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2014年8月28日 (木)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(2)

まず戦国大名の支配基盤は、政治団体としての「村」にあった。村が当時における社会主体であり、大名への納税主体であったことによる。村は一定領域を占有し(村領域)、そこから得られる、用水や燃料などの資源をもとに、生産・生活を行っていた。時に、それらの生産資源をめぐって、隣接する村との間で、武力を用いて激しい紛争を行うこともあり、まさに「政治団体」として存在していた。その村の構成員が百姓であった。かつては大名は個々の百姓家を支配していたと捉えられてきたが、村こそが当時における社会主体であり、百姓家は個々に存在しているのではなく、村に所属することで存在することができた。こうしたことから、戦国大名の支配基盤は、個々の百姓家ではなく、それらを構成員とした政治団体である村であった、と捉えられるのである。とりわけ村との関係で特筆すべきは、村による戦争費用の負担である。戦国時代における戦争の恒常化、それに伴う城郭の向上的存在のため、城郭の築造・修築のための普請役、戦時における物資輸送のための陣夫役が恒常化していた。そうした負担は、領国下の村に課された。逆に言えば、それらの負担を受け容れた村々の集合体が、その大名の領国として存在したことになる。そしてそれらの村々自体が、村領域というかたちで領域的に存在していたから、その集合体としての領国も、領域的に展開するという関係にあった。次に戦国大名の権力基盤は、家来の集合体としての「家中」という組織にあった。家来は、いわゆる従者・家臣にあたり、その集合体であることから、「家中」とは、一般的に言う家臣団にあたるといってよい。「家中」という用語そのものは、家来組織を指すものに過ぎず、室町時代にもあったが、その性格が変わるのである。室町時代までは、所領の村同士の紛争から領主間戦争が展開していたが、戦国時代に入って、戦争の恒常化のなか、家中構成員が自力解決を自己規制し、自分たちを超越するものとしての主家である大名家を創り出して、これにすべての判断を委ねることで、互いの存立を図る構造が構築された。こうした状況は15世紀末頃から明確に確認できるようになっている。これによって家来は、自らの存立に関わる問題であっても、それまでのように独自に解決を図ることができず、すべて主家である大名家の判断にゆだねるものとなった。自らの存立に関わる問題、というのは、たいては所領としている村が引き起こす、隣接村との生産資源をめぐる紛争に由来したものだった。家来は、領主という税金を徴収する立場を維持するため、所領の村が引き起こした紛争に際して、それへの支援が求められた。そのようにして村同士の紛争は、互いに領主同士の戦争へと容易に転化していった。しかし大名が対外的な戦争を行う上で、家来同士の抗争が行われていると、大名の戦争そのものが行えなくなる。それは家来の存立にとっても好ましいものではなかった。そのため家来同士の自力解決の自己規制が展開されたと考えられる。しかしそれは、領主としての自力救済の放棄を意味した。家来同士の抗争を禁止するという在り方は、戦国大名の規則にあらわれ、やがて家来同士の私戦そのものを制裁の対象にした喧嘩両成敗法の制定へと展開していくことになる。こうして戦国大名の家中を単位にも個別領主層の戦争は抑止される構造が成立された。このことは同時に、村同士の紛争が領主同士の戦争に転化する回路が切断されたことを意味し、戦国大名の領国内では、領主同士の戦争が抑止され、平和が確保されることを意味した。さらに紛争主体であった村についても、大名の支配を受け、検地などを通じて、村の境目の決定、すなわち村の領域が決定されることで、村同士による基本的な境相論は抑止されるようになった。こうした状況の結果、戦国大名の領国が、平和領域の単位によるという状況が生み出されることになった。そしてそこでの平和は、家来や村について、中世における自力救済のキーワードである「相当」・「兵具」・「合力」の禁止によって、形成・維持された。戦国大名は領国内において平和を確立するが、それは内部における自力救済の抑止によって成り立っていた。

その結果として、戦国時代における紛争は領域権力同士、すなわち「国家」同士のものに基本的に限定されるものとなった。そして戦国大名同士の領国の境目では、互いに通行が規制された。領国の境目に設置された関所などで、人と物の通行について規制が行われた。領国の出入りは、決して自由ではなく、そこでは大名によって規制が行われていたのである。ここに、国境の形成を見ることができる。こうした事態は、戦国大名という政治権力が、領域権力として存在していたことによって生み出されたものであった。日本列島の歴史において、はじめて現代に通じるような国境という観念が誕生したのである。その結果、領国内に居住する人々は、その大名の領国の住人という観念が生み出されてくることになろう。さらに戦国時代の後半になると、領国が数か国規模わたるような大規模戦国大名同士の戦争が展開されていくようになる。それは戦国大名が、滅亡を覚悟するような深刻な危機感を生み出して行った。そのなかで、戦国大名と村との間で、村に対し、奉公すべき対象として「御国」をあげるようになり、「御国」のためになることは、村自身のためでもある、あるいしそうした奉公は「御国」にいる者の務めである、といった主張をするようになる。「御国」のために、という言葉は「くに」の平和を維持する行為が、同時に領国、国家、すなわち戦国大名家を維持する行為となることを示すものである。逆に言えば、戦国大名家を維持するための行為を「くに」の平和維持に繋がるものとして示そうとするものであった。すなわち戦国大名は、自己の滅亡が予測されるような非常事態にあって、領国内の村人を、その防衛戦争に動員するようになってきたのである。そのための村に対しての説得の論理とされたのが「御国」の論理であり、その登場は、戦国大名が、村の平和を維持しているのは、自己のお蔭によるものとする認識を生み出していたことによっている。それは具体的には、外部勢力との戦争に対処して領国の平和を維持していたこと、あるいは隣国の戦争をはじめとした、さまざまな紛争において、平和的解決をもたらしていたことによっていた、と考えられる。さらには納税者としての村の村立を維持するために、飢餓や戦争災害に対して様々な対策をとって、村の安定的存続である「村の成り立ち」の維持が図られていた。「御国」の論理は、このように戦国大名が「村の成り立ち」について、一定程度担っているという自覚を持つことによって、はじめて登場することができた論理と言える。それは同時に、村が、平和の確保や「成り立ち」の維持において、一定程度、戦国大名に依存していたことの反映と見ることができる。実際に、村の側にも、最も安全なのは大名本拠の城下町であり、最も危険なのは紛争地域に当たる領国境目である、とする認識が生まれるようになっていた。したがってこうした状況は、戦国大名の存立と領国内の「村の成り立ち」が一体化した関係の表現と理解されるであろう。逆に戦国大名は、村がこうした領国防衛のための負担を拒否すると、嫌ならばこの領国から去ればよいと領国からの追放さえ表明するようになっている。このようにして村は、自らの帰属すべき政治領域として、戦国大名を認識するようになった。

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