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2014年8月31日 (日)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(5)

第3章 戦国大名の流通政策

そもそも中世における関所とは、街道・海道上の要地に各領主が設立し、通行税を徴収していた。実際の維持は所領の地元集団によって行われていたと考えられるから、領主はそれを政治的行為によって保証し、その対価として通行税の上納を受けていたかたちになる。そしてそれをさらに幕府・朝廷の上級権力が保証し、知行として領主に認めていた。幕府の承認のない関所は「新関」と称され、幕府からは排除の対象になるが、関所の存立は地元集団によって行われること、それを支持する領主の存在などがあって、実際には徹底されなかった。関所の維持が地元集団によって成されていたということは、それに伴う交通施設の維持がそれら地元集団によって行われていたことを意味している。通行料としての関銭は、いわばその維持のための費用といえ、交通施設を利用する受益者負担と理解される。そのため関銭を払わない等の違反者に対しては、地元集団によって、荷物はもちろん輸送のための馬や船の略奪や、輸送者の拘束などの報復が行われた。関銭を払うことで他の集団からの略奪を回避できたという点において、関銭は、いってみれば交通上の安全保障の対価でもあった。

戦国大名によって過書が出されているということは、領国内の関所を大名が統制していたことを示している。しかし実際のところ、大名領国における関所は、それ以前に比べるとはるかに少なく、おおよそ領国境目か、領国内の交通上の要地に限定されていた。それ以前において存在が確認されていた関所が戦国大名領国では見られなくなっている事例はかなり多い。大名領国における交通施設維持も、本来的には地元集団の負担によると捉えられるが、そうすると大名による統制や排除等の実現は、どのような論理によっていたのであろうか。関所が存在するのは街道上であるが、そうした街道は大名も軍事行動に際して頻繁に利用するものであった。このため大名は、周辺村々に夫役を課して道路整備を命じていた。すなわちそうした主要な交通施設は、大名による維持に転化するようになっていった。だからそれまでの関所を廃止することができたのである。こうした事態は、大普請役による公共工事の転用と同じものと捉えられる。そしてこのような状況がみられるようになったのは、そもそも敵地に対する軍事行動の過程で、関所が破られ、以後における領国化のなかで、交通上の安全を最終的に大名が保障することによって、展開されたものと考えられている。これによって大名は不要な関所の撤廃を行いえたのである。また、領国内の経済上の繁栄を見据えて、関所の撤廃が進められることもあった。大名が、個別の集団の利益よりも公共の利益を優先して思考していることが分かる。関所における役銭の廃止は、そのような観点に基づいたものと理解される。逆に言えば、存続された関所などは、大名によって領国を維持するうえでとくに必要とはんだんされた、特別な性格のものであったとみられる。その多くが領国境目であったことから考えると、領国外への出入りに主要な関心が置かれていたことが伺われる。

関所には大名から役人が派遣され、人・物の通過を点検し、課税した。役所とも呼ばれているのはそのためと考えられる。領国境目における関所では、鎖国への出入りが点検された。領国外への移動が禁止されている品物が決められていて、許可なくそれらの荷物を領国外に移動させようとすることがあれば、ただちに押収された。また、領国内で重要な物品について他国へ流出するのを防止する歯止めにもなっていた。それだけではなかった。隣接する大名と敵対関係になった場合には、ただちに両国をつなぐ街道は双方で封鎖され、互いに人と物の出入りは禁止された。こうした状態は「路次断絶」「通路断絶」と称されている。同様のことは海上交通の要所である浦・湊においても見られた。

こうした陸上における関所などや、海上などでの浦・湊における、領国に出入りする人と物の規制は、まさに現代における出入国管理に当たっている。ここに大名領国が、現代の国家に相当する性格にあったことを認識できるであろう。これらのことから関所等の施設は、戦国大名領国の展開に伴って、それまでにおける物質輸送の通行料の徴収や安全の保障を中心とした性格から、国境における領国内外の移動の点検を行う機能に変化したといえよう。

その一方で戦国大名領国における流通は、決して領国内のみで完結したわけではなかった。それは例えば武田氏が、駿河を領国化する以前においては、塩の獲得は領国外からの移入に頼らざるを得なかったことからも、容易に伺えるであろう。またそのことは、現代における国家についてもあてはまることである。そのため大名領国の存立において、他国との恒常的な流通関係は、不可欠の要素をなしていた。そうした領国をまたぐ流通は、同盟関係にある大名領国間にあっては、盛んに行われていたと考えられるし、そのための様々な仕組みの存在も明らかになっている。例えば陸上交通の基幹にあたる伝馬制についても、同盟関係にある大名同士では、その接続が行われていた。

