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2014年8月 5日 (火)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(13)

3.虚構としての現実─あるいは「意味」

私たちの経験を根底で支えている自己同一的なものが、その存立を「不在における現前」という事態を可能にする想像力に負っているとすれば、この自己同一的なものの中核をなす「不在における現前」という構造は「記号」の構造そのものであることに注目しよう。なぜなら「記号」とは、何ものかを、その何ものかり不在において指し示すという事態のことにほかならないからである。たとえば、いま皆さんが「虹」という言葉を聞いたとしよう。大抵の場合、皆さんの眼の前に虹が現象しているとは言えないであろう。そうであるにもかかわらず、皆さんはそれが何であるかをたちどころに理解したはずである。つまり、「虹」という音声あるいは文字は、それ自身当の虹とは似ても似つかぬ全くの別物であるにもかかわらず、それ自身のもとには存在していないあの虹を、不在のままに指し示すことができるのである。これが「記号」の基本構造である。つまり、「記号」とは、原理的に何ものかが不在であることをもって、その不在である当のものが現前するという機構にほかならず、私たちの経験は隅から隅までこの「記号」によって成り立っているのである。そしてこの構造の成立は、私たちの経験の根底に位置する絶えざる時間的流動の相のもとで、すでに見て取れるのである。前節で考察したように、たしかに私たちの現実は絶えず新たなものが到来し、到来したものはたちどころに失われてやむことがないのだが、それにもかかわらず、もはやないものが、あたかも存在するかのように現前させられることをもって、何ものかが自己同一的なものとして現象するのである。これはすなわち、すべてが「意味」として現象するということにほかならない。

したがってここでは、知覚されたものもすべて「意味」といってよい。それらもまた、私たちの経験の世界に属する以上、時間的流動を免れてはおらず、たちどころに失われてゆくものであるにもかかわらず、たしかに「何ものか」が見え、「何ものか」が聞こえる…のである。このとき「見え」たもの、「聞こえ」たもの…は、すでに不在を内に孕んだ「意味」なのである。ここで「意味」と呼んだものを、フッサールの現象学の述語でおきかえるなら、「ノエマ」と呼んで間違いない。ノエマとは、現象にやいて現象する当のもののことであった。それらは「現象であるかぎりでの現象」なのであり、言ってみればそれ以外のどこにも支えを持っていないのであった。これが還元における宙吊りということの内実である。

ここで用いられた「意味」という概念は、私たちの世界の根底にあって私たちの世界のすべてを支えている基盤である「純粋な現象」の次元が、ある種の「虚構」であることを告げているのではないか。ここで「ある種の」と留保をつけたのは、それが通常の意味での虚構と同じではないからである。というのも、通常の意味でのそれは、その対立項として「現実」なるものを有しているのに対して、ここで「意味」としての現象の「虚構性」とは、もはやその外部にみずからの対立項をもたないからである。それが「宙吊り」等という言葉で示唆されていた事態にほかならない。むしろ通常の意味での現実と虚構の区別は、この「ある種の虚構」の内部で構成されるものなのである。

したがって、<すべてが「不在における現前」としての「意味」である>と言った時の「意味」は、普通の意味での虚構としての「不在」と、同じく普通の意味での現実としての「現前」を単に重ね合わせてそう言っているのではない。そうではなくて、「意味」とは、すべてがたちどころに失われてゆく以上そもそも現前ということがありえないにもかかわらず、「何ものか」が自己同一的なものとして「現象」するという事態における「現象するもの」の別名なのである。つまり、ここでの「意味」は、通常の意味における「不在」と「現前」の結合なのではなく、そもそも現前がありえないところで現前が成り立っているという意味で、端的に「不在」なので「ある」。

すべてが「意味」であるといったときのその「意味」とは「不在」がすなわち「存在」、「不在」=「ある」とでも表現するしかない事態なのである。いってみれば、現前している当のものの隅々にまで「不在」が浸透しているのである。あまりよい譬えではないかもしれないが、今あなたに現象しているすべてが、そのままでその「向こう側」に透けてしまっているかのようなのであり、しかも透けた先の「向こう側」には文字通り、何もないのである。すなわち「不在」なので「ある」。

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