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2014年9月

2014年9月30日 (火)

ヴァロットン展─冷たい炎の画家(4)

3.抑圧と嘘

ヴァロットンの作品が目の前に見えている現実の存在が、はたして真実そうなのかという懐疑が底流にあって、リアルにみえる写実的な表現を少しずつずらしていくことで、作品を見るものにちょっとした違和感をもたせることを意図的にやっていたように見えるということに結果としてなっていくことがある。しかし、現実の生活では、そのような懐疑を、たとえ抱いていたとしても、人というのは、人々の関係やら、その総体である社会やらの中で、真実であるということが常識となっているのであれば、それに従うことで社会生活を滞りなく行っている。それは、たとえ真実でなくても、あたかも真実であるかのように虚構的に振舞うことができる。絵画においても、真実らしく見えることで、たとえ描かれているのが真実でなくても、それは真実を描いていることになってしまう。そのようなズレを意識して、いわば作品のなかに虚構を持ち込むことを意図的にやろうとした。それが前回まで見てきたヴァロットンの作品でした。

Vallootnpokerここでは、そのような真実と虚構(うそ)のすり替えをするというのは人間ならではのことです。人間は嘘をつく存在である。真実かどうかを疑うなどということは、嘘ということが可能であるからです。疑うことを知らなければ、真実に疑いをさしはさむなどということは起こりえないことです。ということは、目の前にあるものが真実存在しているかという懐疑は、人が嘘をつくからこそ生まれるものだ。そんなことをヴァロットンがうだうだと考えていたとは、思えませんが、方向性としては虚構(みせかけ)の真実らしさということに行き着いたことから、その根源である人というものを描こうとしても、おかしくはないでしょう。

Vallootnpoker2「ポーカー」という作品です。ポーカーの卓を囲む人々は類型化され、表情を細かく描きこまれていません。しかし、ポーカーというゲームは相手に対して嘘をついて虚々実々の駆け引きを楽しむゲームです。ヴァロットンは古今の美術史上の作品をよく勉強していた人のようなので意識していたかも知れませんが、私には、バロック時代の画家ジョルジュ・ラ・トゥールの「いかさま師」という作品を想い出してしまいます。ラ・トゥールの場合にはカードの駆け引きでの人々の表情を風刺的に強調して描いていますが、ヴァロットンの場合はむしろその伝統を踏まえて、あえて人々を無表情に描くことによって、見るものの想像力を掻き立て、それとともにこの人々が無表情でいることで、表情の下に隠された水面下でのやりとり(嘘)が却って強調される、無表情に隠れているだけに嘘の執拗さが表されていると言えます。また、ラ・トゥールの作品のようにカードに興じる人々を中心にするのではなく、ヴァロットンはポーカーの卓を囲む人々を遠景にして、わざと遠ざけて、しかも部屋の奥の片隅に卑屈なほど押し込めてしまって、前景中央に意味を感じられない大きなテーブルをわざわざ描いていることで、そのようなことに対するヴァロットン自身の距離感を表しています。そのことは、実は真実に対する懐疑を抱いている自身は、おそらく嘘をつく人々に入っているはずなのに、その象徴であるポーカーに興ずる人々を距離感を作り出しているところに、この絵にあるヴァロットンの距離感というのか、彼自身のスタンスの微妙さ、自分自身を肯定できていないジレンマのようなものが画面に表われていると思います。

Vallootnshuzan「貞淑なシュザンヌ」という作品は、反対に人の表情を強調した作品です。3人の人物が画面にはいますが、うち2人は男性で作品を見る者に対して背を向けているため、見る者が表情を見ることのできるのは、こちらを向いている中央の女性だけです。シュザンヌというのは旧約聖書「ダニエル書」に登場する女性で、夫の留守の間に長老たちから貞操を汚されそうになり、拒絶したところ、逆に姦通の冤罪を帰せられたが、最後には無実が証明されるという人物です。そういう含みが作品タイトルにあって、それを先入観として作品をみると、俄然深みのある作品のように見えてきます。さきほど、ラ・トゥールの作品を参考として紹介しましたが、このラ・トゥールの作品の真ん中でいかさまをしている女性の表情の描き方は、このヴァロットンの描くシュザンヌとおぼしき女性とよく似ています。意味深な作品タイトルがなければ、そういう見方で見てしまうのです。そして、さらに人は表情というのは必ず他人に向けて送るものです。孤独でいる人は表情を作りません。だから表情作る人がいれば、それを受ける人がいてはじめて完成するのです。しかし、この作品では、女性が表情を浮かべていますが、それに向かって座っている二人の男性はあえて表情がうかがい知れないように描かれています。そのために女性の表情が宙ぶらりんになってしまっています。そのため、彼女の浮かべている表情があいまいで、どのようなことを表しているのか、作品を見る者の想像にませるようなことになっています。これは、嘘というのが、実は人と人との関係から嘘から出たまことではないですが、関係の中で決まってくるからです。だからこそ、本来であれば、この作品主人公で中心人物である女性が画面中心に描かれていてもいいはずなのに、わざと左側に寄ってしまって、右側は余白の空間を空けているのは、そこに想像の余地が大きいことをシンボライズしているのではないでしょうか。

