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2014年8月 6日 (水)

手続きの独り歩き…かな(1)

かなりとりとめのないことを、暫くの間、断続的に書いていこうと思います。途中で話がとんだり、と思ったら、前のところと繋がっていたり、読みにくい書き方になると思います。

それでは、いったい何を書こうとしているのか茫洋としすぎているので、一応の取っ掛かりは「手続きの一人歩き」とか「手続きの肥大化」とでもいうことから始めていきたいと思います。

「手続きの肥大化」といっても雲をつかむような話です。例えば、以前このブログで選挙のときの1票の格差についての考えを述べたことがあります。国会議員の選挙のときに選挙区によって抱える人口に大きな差がある。一つの選挙区からは一人の議員が選出されることになると、その議員が選挙区の代表であるとすると背後に抱える選挙区の人口に大きな差があるので、そこに格差が生まれ、それが憲法で保障された平等に反するということです。これに対しては、もともと、国会議員というのは選挙区で選出されますが、選挙区の代表者という立場で国政について議会で議論するものではないということを述べたと思います。今回は、そのような理論的な話ではなく、実際的な話から入ります。

それは、ここでいう「平等」というのが目的なのかということです。たしかに、みんなが自由で平等で豊かな生活を安心してすごす事ができる社会というのを一つの理想として目標にする(これを理想的な目標ではないという主張もあると思うので、単に目標のたとえとして受け取ってください)というのはありだと思います。しかし、これと選挙における1票の平等がイコールなのか、私にはそう思えないのです。かりに、理想の目標としている社会が実現していて、みんなそう思っている社会になっているところで、1票に格差があるから直そうというのであればイコールで結びつく可能性はあると思います。しかし、現在はそうではない。(現在が理想が実現した社会であると思っている人はいないでしょう)そうであれば、理想を実現するために、様々な問題や課題を乗り越えていかなければならない。そこには、様々な人々の利害が対立し、課題が果たして課題であるのか、あるいは複数の課題のうちどれを優先的に着手しなければならないかで人々によって考え方が様々に異なっている、とまあ単純化していますが、そういう状態である思います。そのときに、様々な意見や利害の対立を調整したり、その中からみんなで歩いていこうとする道を探し出して、みんなに納得させようという機能を担っているのが政治とか、制度でいえば国会ということになっていると思います。なんか社会科の教科書みたいな建前を言っています。少し背筋が痒くなってきました。ということで、今は利害対立の真っ最中のはずというわけです。この解決には客観的な正解というのは、おそらく存在しないでしょう。100%の人々が納得して賛成するなどということはありえない話です。正解がないというところでは、人々は少しでもいいから自分にとって有利な意見に傾いていくことになると思います。それ以上に、もっと積極的に自分たちにとって有利な結果に導こうとする動きもある、つまりは、政治の場では様々な利益対立があって、それを調整しているというのが実際のところではないかと思います。例えば、平等な社会を実現するための具体的施策としてA案を実現したいがそれには予算が必要という場合、それに対してもっと優先的に別の施策に予算を振り向けたいというのもあるでしょう。あるいは、A案はある業界の商売が成り立たなくなるから反対だという意見も出てくるかもしれません。そのときに、ではA案をあきらめますか、とはならずに、やはり未来に向けてA案は妥協してでも、やらなければならない。ということになれば、そこでいろいろなことが為されることになるのでしょう。そうやって、様々なことが決められたり、実行されたりしていっているのではないかと思います。

そのときに、選挙の1票の格差があって不平等だから直そうというのは、いったい何を求めているのでしょうか。例えば、1票の格差をなくすということで、上で述べたプロセスをどのように変えていこうとしているのでしょうか。何を言いたいかというと、1票の格差の是正を求める人はその人なりの利害関係の中で生きているはずで、このようなことを裁判で提起しているのですから政治に対して、当然のこととして自らの利害に有利にように導く動機をもっているはずです。さっきのA案を実行させたいと思っているかもしれません。政治に参加するということはそういうことではないかと思います。そのときに、1票の格差を是正するということが、その動機にそったものになっているのか、かなり外れているのではないかと、私には思えます。裁判で言う「訴えの利益がない」ということです。私には、そういう動機と関係ないところで手続きの形式的な正しさを単に求めているだけにしか見えないのです。自分としてはぜひ実現してほしいことがある。というのを措いておいて、正しい(実際、客観的に正しいかは別にして、当人がとりあえずそう思っている)手続きを踏んで処理されることを求めている。正しい手続きが正しい結果を生むとは限りません。そうであれば、まずは正しい結果を求めて行動をすべきではないか、というところで手続きの正しさを求めている、私にはピントがずれているように思えてなりません。むしろ、正しい手続きを踏んでの結果なので仕方がない、という弁解をつくるための何だか虚無的な考えが透けて見えるような気がします。それは、目的と手段の取り違えのように私には思えるのです。意地悪な質問かもしれませんが、選挙区が是正されて平等な代表による議会で不平等を作り出す法案が成立した場合、それは平等ということになるのでしょうか。実際に裁判を起こしている人々は、1票の格差是正は最初の1歩にすぎないからというのでしょうけれど、そういうビジョンは誰も語っていません。私には、ここで取り違えということと、手続きという形式的なものを対象にするとイメージしやすいし単純化しやすい、つまるところ紋切り型にできる。ということは自分の頭で自分の言葉で、自分はどうなのかと突き詰めることをしなくていい、という考えることから逃げているように、私には見えてしまうということがあります。最後は誹謗中傷になっているかもしれません。これは、そういう裁判を起こしている誰々さんを非難する個人的事情はなく、そういうことが起きている風潮とか傾向に対して懐疑の目を向けているという言い方がきつくなってしまっているかもしれません。

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