また、領国で確保できない物資は領国外から移入されるが、それをもたらすのが他国商人であった。また、他国商人の他に、日常生活のなかで領国をまたぐ活動を行っていたものに、領国境目の住人があった。そうした人たちは、双方の大名との間に奉公関係などを結んで、生業を展開していた。

先に伝馬制についてのべたところで、伝馬を負担するものとして宿の存在について触れたが、ここでその宿について、もう少し詳しく取り上げることにしたい。宿は主要街道に設置されたもので、その認定は大名によった。しかしその前提には、地元有力者による設立・維持があり、大名に伝馬役を負担することによって、大名から宿として認められた。伝馬役とは、宿と契約する輸送業者に、人と馬によって次の宿まで物資を輸送させる負担である。宿では、輸送業者による伝馬勤仕が義務になっていた。伝馬役は宿に対して課され、各宿ごとに一日における伝馬負担数が決められていた。

ではなぜ宿はこの伝馬役を負担したのかというと、これによって街道上における輸送業の営業を承認されるからである。逆に宿でなければ、輸送業を営業できなかった。輸送業を営むものは宿と契約し、通常の輸送では駄賃が支払われる。そして、宿において伝馬役を差配するものを「問屋」と称した。宿の有力住人で周辺の輸送業者と契約し、彼らに伝馬役を負担させた。この宿問屋は、もともとは商人問屋(承認の宿泊施設)が起源であった。商人は商品を携えていたが、その輸送は業者によって行われる。そのため問屋と輸送業者の繋がりが生じたのである。そして輸送は問屋に限定され、次の宿で、その宿と契約している輸送業者に交替された。その際には荷物の積み替えが行われた。その際に手数料商事、これが宿の利益になった。輸送はこのようにして宿を継ぐ形で行われた。したがって、宿として認められないと、商人の宿泊もなく、また輸送業も行えなかった。そのため街道上に存在した、輸送業者を抱えている村同士では、宿の地位をめぐって競合がみられていた。その強固ヴ出の勝利を確定するものこそ、大名への伝馬役負担による宿の認定であった。

宿では市も開催され、これも大名から保証を受けた。その代替として商売役(営業税)を納入した。多くは1ヶ月に6回の六斎市であった。このような市は、近隣に日をずらしながら存在していた。これによって毎日数キロメートルの範囲の中で市が立てられる状況が作り出されていた。当時の商売は移動商人によるものであり、市日にそれらの商人が参集した。逆に、市以外での商売は、宿の町人や商人中間によって禁止されていた。こうした市を通して商売させることの強制は、宿町人や商人中間によるナワバリの維持によるとともに、大名・国衆にとっては軍事物資の領外移出防止のためでもあったと考えられる。またこのことから、市での販売は移動商人の他、周辺の村民によっても行われていたこと、村人が販売する場合には出入りする市が決まっていたと見られること、また商人による買取についても、位置によって行われるべきものとされていた状況もうかがわれる。

市場には不特定多数の人間が集う。その結果として生じるのが様々なトラブルであった。そのため、宿にとっては市における秩序維持が課題となっていた。本来はそういったトラブルは、宿の町人によって解決が図られた。しかしながら大名や領主の被官による秩序破壊、あるいはトラブルへの介入に対する対処は、支配者への抵抗ともとられかねないから、充分には対処できない場合があった。そのために大名に、そうした市における秩序維持が求められた。大名は町人による自力による秩序維持を「町人さばき」として承認し、それを前提に秩序維持を図っていた。さらに大名は市場における諸役を免除するようになる。これが「楽市」と呼ばれるものだ。このことは、市場における安全保障については大名が最終的に担うものであることになっていった。

また商売には、商品種ごとにナワバリがあり、室町時代までは、「座」という同業組織によってそれらの営業は特権化されていた。座の加入者は、市場での座役銭を、座を支配する領主に納めていた。これについても戦国時代らなると、大名。国衆がそれらの営業についての最終的に保証する存在となり、その対価として商人に対し、商売物役の納入や種々の奉公が求められるようになった。さらに同業者のうちで、それらを統括する商人を商人頭に任じて、商人に対する統制を行った。商人頭はそれらの商人から商売役を徴収し、それを大名に納入したのである。このように大名領国においては、大名に役を負担しなければ営業できない構図が構築されることとなった。その上「楽市」ではかつての座役銭も免除された。これを「楽座」と称した。これによって近辺の村人などは、誰でも市に売りに行けるようになった。ただしその場合でも、特定の座で販売した。したがって、「楽座」というのは、同業者集団としての座の解体ではなく、座役銭の廃止を言ったとされる。

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