この二つの作品の画面構成を見ていると、かつてのハリウッド映画の演出の空間構成とか動線の作り方とよく似たものを感じるのですが、時代から見て、映画のほうが後です。

2014年9月29日 (月)

ヴァロットン展─冷たい炎の画家(3)

2.平坦な空間表現

Vallootnball前回の展示で、ヴァロットンの作品の印象が目の前にあるものが本当に存在しているのかという真実性にたいして違和感を抱いてしまったがゆえに、真実をキャンバスに描くというこということに対して懐疑的になっていく姿が作品から見えてくる、ということを述べました。それは、リアルにみえる写実的な表現を少しずつずらしていくことで、作品を見るものにちょっとした違和感をもたせることを意図的にやっていたように見えるということでした。これは、綱渡りのような危うい均衡の上を行くようなものです。開き直って、目の前にあるものは真実ではないと言い切ることはできないのです。現実の生活は、そういう真実に対する信頼の上に成り立っているのですから。もし真実でないということになってしまえば、何ものかを描くという絵画というものに意味はなくなってしまいます。

しかし、この真実に対する懐疑を抱いてしまった人は自分ひとりだけではないはずです。そういう人々は、たとえそのようなことを感じてはいても、それをおくびにも出さず、まるで何事もなかったかのように毎日を過ごしているはずです。つまり、そういう人は表面上を取り繕って、もっといえば、嘘をついて生きていることになるわけです。要は、それが嘘であるとしても、嘘をつかれたひとが嘘と思わなければよいわけです。そうであれば、絵画であっても、真実かどうか分からないものを、そのことを表わそうなどという手間のかかることをするのではなく、見る人にとってそれらしく見える嘘をつけばいいわけです。そのために、ヴァロットンは作品の画面のらしさを追求して行ったのが、ここで展示されている作品ということができると思います。

「ボール」という、この展覧会のチラシやポスターでメインに使われた作品です。この作品については、様々なところで解説がなされているので、いまさらと思いますが、簡単に述べてきます。一見、ボールを無邪気に追いかける少女を詩情豊かに描いた作品ですが、どこか落ち着きません。全体をよく見通してみると、緑色の大きな影のあちらとこちらとでは明らかに視点が違っています。手前の少女は上から見下ろしているのに、奥の二人の女性は横から見ています。気づかなければ、通り過ぎてしまうものが、いったん気付いてしまうと無視できなくなります。エドガー・ポーの「群集の人」のような印象です。そんな不条理な不気味さをいうのは不似合いですが、ここでヴァロットンがやっているのは、だまし絵のようなものです。それを可能にするためには、前回のように写実に描き込んだ様式では不可能で、画面を単純化させて、作品を見る人がシンプルに見ることができることが必要です。そしても画面に操作を加えることになるのですから、単純化、見もっと言えば図案化したほうが操作を加えやすくなります。図案化されれば、見るものはそれなりに想像力を働かせて、それを見る人なりに、というよりはパターンに従って現実に当て嵌めて見るようになります。だから、この展示の章立てのタイトルである平坦な空間表現というは、そのために格好の手段となってくるわけです。

Vallootnvaulしたがって、ヴァロットンに対しては印象派とかいうゆう表現技法とか様式によって結果として出来上がった作品の特徴が出来上がったというような分類にはそぐわないタイプなのではないかと、私は思います。必ずしも、理念先行で主題が重要だというタイプの画家ではありませんが、技法とか様式というものはあくまでも絵を描く手段であることをわきまえているひとであると思います。そこにヴァロットンという画家のユニークさがあると思います。

