ジャズを聴く(9)~ソニー・ロリンズ「サクソフォン・コロッサス」
ソニー・ロリンズのプレイの最も大きな特徴として、彼の創り出す音楽には歌がある、と言われる。
それは、ロリンズがメロディを情感タップリに嫋嫋と歌うように演奏するというのではない。端的に言えば、ロリンズの生み出すアドリブのフレーズのほとんどがメロディとして聴けてしまうということだ。試しに、他のサックス奏者のアドリブと聴き比べてみると、ロリンズのアドリブが突出しているのが分かる。普通、その場その場の即興で、そうそうまとまったメロディなど作れるものではない。かといって作り置いたものを用意しておいて使うにしても、そこで使えるとは限らないし、そもそも作り置いて新鮮さを失ってしまったものは、生ものであるアドリブとは相いれないだろう。著名なプレイヤーであっても短い節で、せいぜいがメロディのかけらのようなものをプレイしている。それと比べた時のロリンズの創造力の凄さだ。人間の創造力なんてたかが知れている。まとまったフレーズなんてそう簡単に作れるはずがない。仮に作れたとしても、そうたびたび目新しいものなど作れるはずがない。メロディというまとまった形をとれば、人の記憶に残り、似たようなものがあれば、すぐに見破られてしまうだろう。だから。そこで、プレイの度に瑞々しいアドリブプレイを重ねるロリンズが天才的だと言える。
さらに、ロリンズの歌い回しが絶妙で、クラシック音楽で、例えばショパンのピアノ曲を優れたピアニストは、左手で演奏する低音部でキッチリをとり、右手で演奏する高音部のメロディはそのリズムから間をとって心もちズラしたり、リズムを崩したりする。そこにピアニストの個性的な歌い回しが生まれ、独特の情感や余韻を作り出す。クラシックのピアノのテクニックでテンポ・ルバートと呼ばれるものだ。ロリンズにも、そこまで体系化されているわけではないが、おそらく本能的に独特の間の取り方や崩し方で個性を際立たせているところがある。それが、豪快で男性的とも言われるロリンズの演奏を味わい深いものにしている。それがロリンズの歌いまわしだ。
Saxophone Colossus
St. Thomas
You Don't Know What Love Is
Strode Rode
Moritat
Blue 7
Doug Watkins (b)
Max Roach(ds)
Sonny Rollins(ts)
Tommy Flanagan (p)
冒頭の「St. Thomas 」は“トンスト・トトト・トンスト・トトト”という軽快なドラムから始まって、ロリンズがそっと陽気でかつ翳りを秘めたカリプソ風のテーマ・メロディを吹く。これが有名な一節。初めて聞いたときは、何となく脳天気なメロディと思っていたが、何度も聴くうちに、実はこの何気ないメロディの演奏の背後には緊張感が張りつめていることが分かってくる。それは、この後の展開を知っているからこそなのだが、ロリンズは、テーマをワンコーラス吹いた後、これを何度か繰り返し、さらに、たった二音の単純なリフを何度も繰り返す。ここのことを次のように言う人もいる。“おそらくロリンズは、この繰り返しのところで、どんな方向へ向かって自分の歌を離陸させようか、探っているのだろう。つまりロリンズは勝手知ったる自作曲であっても、それをあらかじめ煮詰めることで完成へもっていくのではなく、即興の精神そのままに、自分の曲が演奏に臨んでどんな方向へと育っていくのかに、じっと耳を傾けるのだ。ロリンズはこのアルバムで、こうした綱渡りのような危険な賭けを─というのも、先の展開はその場の成り行きなのだからメチャメチャになる可能性をいつも孕んでいる─全編にわたって繰り広げている。それにもかかわらず、気軽に聴けばそれなりに楽しめてしまうのは、ロリンズならではの才能ではあるが、じっくり聴けば、これはけっこう緊張する演奏でもある。”そこまで、深読みしなくても、と思うが、それは聴く方にもひしひしと伝わってくる。単純なリフの繰り返しの度に、どんどん緊張感が高まって来るのだ。それを聴く方は、逆に期待感がどんどん高まっていく。実は、そういう緊張感の高まりが最初のテーマのところから徐々に高められてきている。しかし、その緊張感が高まっていくにつれて、ロリンズのサックスの音が徐々に軽くなっていくのだ。精神が緊張していくにつれて、音は逆にリラックスしていく。実際に、そこから始まるロリンズのソロは、吹きまくるということをしない。しかし、そこで出てくるのは、最初のテーマから、どうしてこうなってしまったのかと、まるでワープしてしまったかのような突拍子もないのだけれど完璧に歌となったメロディが出てくる。とくに、最初に一発カマすなどという必要がなく、フレーズで勝負してくるのだ。実際、ドラム・ソロが終わって、曲が後半に入るころ、ようやくロリンズは豪快に走り出す。それは、だから、そういうこともできる、という程度のアクセントなのだろう(とは言っても豪快で、力強いもので、その迫力は、簡単に真似のできるものではないだろうけれど)。そこには、豪快で、天才的な閃きに満ちているとはいいながら、フレーズ一本で勝負している愚直なまでのロリンズの姿勢が現われている。
最後の「Blue 7」は、わずか12小節のブルースのメロディを、ロリンズは原曲の小さい部分(モティーフ)を変えて、他の部分と結びつける際に、何ももとの順序に従う必要はないと、いくつかの目ぼしい音(X)に変化をつけて演奏し、別の数音(Y)に変化をつけ、さらに別の数音(Z)に変化をつけ、ふたたびYに変化をつけ、Xに変化をつけるというふうに演奏する。時にその変奏はテンポを倍加してパーカーふうな音の奔流となるが、それ以外では不可欠のもの、そう、たった二つの音、ひとつの音程にまで削ぎ落とされる。そういう極限まで研ぎ澄まされたような、夾雑物を排した即興に臨むロリンズには鬼気迫るものを感じる。
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