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2014年8月 9日 (土)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(16)

第5章 世界─「現象」の場所

フッサール自身のもとでは、「現象」の座をなしていたのは、超越論的主観性ないし純粋自我と呼ばれる「自我」だった。つまり彼のもとでは、「現象すること」の場所を問う問いは「身体としての私」を含む「自我」の問題系の内に基本的には吸収されてしまっており、ことさらに現象が「どこにおいて」成り立っているかを問う必然隊はなかったのである。だが本論にはこれに異論がある。なぜなら、前章で「私」を現象の「媒体」と捉えたことからも明らかなように、たしかに「現象すること」そのことはその「私=自我」を経由することなしには成り立たない事態であるとしても、「現象すること」そのことはなしには成り立たない事態であるとしても、「現象すること」そのことはその「私=自我」の内で十分に問い尽くせるものではない、と考えるからである。

「記号」という仕方ではじめて現象を可能にする不在の能力としての想像力は、「私」の能力ではなく、むしろこの能力の方が、様々な能力を自己の能力として所有し得る「自己同一的なもの」としての「私」を成立させていたのだった。そうであってみれば、「現象すること」は「私=自我」をもその内に自らの構成分肢として含むという仕方で、その本質からして当の「私=自我」をはみ出してしまう事態なのである。かくして「現象すること」そのことを全体として問うためには、現象の媒体としての「私」を超えて、あらためてその場所が問われなければならないのである。

 

1.さまざまな「自我=私」─「経験的なもの」と「超越論的なもの」

フッサールが「自我」として明示している事態は、大きく言って次の三つに大別できる。

彼の「自我」概念の第一は、<体験に与えられた多様なものを、その多様性にもかかわらずひとつの流れの内へと統合する原理>として想定された「自我」である。夢さえ見ないほどの深い眠りに落ちている時を除けば、通常「私」には、実に多様で一見互いに何の脈絡もないものが、次から次へと意識されては消え去っていく。いまフッサールの「自我」概念につて考えているかと思えば、次の瞬間には窓外の景色に気をとられ、さらには差し迫った用事を思い出し…といった具合なのである。これほど多様で何の脈絡もなさそうな諸々の現象が、そのばらばらさにもかかわらず、たしかにひとつの意識の流れを形成している。そうであれば、ここに体験の多様を統合する何らかの原理が機能していると考えてもよいのではないか。そして、この統一化の原理こそ「自我」の名に値するのではないか。フッサールは、この自我が経験的次元ではなく超越論的次元に位置づけられている理由を次の二点として述べている。第一は、体験の多様さを統一している原理自体は、決して体験の対象としてその多様の中に姿を現わしてはいないというフッサールが考えた点に求められる。「純粋自我」が体験の対象として多様の中に現象していないのであれば、それをもはや経験的な次元での自我とと呼ぶことはできない。第二には、体験の流れのこの統一は、超越論的還元を経てすべてを「純粋な」現象に還元した後にも、まさしく当の現象の多様がひとつの流動する全体として残っているのだから、この「純粋現象」の次元で、その統一化原理として機能しているものには、当然「超越論的」の名が冠せられるべきなのだ。いまや超越論的還元を経て、「経験的」なものはすべて括弧に入れられているからである。

フッサールの「自我」概念の第二のものとは、<世界の特定の見えのパースペクティヴの原点>としてのそれである。これは知覚の場面を例にとると分かり易い。いま私に、その上に本を乗せた机の上面と前面の一部が見えている。机が私に見えるとは、このようにいつも特定の側面においてなのであって、一挙に机の全側面が見えるということはあり得ない。これが知覚のパースペクティヴ性ということである。このとき机のその都度の特定の側面の見え(パースペクティヴ)は、机がそのように、そしてそのようにのみ見えるこれまた特定の地点から私が机を見ていること、すなわちその特定の地点に私がいることを同時に示している。これをフッサールは、どんな「現象」も、それをほかでもないこの特定の現象として捉える「自我」が居合わせているのである。この「自我」もそれがその都度のパースペクティヴの原点である限りで、それ自体は現象している対象ではない。いわば、自らが放射する光の前にすべてを現象へともたらしつつ、光としての・そして放射の原点としてのそれ自身は決して見えない、そのような「放射中心」としての自我である。それは現象する経験論的自我ではなく、あらゆる経験=現象を可能にする超越論的な自我なのである。