「ワルツ」という作品では、今で言うイラストに近い仕上がりものになっているのではないでしょうか。ダンスする人々の動きを瞬間を捉えて筋肉の動き等を活写するのではなく、足の描写などは流れるように不断に動いているのだからと描くことをやめてしまっています。これなど、まんがの表現技法につかい発想です。まるで人々は空間に浮遊しているようです。でも、これは実際に踊っている人々の感じている状態というのは、このようなものではないか。それを周囲で傍観している人と、ダンスの渦中にいる人では感じている感じ方が異なってくるので、その違いを表わそうとすると、傍観者が見たように描くいわゆる写実的表現とは違ったものになってきます。表現の仕方としては、浮世絵の風景の雨の描き方に似通っている感じもしますが。これは、それでらしく見えます。

2014年9月28日 (日)

ヴァロットン展─冷たい炎の画家(2)

1.線の純粋さと理想主義

Vallootnself20「20歳の自画像」という作品です。展示室で最初に目に入るのが、この作品だったのですが、実は、私には出会い頭ということもあったのでしょうか、この作品の印象が一番強く残ることになってしまいました。その印象は上手いということで、もとより、私は自分で絵筆をとって描くことはしないで、もっぱら見るだけの人なので、描く際の巧拙は具体的には分かりません。しかし、出来上がりの完成度の高さとか、全体のバランスのきちっと整っていること、そして、これが一番大きな要素だったのですが、デッサンが完璧といいたいほど上手い印象を与えていたということでした。まるで古典を見ているような感じを与えるものでした。かといって、それがこじんまりとまとまってしまっているのではなくて、その真に迫ったような描写が迫力をもって見る側に訴えかけてくるところもある、生き生きとしたものでした。だから、この展覧会のサブタイトルの“冷たい炎の画家”というのと何やらそぐわない感想を持ったのも事実です。

Vallootnflixそれが2年後の「帽子を持つフェリックス・ヤシンスキ」になると完璧だったバランスが崩れていきます。まず、顔の左右のバランスが崩れて古典的な均衡からくる整った感じがなくなり違和感が生まれ、写実的という感じがしなくなってきています。しかし、ここにあるのはモデルこそ描かれた当時の同時代の姿をしていますが、その体裁は数百年昔の、ルネサンスのころの昔の構図のような枠に無理に当て嵌めていて、そこに写真の対比が感じるような現代的な写実との間に生まれるわずかな齟齬をあえて感じさせるように描いているように、私には感じられました。いうなれば、そのような違和感を見るものに湧き起こさせることをヴァロットンが操作して意識的にやろうとしているように、わたしには感じられました。

その10年後に制作された「タデ・ナタンソン」という作品では、人物の顔と身体と、そして背景がちぐはぐです。しかし、全体の構成としては、中世からルネサンスのころの古典的な肖像画の体裁に収まってしまっています。だから、なんとなく違和感を感じるのだけれど、それが全面的に露になってはこないで、仄めかすようにして、見る人は、どこか違うと感じつつも、その原因がどこにあるのか、はたして変なのかはっきりしないという宙ぶらりんの感じを作品から受け取ることになります。

Vallootntade_2多分、私の個人的な感想でしょうけれど、ヴァロットンは意図的にこのような画面を作っているように思えてなりません。最初の「20歳の自画像」の完成度の高い作品は、その後の見る者に違和感を感じさせるためには、その前にまったく違和感の生ずる余地の無いものを作っておく必要があったから制作したとも勘繰りたくなるような作品です。非常識をするためには常識を弁えていなければならない、とでもいいたげなようなのです。私には、そこのズレの絶妙さがヴァロットンの作品の生命線といえるのではないかと思えました。

