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2014年8月12日 (火)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(18)

第6章 時間と他なるもの─「現象」の外部へ

1.時間とは何か─「不在」ということ

時間は、私たちの世界が「現象すること」の基本様態である。どんな世界の現出も何らかの仕方で時間的様相を帯びていないものはない。「一」という「数」が「一」として現象するとき、それは必ずやその現象を見てとる誰かに対してなのであり、それは誰かが「一」を考え・理解すること以外ではあり得ない。そしてこの「考える」ことはすでに、あるとき・どこかでという時間的・空間的様態を帯びている。このように、時間は空間とならんで世界が現象することの基本様態なのである。したがって、<世界が現象すること>そのことを超越論的現象学が問おうとするのであれば、それは当然、そのことの基本的様態としての「時間」を問うことを避けて通ることはできない。

「時間」は、語の普通の意味で「現象するもの」ではない。それはちょうど、かつて『イデーン』期のフッサールが、「純粋自我」に関して「一種独特な超越としての<内在における超越>」と呼んだのと同じような困難を伴った問題事象なのである。ここで「純粋自我」を引き合いに出したのは、たまたまのことではない。世界に現象する多様なものが、その多様さにもかかわらず<ひとつの流れ>としてのある統一をいつもすでに有していることが、フッサールをして「純粋自我」という考え方へと向かわせた次第を私たちはすでに見たが、この同じ事態を彼はまさしく「時間」として捉え直し、『イデーンⅠ』では保留し・棚上げにせざるを得なかった「純粋自我」の解明を、「時間」の解明として行ったのである。

「時間」に関して彼が明らかにしたのは、次のような事態であった。まず彼は、時間が次のような構造を持った一種の構造体であることを析出する。現象するものの全領域は、当の対象が直接にありありと現前している「現在化」領域と、あたかも直接に現前しているかのような仕方で現前する「準現在化」領域に区分される。前者が時間位置としての「現在」に対応しているのに対して、後者は「過去」ならびに「未来」に対応する。ところが時間の実態に即してみると、この二つの領域は必ずしも截然と区別されない。というのも、「現在」なるものは決して時間上の点のようなものではなく、常にある「拡がり」や「幅」をもっており、この「拡がり」の中には「たったいま」という仕方ですでに過ぎ去ってしまい、もはや現前していないものや、「ただちに」という仕方で現前へといたるべく準備しているものがすでに入り込んでいるからである。このような仕方で「現在」の内に入り込み、当の「現在」の「幅」を構成している「もはや/いまだ現前しないもの」は、先の「準現在化」領域に属するものであり、この場合の<もはや現前しないものをなお現在の内に、あたかも現前しているかのように保持するはたらき>が「把持」と呼ばれ、<いまだ現前しないものをすでに現在の内に、あたかも現前しているかのように予め招き入れるはたらき>が「予持」と呼ばれる。そして「現在」の中核には、まったき意味でのありありとした現前を構成する「原感覚」ないし「原印象」と呼ばれる契機が含まれていると考えられる。こうして「現在」とは、その内に「現在化」と「準現在化」という二つの異なるはたらきが介在し、連続的にそれらが移行しあうところであることになる。ここでの「把持」や「予持」は、本来の意味である「想起」や「予期」とは厳密に区別される。なぜなら、本来の意味でのそれらにおいては「現在」との関係がいったん切り離され、「現在」とは異なる時間位置を占めるものとしてそれぞれの対象が姿を現わしているのに対して、「把持」や「予持」においてはそれらの対象は「現在」との密接な関係の中に保持されているからである。

時間が絶えざる流動であることの根本は、「現在」において「現在化」と「準現在化」が絶えず連続的に移行しあうことの内に見届けられる。すなわち、「予持」という仕方で現前へと待ち受けられていたものがただちに現前へと移行し、瞬く間に「把持」における「たったいま」へと移行する。そのとき、先の「予持」のさらに先で現前へと待機していたもの(準現在化)がいまや現前(現在化)へといたり…、以下同様というわけである。問題は、このとき移行し合うのはあくまで何らかの「もの」ないし「こと」以外ではない、という点にある。そもそも「時間」は「もの」ても「こと」でもないのだから、「時間」という構造自体が「流れ去る」ことなどありえないのである。すなわち、「時間」が流れ去るのではない。「何ものか」が流れ去るのであり、それが「時間」なのである。この「何ものか」すなわち「自己同一的なもの」とは、絶えざる流動の内で自らを失うという仕方で、当の失われたものが自己自身のもとにあったこと、つまりは自己自身を所有するという事態が成立していたことを逆説的にも証しするもののことであった。しかもこの自己所有は、それがもはや失われたものとして姿を現わした時、決して完全に失われてしまったわけではないのである。それは失われたものとして保持されてもいるのである。想起=記憶とはこのことに他ならない。これらの事態はいずれも「不在における現前」という構造を共有しており、すなわちあの「想像力」という特異な能力によって一挙に成立したのである。想像力が「不在における現前」の能力として私たちのもとに姿を現わすことと、何ものかが自己自身のもとにとどまりうること、そしてすべてが流動してやまないこと、これら三つの事態はいずれも一挙に成立したのである。つまり「万物流転」は、決してほかの二つの事態に先行していたわけではないのである。流れ去る「何もの」も姿を現わさないのであれば、そもそも「流れる」ということ自体が成り立たないのであり、流れ去る「自己同一的なもの」の成立は「想像力」によってのみ可能となったからである。それらはいずれも、いわば「等根源的な」事態なのである。あえて「根源的」というのであれば、それは三つの事態を集約した「記号」という事態、すなわち<あるものがみずからの不在という仕方で、みずからでないもののもとで、みずからを現前へと至らしめる>という事態の成立であろう。この構造の内の「不在」という契機をもっとも鋭く体現しているのが、「時間」という事態なのである。