フッサールの「自我」概念の第三として、以上二つの自我概念を言わば一挙に表現するものとして「極」というある種の比喩的な言い方を援用している。極は、ばらばらなものを統一化する原理としての機能と、その統一化の中心点としての機能を、あわせて具体化している。もう一つ重要なことは、「極」はそれ自体はあくまでも作用の中心であって、この作用=はたらきによって統一化され・中心化された体験の多様とははっきり区別されるという点である。減少しているのは体験の多様のみなのであって、体験の多様をそのように統一化し、特定の中心へと向けて配列している作用自体は、紛れもなくそこ居合わせているのも関わらず、それ自体現象しているわけではない。<現象しているもの><それを支配している原理>とは、それぞれ別の次元に属しているのである。

こうした「極」自我という捉え方は、<体験の多様の統一化原理>としての「自我」と、<パースペクティヴの原点>としての「自我」とを、具体的なイメージのもとに統合したものとみなすことができるので、本質的には後二者の自我概念に吸収されうる。すなわち後二者の自我概念こそフッサールが「純粋自我」の名のもとに考えていたものだと言ってよい。その後のフッサールは「人格」としての自我を追求していく中で、「純粋自我」が具体性を欠いた抽象的に映っていく。つまり、「極」として純化された自我は、個々の具体的な意見の多様はもとより、その作用すらはぎとられ、極小化されて、現象の豊かな多様の場面からいわば消失してしまった。そこまで先鋭化された純粋自我は、それがもはや現象するものでないがゆえに、現象学的構成分析の前から跡形もなく姿を消してしまい、現象学的に有効な概念として機能しなくなってしまったのである。これに対してフッサールが自我概念のもとに新たに分析の俎上に乗せるのが、「習慣性」の基体としてそれ自身発声の歴史を担い、しかもそれを潜在的な自我地平として沈殿させ、さらには「私は~できる」という「能力性」の身体的受肉として機能する、まさしく「現象することの媒体」としての「自我」であった。ここで「習慣性」とは、自我のさまざまのレヴェルでのふるまいの反復を通じて獲得された、自我の様々な行為能力のことにほかならない。彼にとって、その具体性における自我とは、現象する世界のすべて帆、その内に潜在態として含み持つ、あくまで一個のそれ自体完結した「個体」であり、この意味で「人格」として具体態における自我はまたこれ以上分割できないものとして、ある「力」の担い手であり、かつ世界のすべてを時間的にもその内に「映して」いるものなのである。

このような自我を、超越論的・現象学的還元により確保した新しい次元である「超越論的主観性」とピッタリ重ね合わせることはできない。このような自我は<超越論的なものの接点に立つ自我>、すなわち「現象すること」の媒体としての「私」に他ならない。しかし、「現象すること」そのことは、「現象することの媒体」つまりは「現象を見てとるもの」としての「私」を不可欠の一構成分肢として含む、より包括的な出来事なのであって、この「現象すること」そのことを一個の哲学的問題として問うことを可能にしたものこそ超越論的・現象学的還元だったのであり、この還元を通して切り拓かれた新たな次元だったはずである。そのことが、本章の冒頭で<「現象すること」がおのれを実現するのはいったい「どこにおいて」なのか>というかたちで改めて問おうとしたものであった。ところがフッサールは、この問いを、みずからが「超越論的主観性」と呼んだ「自我」へと引き取ってしまうために、この問いが本来問おうとしていたことを十分に問う途を自ら閉ざしてしまう。それが「純粋自我」概念の「人格」概念への変容なのである。

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