しかし、ヴァロットンはなぜ、このような変なことを、わざわざ手間をかけてまで行ったのでしょうか。そこに、私にはヴァロットンという画家の特異性があるように思えてなりません。彼が活動を開始したころのパリの画壇は、アカデミーの画家がいる一方で印象派の画家たちが活躍していたと思われます。印象派の画家たちは、光とか色彩を重視して描こうとしていたし、その中で模索していたセザンヌはこのころから独自に存在を画面に定着させようとユニークな作品を描き始めていた、そういう時期だったと思います。そのような動きは実は多彩で十把一絡げにしてしまうのは乱暴だと言われそうですが、そこをあえて強引に言うと、これらの動きは総じて、目の前に真実があるということになんら疑いをもたずに、それをいかにキャンバスに写すかということで様々な試みをしていたと言えるものです。ところが、目の間にあるものが真実なのか、あるいは、今目の前にあるように見えるのが、本当に存在するのか、それに疑いをもってしまったら、そういう試みはすべて意味を為さなくなります。しかし、それを正面から否定しまえば、それは逆に目の前には偽があるということで、結局同じ穴の狢ということになってしまいます。それは、例えば幻想世界とか精神世界を描くような象徴主義の絵画がそういう世界観に近いものだったと思います。その中で、真実に疑いを持ち続けるためには、全面否定への誘惑に負けず、それに対してシニカルに接していくほかありません。一種のアイロニーの姿勢です。それを、ヴァロットンという人は、現実に対して、どこかシニカルに接し、現実の綻びを執拗に見つけ出し、仄めかすという戦略で作品を制作し続けたのではないか、と私には思えました。

Vallootnrestヴァロットン本人は感覚として、そういう違和感を持ち続けた人だったのではないか。その感覚が絵を描くことによって、当初は本人ですら気がつかなかったのが、描く作品に表れてしまったのを、本人が後から気づくことで、絵を描くことによってヴァロットン自身もその感覚を研ぎ澄ましていったのではないか、と私は想像します。つまり、ヴァロットンにとって絵を描くという作業は、現実世界の存在とか真実に対する違和感を察知し、その感覚を育てていくものだったのではないかと思われるのです。

Vallootnbirthヴァロットンの肖像画は、そういう画家が自身の感覚を自覚し、それを制作に反映させていく軌跡がよく表われているように思えます。それは、対象との距離感の変化で、時代が下るにつれて対象との距離感がだんだんと開いていって、「タデ・ナタンソン」では、対象を突き放すかのように、人間的な感情とか息吹が感じられなくなり、マネキン人形のようになっていきました。

そのように冷たい人物表現が端的に感じられたのが女性ヌードを題材とした作品です。正直に申せば、官能性を感じることがまったく無いのです。「休息」という作品に描かれた女性は、美人の範疇に入るでしょうし、肢体も豊満で、扇情的なポーズをとっていますが、生々しさとか肉感性がないのです。マネキン人形を見ているようなのです。これは、女性の顔に個性がなく、ポーズの顔の位置と大きさの不自然さに目が行ってしまうのです。「トルコ風呂」は大作で、オーギュスト・アングルの「トルコ風呂」の影響を受けたと解説されていましたが、両者を見た限りでは似た感じはしません。ただ、アングルの描く裸婦は絵画上の見栄えのために現実では不可能なような無理なポーズになっていることがあって、描かれるものよりも描いたものを優先するところがあり、その姿勢をヴァロットンが範としたのかもしれないと思いました。Vallootnang


2014年9月27日 (土)

ヴァロットン展─冷たい炎の画家(1)

Vallootnpos未だ梅雨明けには至らないものの、梅雨末期のめりはりのある一方の極、ということで真夏を先取りしたような猛暑となった日、都心でのセミナーのあと金曜日は美術館も時間延長しているのだろうと、東京駅近くという場所がらのせいもあり、寄ってきました。

このヴァロットンという画家のことは、私は知りませんでした。ただ、展覧会のパンフレットの絵がどこか変な感じがするのと“冷たい炎の画家”というキャプションに興味を持ったので、行ってみました。今回の展覧会は、このヴァロットンという画家を紹介するということが主な趣旨であると思うので、その切り口とか、そういうことはあまり考えないで、どのような絵を描いているのか、それをまず見るということなのでしょう。それで、主催者の挨拶も画家の概要をかいつまんで紹介するという体のもので、以下に引用します。