この絶えざる不在化において、何ものかが現象する。<何ものかが存在する>という事態は、それが絶えざる不在化であることと表裏一体なのである。フッサールが、「世界の現象すること」の基本的構造としての「時間」という事態の内にこうした仕方で「記号」という構造を突き止めるに至ったことは、ほぼ間違いないと思われる。彼が「現象すること」という事態の成立の根本に「記号」という構造が隠れているのを突き止めるにあたっては、次の二つの事実の発見が決定的であった。第一は、時間分析においては「統握」と「統握内容」という枠組みが有効に作用しないことの発見である。彼は当初、時間についての意識を、把握された事態の内容(「統握」)に対する、その把握の仕方ないしはたらき(「統握作用」)のヴァリエーションとして分析できると考えていた。例えば「本を読む」という「統把」に対して、「本を必ず読む」とか「たまたま本を読む」というようにその把握の仕方は様々に変様することができる。この把握の仕方の変様ひとつに時間意識を組み込むことができる、というわけである。すなわち「いま、本を読んでいる」とか「かつて本を読んでいた」というように。この場合、中核にある統握内容自体は普遍の項、すなわち同一の内容でなければならない。ところが、たとえば「現在」の出来事について不可欠の構成契機である「把持」において与えられているものは、「原感覚」において与えられている「感覚与件」と同じものではない。同じでないどころか、全く別の在り方をしている。いまわたしがある音を聴いているとすると、原感覚において与えられている音は現に鳴り響いている音でもなければ、その残響でもない。それはあくまで「もはやない」音なのである。そうだとすると、原感覚と把持では、そもそもの「内容」をなす与えられているもの自体が別物であることになる。これはすなわち。原感覚から把持への移行において生じているのは、いったん与えられたものの把握の仕方の変化ではないことを示している。「いま」与えられているのが実際に鳴り響いている音の「感覚」であるのに対して、「たったいま」において与えられているのは決して「感覚」ではない以上、そう言わざるを得ない。したがって、時間意識には「統握─統握作用」という分析の枠組みが通用しないのである。

フッサール自身はそこから次のような事実に直面する。把持(「たったいま」)が把持であるためには、そこで把持されている当のもの(「いま」)がなくてはならないのだが、その「いま」が何ものかの感覚的現前であり、他方で「たったいま」の内には「感覚」はもはや含まれていないのだとすれば、把持の方から感覚的現前への通路は断たれていることなる。別の言い方をすれば、把持である「たったいま」の内に含まれている「いま」は感覚的現前であるかぎりでの「いま」ではないのである。では、感覚的現前である限りでの「いま」はどこにあるのか。フッサールは、現前ということの中核をなしているはずの「感覚」に「生き生きとした現在」の名を与えこの端的な現前の在りかを探そうとする。ところが、私たちの経験の事実が示すのは、まさしく一瞬も止まることを知らぬ絶えざる流動以外の何ものでもない、ということなのである。「いま」と思った途端に、それはすでに「たったいま」に移行してしまっており、すべては常に「把持」への連続的移行でしかないのである。逆に言えば、私たちが「いま」すなわち「現在」として認識ないし経験しているものは、当初より彼が示していたように、つねに「準現在化」が浸透したそれであって、そうした「準現在化」を含まない<何ものかの端的な感覚的現前>など、どこにも存在しないのである。

フッサールはこの事態を「生き生きとした現在の謎」と呼んで、この前に立ち尽くす。ここで彼は、自らの分析を導いてきたもうひとつの基本的枠組み、すなわち<「現在化」と、その変様にして派生形態としての「準現在化」>という枠組みの解体の現場に立ち会っているのである。かれを記号という事態へと導く第二の発見である。私たちの経験に与えられているのが、いつでもすみずみまで「準現在化」に浸されたものでしかないのだとすれば、すなわちどこにも純粋な「現在」が存在しないのだとすれば、「準現在化」は「現在化」がひとたび現われた後の、その変様態ではなく、「現在」ということが意味を持つとすればそれは「準現在化」においてでしかないこと、この意味で「準現在化」の方が「現在化」を可能にしていることを、それは示しているのである。この事態は何を意味しているのか、話を単純化するために、経験の「過ぎ去りゆく」側面にのみ注目してみる。私たちに与えられているものと言えば、それは「把持」の連続体のみ、すなわち<絶えざる過ぎ去りの中で、失われた「いま」を「たったいま」という仕方で保持するはたらき>の連続体のみであることを、先の分析は示していた。これは失われた「いま」を「たったいま」として、まさしくそれが失われたものである限りで現象へともたらす「記号」という事態にほかならない。つまり、「現在」の中核をなしているはずの厳密な意味での「いま」を「たつたいま」として、まさしくそれが失われたものである限りで現象へともたらす「記号」という事態にほかならない。つまり、「現在」の中核をなしているはずの厳密な意味での「いま」、すなわち「たったいま」がかつての自己自身として遡示している「いま」そのものは、いつも不在なのである。「原感覚」「生き生きとした現在」などは「現象するもの」の中核にあってその現象性を支えるある種の「根源」であるはずなのだが、それらがいつも不在であることが私たちの現実を、すなわち私たちの世界を構成していているのである。

もし、時間の源泉と目された「生き生きとした現在」が「不在」であるとするなら、いったいこの「時間」という事態はどこから与えられたのか、という問題が生じはしないか。源泉が不在であるにもかかわらず、それは現に与えられているのである。

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