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2014年8月 8日 (金)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(15)

2.身体としての私─「自由」と「間身体性」

私における超越論的なものとは想像力であることを確認した。そして想像力とは、「不在における現前」の能力のことであった、この「不在における現前」を、あらためて<現にそうではないものが、あたかもそうであるかのように姿を現わす>と捉え直すことができる。この能力は同時に、私たちを現にそうであるもの<現実>への拘束から解き放つ可能性をも開示する。なぜなら、この現実がこのようであることにはもちろんそれなりの理由や根拠や原因があるにしても、それが必ずしも絶対にそうでなければならなかったわけではないのだとすれば、そのとき私たちはすでにこの現実から何程化距離を取った地点に身を置いているのであり、現実からのこの距離がすなわち現実からの解放を告げ知らせているからである。これはすなわち、私たちがこの現実に対してすでに「自由」であることに他ならない。だが、この限りでの「自由」は、私たちの現実からの自由である。この「自由」において開示された「世界の別様である可能性」は、この現実と直接には何の関わりもなしに、いわばこの現実とは没交渉なままに、当の現実と並存している。これに対して、私たちの「自由」はすでに別の側面をも含んでしまっている。それは、ほかならぬこの現実に介入し、それを変革する「自由」である。

ここで決定的な役割を演ずるのが、「現象を見てとるもの」として「私」の独特の在り方である。「私」は「現象を見てとるもの」であると同時にそれ自身「現象するもの」として、自己同一的なものであった。これは想像力の媒体である「私」が、当の想像力によって現象する世界の内部に場をもっていることを意味する。そして、「私」が現象するものたちの間に身を置くその仕方が「身体」なのである。すなわち私の身体は、見えるものであり、聞こえてくるものであり、触れることの出来るものであり…なのである。しかもそれは、単に「現象するもの」であるばかりではない。それは世界の中でみずから動くものでもある。「現象を見てとるもの」でもあれば「現象するもの」でもある私は、その自己同一性を「身体」において、「身体」という仕方で、一個の能力の主体として具体化しているのである。想像力という能力が、いまや身体という仕方で自己同一的なものである私の能力として、現象する世界の内に場を占めるに至ったと言ってよい。ここで私の能力とは、「私は~をなしうる」ことにほかならない。そしてその「なしうる」当のものは、それが「なしうる」ものであるかぎりで、いまだ現実ではない。すなわち可能性の世界に属している。つまり、私が今やその能力の主体として姿を現わすにいたった当の能力は、本質的に想像力によってのみ可能となった能力である。世界のすべてが現象することのもはやそれ以上遡り得ない究極的な能力としての想像力は、現象する世界における私の能力として具体化される。こうして、そもそも何ものかが「現象する」ことの内にすでに孕まれていた「自由」は、いまや私の能力として、それも「私は~をなしうる」という身体能力としていわば「受肉」したのである。「現象すること」の内に孕まれていた「自由」は、すなわち「可能性の空間」は、私という身体の主体の能力として世界の内に根付いているこれは、「自由」という「現象するものの可能性の空間」が私の身体において、ほかならぬ私の「行為」の可能性として具体化されていることを意味している。

想像力が私の能力として身体において具体化されるという決定的なことが生ずるのは、私の身体こそが「見るもの」でもあれば「見えるもの」でもあるという二重性をもつ特異な事態であることによっていた。フッサールは「見るもの」と「見えるもの」をいわば内側からつなぐ役割を演じているのが、「キネステーゼ」と呼ぶ事態で「運動感覚」と訳されることもある。それは、何か運動するものについての感覚のことではなく、それ自身が何か運動であるようなものの感覚である。つまり、「私は動く」「私はなす」において生ずる、それ自身が何か運動であるようなものの感覚である。つまり、「私は動く」「私はなす」において生ずる、まさに私が動いていることの感覚、私が何ごとかをなしていることの感覚なのである。この意味でキネステーゼは、もともと「見るもの」であるかぎりの身体に内蔵して発生する感覚である。「見るもの」である私が動くことにおいて、キネステーゼがその都度発生しているわけだが、その動くことのそれぞれにおいて世界の現象の仕方は変化してゆく。私が部屋の中を歩き回れば、その時々で机が見えたり本棚が見えたり、同じ本棚でもこの側面が見えたり別の側面が見えたり、…と変化してゆく。そのつど異なるそれぞれの現象には、いつも「私は動く」というキネステーゼが居合わせている。しかも、そのように動く私の身体は、同時に「見えるもの」でもある。私の身体においてのみ、「見るもの」と「見えるもの」が同じキネステーゼによって結合されているのである。