“ヴァロットンの名は未だに一般の人々には広く知られていませんし、パリでもこの数十年の間、この画家についての重要な展覧会は開催されていません。今こそこの忘却が埋め合わされる時です。1865年にスイス、ローザンヌに生まれ、1925年にパリで没したヴァロットンは、二つの国の間で、世紀を跨いで活動した画家です。ヴァロットンは、ボナール、ヴュイヤールやドニとともに活動し、同時代のポスト印象主義画家であるゴーガン、ゴッホ、セザンヌ、さらにフォヴィスムキュビスムの芸術家たちとも交流を深めました。しかし、唯一参加した芸術家集団「ナビ派」でも「外国人のナビ」と呼ばれたように、前衛芸術の渦中にいながらも独自の道を辿りました。この風変わりな画家の様式は、滑らかで冷ややかな外観が特徴です。洗練された色彩表現、モティーフを浮かび上がらせる鋭い視線、大胆なフレーミング、日本の浮世絵や写真に着想を得た平坦な面を有しています。ヴァロットンは、欲望と禁欲の間の葛藤を強迫観念的な正確さで描き、男女間の果てなき諍いに神話的なスケールを与えています。その鋭い観察眼に裏打ちされた繊細さによって、気が滅入る程の凡庸さを脱し、謎めいた力強さを表現しました。ヴァロットンが描く風変わりなイメージは、その率直さと情熱、そして知性によって今日も我々を魅了してやみません。”

Vallootnpos1と、これだけでは、どんな絵を描いていたか分かりませんね。一応、ウィキペディアとか新聞の死亡記事に載っているような概要にはなっているので、その程度でいいかもというところです。主催者による紹介が、このように力が入っていないで揚げ足を取られないようにしているような無気力さに溢れているものだったので、最初、少し後悔しました。でも、この最初の落胆ほど展示されていた作品は、まあまあ見ることができた、というものでした。たとえば、展覧会パンフレットのもうひとつの作品、裸婦像を見てみましょう。身をくねらせて扇情的なポーズをとっていて、一応それらしく見えるように描かれていますが、官能性とか肉感のようなものは微塵も感じられないものになっています。かといって、色彩とか敬称とか量感とか何かを抽出して美とか真実とかを主張しようというものでもない。まったく時代が違いますが、私はこれを見ていて似ていると思い出したのは、ルネ・マグリットの作品でした。シュルレアリスムのマグリットとこのヴァロットンの間に美術史上の接点は多分ないのでしょうけれど、人物を写生的に描いているようで、その人物にリアリティがなく、ペッチャンコでノッペリしているところに共通のものを感じます。それは、人物を描くということは目的ではなく、ひとつの手段であるかのようなのです。実際には、そこに描かれた人物に何らかの細工が加えられ、それによってあるものを伝えようとか、ある雰囲気を作り出そうとか、そういうものになっている。とくに、ヴァロットンにしてもマグリットにしても、センスとかウィットとか皮肉のようなことが画面に加えられる作為の根底にあって、それが隠された趣意ともいえるもので、そのためには人物を描くにしてもリアルでないほうがいい、リアルであれば存在感に作為が負けてしまって、隠れた趣旨が伝わらなくなる。その反面、画面での描写手法では過激なことをやってしまうと、そこに見るものの注意が集中してしまって、これも隠された趣意を汲み取ってもらえない。そこで、一見すると、現代でいうイラストのような見易い描き方を意図して採っている、という印象です。だか、あくまでも主流になれないで、主流に対して傍流にいて主流に対して皮肉な視線を送るという位置にいるべき作品という気がします。歴史に残る傑作などというのとは無縁な、時流のなかで皮肉とウイットで分かる人がニヤッとする、そういった類の画家ではなかったのか、それだけに、同時代の一部の好事家から支持されるというような位置づけで、むしろ、パブリックなミュージアムで回顧展などとご大層なこととは本来向いていない、そういう意味では浮世絵の画家たちとも通じるところがある、そういう印象です。だから、この画家には、作品を見て、分かる人がニヤッと唇の片端をニヤけてみせるというのが最大の賛辞なのではないか、と思わせるのではないかと思います。とはいっても、私には、そういう意味で展示されていた作品について、ニヤッと笑えるほど分かった作品は多くありませんでした。また、そのニヤの内実を説明するのは野暮の骨頂になりますが、それをあえてしようというのが、ここで私が今までやってきていることなので、これから具体的な作品をみていこうと思います。

展示は次のように章立てされていましたので、それに従って見ていきたいと思います。

1.線の純粋さと理想主義

2.平坦な空間表現

3.抑圧と嘘

4.黒い染みが生む悲痛な激しさ

5.冷たいエロティシズム

6.マティエールの豊かさ

7.神話と戦争

2014年9月24日 (水)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(9)

