は「必当然的明証」と呼ばれ、現象するものが<もはやそれ以外である可能性が考えられない>ものをいう。彼にとって当初、明証性の範例は十全的なそれであった。しかし、たとえば知覚における明証性は常に与えられていない側面を原理的に有しており十全的明証たりえない。十全的明証が想定しているような、すべての面が同時に一挙に、一点の曇りもなくありありと与えられる場合がそれほど多くないことに、やがて彼は気づくようになる。知覚的対象の場合ばかりでなく、理念的対象の場合であっても、例えば数学の定理なども、すべてが一挙に与えられているわけではない。これに代わって彼が改めて注目したのが、たとえ十全にすべてが与えられていなくても、ある与えられた現象がそれ以外である可能性がもはや考えられないという仕方で姿を現わしているような「必当然的明証」である。これを彼は「学」が追求すべき明証性とみなすようになったのである。フッサールは、「必当然的明証性はきわめて明確に規定された独特な意味での絶対的な不可能性であり、学者がすべての原理に対して要求する不可能性である」と述べているのだが、そのような「絶対的な不可疑性」は必ずしも「純粋な現象」に対して保証されないこと、それにもかかわらず、すべての認識がそこから以外に始まりようのない最終的な基盤(起源)を求める超越論的動機は全うされうることを、私たちはすでに見たからである。つまり、「私には~と思われる」という最終的な定式がもたらす現象の「端的」で「ありありとした」与えられ方を指し示す「明証性」は、それが疑いうるか否かと独立なのである。たとえば、机の知覚の場合でも、それが直接に現前しない裏面や背面をもっていて裏に回ってみたら実は張りぼてだったという可能性があるにもかかわらず、「いま・ここで・現に私にはそれが机と思われる」のであれば、そのこと自体は「端的」かつ「ありありと」している。そのかぎりで「十全的な」明証と言ってよい、という意味である。たとえ何かが「ぼんやりと」、「不明瞭な」仕方でしか現われないとしても、「現われている」そのかぎりでそれは「端的」かつ「ありありと」していると言ってよい次元があるのである。

話を形相的還元に戻してまとめよう。このような「明証性」の内で、現象するものの「本質」を想像による「自由変更」を通してあらためて明確な直観にまでもたらすこと、それが形相的還元である。したがってこの還元は、何かが現象するのであれば、そこで現象しているものに対してそれを行うことが原理的に可能なのであるから、先の机の例のように、実際の机の知覚から出発する必要は必ずしもないことにも注意しておこう。たとえば「これは机だ」が単なる想像の世界で現れたとしても、それがひとたび現われたのであれば、そこから出発して形相的還元を遂行することができるのである。つまり、何ものかがひとたび現象したのであれば、それが現象であるかぎりで、すでにそのものの「本質」は原理的に与えられているのである。

形相的還元における本質直観にとって重要なことは、それが現実を離れた「純粋な可能性」の空間が開かれることを前提としている点である。それをフッサールは「特定の事実と結びつける一切のものから純化された純粋な可能性を私たちに提供する<あたかも~であるかのように>の領域への移行」と表現している。ここで私たちはこの<あたかも~であるかのように>が、「純粋な現象」の根本性格である「私には~と思われる」と同じ次元に属していることに気づくべきだろう。つまりそれは、一方に現実が存在することを前提にした上での単なる可能性ないし想像の領域のことではなく、現実なるものの定立を停止し、いわばそれをも可能性の領域の内に一事例として引き入れた<あたかも~であるかのように>なのである。ここで言われている<あたかも~であるかのように>は普通の意味での想像の世界ではあり得ず、可能性といっても現実を対立項に置いた上での論理的可能性ではない。こうした純粋な可能性の空間を開き、そのような領域への移行を可能にするものとしてここで名指しされている想像力もまた、私たち人間の心的能力としてのそれのことではないのである。言ってみればそれは「超越論的想像力」なのであり、「超越論的」とはすべてがそこにおいて「可能」となる最終的な場所のことに他ならなかったのだから、いまや世界のすべてがこの意味での「想像力」の内にすっぽりと包まれていることになる。

超越論的還元の真面目とも言うべき超越論性の次元に至る以前の段階においてすでにはっきり姿を見せている理念的存在としての本質の領域と、そのような本質が経験的事実としてそこにおいて捉えられる私たち一人一人の「心」の領域とは、それらが暗黙の内に遂行している両領域の存在の定立を停止することによって直ちに超越論的な次元へと移行し得るものである以上、具体的で詳細の分析の一切は、超越論的次元への移行以前に行われていても何ら差し支えない。そこで彼が考えているのはこういうことである。超越論的現象学と現象学的心理学との決定的にして唯一の違いは、前者が超越論的還元を経ているのに対して、後者はそれ以前の自然的態度にとどまっている点である。すなわち後者は、世界内の人間という存在者が持つとされる「心」についての研究なのである。そのかぎりで後者は、哲学的思考が要求する厳密さを欠いている。なぜなら、それは「心」というみずからの対象領域の存立を自明のものとして前提してしまっており、そもそもいかにして「心」なる領域がその存立を保証されるのか、あるいはそれが前提される理由は何かについて問うことがないからである。もしこの問いが問いとして成り立つのであれば、少なくともその時には何らかの仕方で「心」の領域の外部に立つ視点が確保されているのでなければならない。そしてフッサールにこの問いを可能ならしめたのが、超越論的な次元への移行だったのである。現象学的心理学でなされた「心」についての分析の成果は、それがともに発動させている存在=真理定立を停止することで超越論的次元へと直ちに移行できる以上、ほとんどそのまま超越論的現象学に取り入れることができる。同時に、現象するもの(ノエマ)をその本質において捉え、それら諸本質間の関係を厳密に理念の観点から分析する作業は論理学主義と呼ばれて差し支えないが、右で超越論的現象学と現象学的心理学との並行関係が言われたのと同じ意味で、超越論的現象学と現象学的論理学との並行関係が成立し得ることは明らかであろう。

このように見てくると、現象学が超越論的還元と形相的還元というふたつの還元から成り立っていることは、それがその内部に超越論的現象学と現象学的心理学との並行関係、ならびに超越論的現象学と現象学的論理学との並行関係を含みもつという事態と連動しているさまが見えて来るであろう。このことは、もともとフッサールにとって<心理学主義か論理学主義か>という二者択一自体が事象にふさわしくない誤った問題設定であったことに照らしてみれば、むしろ当然の帰結と言ってよいものである。現象学的心理学と現象学的論理学がそれとの並行関係を通して結びついている超越論的現象学は、前二者のいずれによっても解明することのできない固有の問題をもっている。この固有の問題の解明をまってはじめて、彼のそもそもの疑問にようやく正面から向かい合うことができるのである。

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