私たちの世界の現象においては、いつでもキネステーゼを伴った身体がともに居合わせているのである。この意味で「身体」こそ、世界が世界として現象することの根本条件をなしているのである。私たちの世界は、その「現象すること」の当初から、「身体」という仕方で居合わせる「私」を伴っている。まさしく「世界は身体という生地で仕立てられている」のである。ところで、このような仕方で世界の「現象すること」に立ち会っているのは、さしあたっていま・ここで・現にこのような仕方での世界の現象に立ち会っているこの私であって、他の誰でもない。

「現象する私」であるかぎりでの身体、その典型としての「物体としての身体」は、この机やあの窓と同じように一個の個体として同定され、世界の中の一部分を占めているものに他ならない。また、ある特定の観点から私の身体を見れば、机でも窓でもないという意味でそれらから区別された一部分であるというにすぎず、別の観点からそれを捉えれば、呼吸や飲食や排泄という仕方で絶えずその外部と物質のやりとりを通して交通しており、そこでやりとりされる物質は、少なくとも地球大に偏在しているのである。これは、私の身体が地球大の規模でさまざまな物質とつながっていることに他ならない。物質という観点から見る限り、すべては連続と循環の内にあり、そのどこに区切りを入れるかは、どのような観点を設定するかに依存するかに依存したまったく相対的なものに過ぎないのである。

しかしここで問題にしたいのは、私の身体の別の側面である。私の身体とは単に「現象するもの」であるばかりでなく、自ら動き、可能性の空間を自由という仕方で世界の内にもたらすキネステーゼの主体としての「現象を見てとるもの」でもあった。私の身体がこのような仕方で「現象を見てとるもの」すなわち「現象を構成するもの」として機能するとき、それはこの身体がこのような仕方で「現象を見てとるもの」すなわち「現象を構成するもの」として機能するとき、それはこの身体が単独で行うことではないのである。フッサールが注目したのは、私の身体の各部分肢がその機能と意味を受け取るのは、それが他の身体の部分肢と対になることによってであるという事実であった。この事実は、とりわけ発達の場面に目を向けると分かり易い。身体の部分肢が発達した多くの動物の幼い個体は、その部分の使い方を、おやのそれを模倣することで習得する。それがとくに発達したのが人間の場合で、例えば、喉と舌と口蓋の使い方を模倣を通して習得することで可能となる言語音声の獲得である。人間の幼児といえども、ある一定の年齢に達するまでに周囲から言語を伴って働きかけられることがないと、ついに言葉を話すようにならない事実が知られているように、子は親の発声を真似、親は子の正しい発声を反復・強化し、誤った発音を訂正することで、ついに私たちは身体の各部位の機能のさせ方を身に着けるに至るのである。私たち人間のように、その生の具体相がいわゆる本能のレヴェルをはるかにこえて豊かに分節化されている場合には、身体部位の用い方もまたそれぞれの文化共同体に応じてさまざまである。人が人と出会ったときに手と手を差し伸べあうのか、頭を下げるのか…といったことだ。そういった文化的相違の頂点に、各国語という言語体系が位置している。そしてこの言語において、想像力の機能である「記号」という事態は、もっと高度な発達を遂げているのである。言語は、世界が現象することのいかに、すなわちこの内実に決定的な仕方で関与しているのである。「現象を見てとる」という現象の構成に、身体の機能のさせ方は本質的な仕方で関わっているのであり、しかもそうした機能のさせ方を私の身体が身に着けるのは、何よりもまず他の身体との「対化」を通してなのである。

かくした私の身体は、その「現象を見てとるもの」としての側面においてこそ、決定的に他の身体とつながっていることが明らかになった。このことは、世界が具体的な内実をともなって現象するにあたって、身体のレヴェルから、さらにそれに基づけられた言語のレヴェルにいたるまで、ことごとくそこには他人が居合わせていることをはっきりと告げている。世界は紛れもなくこの私のもとで、このものとしてしか現象しないのだが、それにもかかわらず私のもとでのこの現象には、はじめから他人たちが居合わせているのである。他人たちが居合わせていることによってのみ、他のどれでもないこの現象は初めて可能になったのである。フッサールの相互主観性の帰結は、このことを述べている。

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