ここでデカルトは。観念からその外部を推論しているのではない。そうではなく、「思うこと」が一個の全体として存立していることを見て取ることそのことが、「無限」が痕跡としてその「思うこと」に「触れて」いることなのだ。「思うこと」の端的な存立と、そこに「無限」が「触れて」いることは、コインの両面のように切り離しえないのであり、両者は同じひとつのことなのである。

デカルトの議論はここで、「私」はそうした「完全」にして「無限」な神を<包摂するという仕方で理解>はできないにしても、「知解」はできるという方向に進む。そしてそのような神の観念を「私」の理性が「知解」するなら、その完全にして無限なる神は「存在」する、と結論する。この場合の「知解」や「証明」は両義的であるつまり、明白と思われる概念規定(観念内容)や論理法則に基づいていたそれなのか、それとも「思うこと」の絶対の疑いなさを見て取った時と同じ次元(「私である」ことの次元)でのそれなのか。この両義性は、彼がその「存在証明」において、推論規則を自覚的に用いている以上、最後までついて回る。

そこでもう一度彼の「無限なる神が存在する」という言葉に聴いてみよう。それは、「<包摂するという仕方で理解>することが不可能なものの観念を私は明晰・判明に見て取る。したがってそのようなものが<存在>する」と言っているはずである。そしてこの言明は、二通りの読み方を許す。一方から読めば、それは次のようなことを言っていることになる。「<包摂するという仕方で理解>することが不可能だと明晰・判明に<知解>された当のものが<存在>する」。つまり「理解不可能」であることがはっきりと知解されたものが、まさにその明晰な「知」においてその「存在」を保証されるのである。この場合の「知」から「存在」への通路を保証しているのは、先に見たある種の因果性である。そのような「知」が観念を介して与えられているのであれば、もはや「私」の内に包摂されない理解不可能なものが当の観念の原因ないし起源として「私」の外部に「存在」しているのでなければならない、というわけだ。そしてこの場合の「知」は、紛れもなく「思われること」の内にある。

だが、この言明を別の方向から読めば、次のようになるはずである。「<包摂するという仕方で理解>することが不可能」なものは、文字通り「理解」できないのだから、それが何であるかが分からないものに、「存在」するという明らかに「理解」可能な述語を帰属させることはできない。帰属できるなら、そのかぎりでそれはすでに理解されてしまっている。「無限」とは、「理解」をこととする「私」の理性をはみ出し・破り・凌駕してしまうことの謂いであったのだから、それは何かであることのないものである。したがって、そのようなものに思考が出会ってしまったことのみを、ここでの「存在」するという述語は示しているのだ。というのも、この言明で主語の位置に立つ「無限」が文字通り「理解不可能なもの」である以上、それにどのような述語を帰属させても、この言明の全体は「理解不可能」なままにとどまるともいえるからである。つまり、理性の面前に或る「理解不可能」な言明がただ置かれているだけなのであり、このことがすなわち「思うこと」である。つまり、理性の面前に或る「理解不可能」な言明がただ置かれているだけなのであり、このことがすなわち、「思うこと」である「私」が、その「思うこと」の内にいかにしても回収しえない外部に直面したことを証しするのだ。この言明は、思考がその言葉の厳密な意味で「理解不可能」なものに「触れ」てしまったことのみを証言しているのである。このことをデカルトは「知解」と述べたのである。

彼の行った「神の存在証明」は、もはや存在として理解しうる何者でもなければ、ましてやその存在を証明しうるものでもないような何かに、そのような仕方で「私」が「触れ」てしまったことを、そしてそのことのみを証言しているのではないか。それは、彼が徹底して「思うこと」すなわち「私」というもはやその外部が存在するとは思われないものに沈潜し、その自己充足に徹することによってのみ、僅かに可能となったのである。

観念の起源、つまり「思うこと」の外部の可能性をめぐるデカルトの思考の中で「無限」が決定的な役割を果たすのは、それがもはや理性によって何かとして限定・規定されえない事態を、すなわち理性によって理解されえない事態を指し示しているからである。つまり、「無限」は、「思うこと」の文法が破壊されている可能性が問題となった次元と正確に重なり合っているのだ。したがってデカルトが語る「無限」は、しばしば私たちが口にする無限でもなければ、現代数学で言う無限など様々に論じられているそれらのいずれでもない。それらはあくまで「思うこと」の内部、すなわち理解可能なものだからである。

