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2014年8月 2日 (土)

斎藤慶典「フッサール 起源への哲学」(10)

2.想像力の根本性

a)フッサールとフレーゲ

この二人の関係は通常次のように見られている。即ち、『算術の哲学』で心理学主義の立場から数概念の基礎を考察したフッサールに対して、フレーゲから論理学主義の立場での反論と批判が寄せられ、フッサールがこの批判の正当性を認めて次著『論理学研究』においてみずからの心理学主義批判を展開することで決着した、というわけである。しかし、フッサールとフレーゲの間の表面上の対立とその解消の経緯ではなく、当初の二人の間での対立にもかかわらず、はじめから両者が、数概念の成立の根本に、或る同一の事態を見て取っていた可能性がある。

まずフレーゲから見てみよう。「数」についての彼の考え方の根本にある発想を一言で言ってしまえば、「数」の概念には「同数」という概念が先行しており、この「同数」をもって「数」を定義することができる、ということである。フレーゲによる「数」の定義の根本にあるのは、「何か或るもの」と「何か或るもの」が特定の関係の内に立つという事態である。

次はフッサールである。彼が『算術の哲学』において行った「数」の心理学主義的基礎づけとは、次のようなものであった。彼によれば「数」概念が成り立つためには、まず「何か」をとり集めることが先行条件となる。このとり集められたものが集合である。この取り集めは集められるものの性質とは無関係に成り立つ。ただただ「何か」と「何か」と…をとり集めて行けば集合は形成される。だからそうした性質とは別の次元に属していることになる。それをフッサールは心的次元と考える。こうして心的作用である取り集めによってできた集合は、「何かあるもの」という「ある一つのもの」が「ひとつ」「ひとつ」と…という仕方で結合された「多」という性格を持つ。この「多」を構成する「あるもの」が「いくつ」という仕方で明確に規定された時、そこに「数」が成立するというのである。かくして「数」とは、「規定された多」のことなのである。このときの「いくつ」という規定を与えるのは、それが「あるもの」の内実には一切関わりがないゆえに「ひとつ」といった仕方で「数える」という心的作用以外にはない、とフッサールは考えるのである。ここでも注目したいのは、「数」が成立するそのもっとも基盤には、取り集め的結合のはたらきによって取り集められる「何か」が「あるもの」としてすでに成り立っているのではなければならない、という点である。

このフレーゲとフッサールの何れの説明においても一番基底にあるのは「何かあるもの」とは「何かひとつのあるもの」のことであり、この場合の「ひとつ」は未だ数詞としての「一」ではないということに注意しなければならない。このことはフレーゲが同数ということを「数」に先行するものと考えていた点にも対応している。つまり、「数」概念が成立するためには、「何か」が「何かあるもの」として、すなわちある「自己同一的なもの」として成り立っていることが必須の条件なのであり、フッサールの言っていた「ひとつ」とはこの「自己同一性」のことなのである。フレーゲの言う「一対一対応」が成り立つためにも、そこで対応関係に立ちうる「何か」と「何か或るもの」、すなわち「自己同一的なもの」の成立が不可欠であることはもはや言うまでもないであろう。

 

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