なぜ、「無限」の観念が「私」の内にあるのかについて「私」は知らないまま、現にありありとその無観念が「私」の内に見て取られる。つまり「無限」の観念に関して、その起源の問題は「私」には理解不可能なのである。もしかしたら次の瞬間にはもはや「私」は「存在」しないかもしれないにもかかわらず。なぜか今この瞬間において私は確かに「私」は「存在」している。つまり、「私」の「存在」に関して、その原因の問題は「私」には理解不可能なのである。いずれの場合にも示されているのは、その時もはや理性が有効には機能しない外部に理性が曝されていることが当の理性にはっきり告げられているという事態であり、それ以外ではない。これは決して理性が外部の存在を明証性をもって確信しているということではない。「外部が存在することは確かだ」と言っているわけではないのだ。もはや外部に関してのそのような確言は不可能なのであり、この不可能性の内に理性は宙吊りにされたままなのである。これがすなわち、デカルトがア・ポステリオリな証明において行ったことなのである。それは理性の内部で行われる何らかの「証明」ではもはやありえず、図らずも理性をそれとは別の次元に連れ出してしまう営みだったのだ。そしてまさにその時、彼は「思考すること」を「感ずること」とあらためて呼びなおしたのである。しかし理性は、自らを、その外部に曝すことになるこの営みを、己の全力を傾けて遂行したのだ。

2014年9月23日 (火)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(8)

2.「無限」ということ

何よりも方法的懐疑の極点に未だ思考は位置している事情を勘案した上で、なおも「ア・ポステリオリな証明」にみるべきものはあるか。最初にはっきり言えることは、<「私」に与えられている「神についての観念」が、その完全性のゆえに、不完全な「私」の内にその「起源」を持つことができず、したがって「私」の外部に「完全な」神が「存在」する>という議論は、もはや受け容れられないということである。ここにも、懐疑のこの地点では有効に機能しないある種の「因果律」がすでに設定されてしまっているからである。それにもかかわらず本書がこの証明に注目するのは、この証明に注目するのは、この証明に注目するのは、この証明の中心に位置していると言ってよい「無限」の観念には、必ずしも今見たような因果的思考に収まらない別の側面が顔をのぞかせているように思われるからであり、現にそこでのデカルトの思考はこの別の側面をはっきり記述しているからである。

デカルトが神の「無限性」に言及する時、そこで対比されているのは「私」の有限性であった。ところで、この有限性の内実を彼はどのようなものとして見て取っていただろうか。「私」とは「思うこと」そのことであった。つまり「私」は、「…と思われる」という仕方で姿を現わしうるもののすべてがその内に「潜在的に存在している」と言ってよい存在である。そして懐疑のこの段階における「存在」とは、それが「思われること」の端的な存立の内に含まれているかぎりでのみ成り立つものであった。逆に言えば、この「私」の内にいかなる仕方でも含まれていないもの、すなわち決して「…と思われる」という仕方で姿を現わすことのないものに関しては、もはや「存在」を云々する余地は全くないのである。この意味で「私」とは、およそ「存在」であるかぎりのすべてがそこに含まれている場所のごきものだった。したがってそれは、すべてであるかぎりで有限であるが、そのすべてが顕在化しているわけではないかぎりで際限がない、つまり<これで終わり>ということがない。現代の私たちは普通「世界」をそのようなものとして考えているのではないだろうか。それはどこまでいってもまだなお先があり、この意味で果てしがない。だが、何が起ころうともそれらはすべてであるかぎりでこの世界の中の出来事でしかありえないという意味では、世界それ自身は閉じた・一個の全体である。すなわちこの意味で有限なものである。このようなものとして私たちはこの現実を捉えていないだろうか。手駆るとはそれを「私」と呼んだのである。つまり「私」とは、「無際限」であり、かつ「有限」なのである。「私」の有限性の内実はこうした「無際限性」なのである。

だが、このような仕方で「無際限」であることは、「無限」とは決定的に異なる。「無際限」なものはあくまで「有限」であるのに対して、「無限」が有限なものでないことは明らかだからである。そしてデカルトは、「私」=「世界」が潜在性を伴った「無際限」なものでありながらなおかつ「有限」であることの認識が紛れもなくこの「私」において成立していることを語るその時に、そのような「有限性」と鋭い対比をなす神の「無限」に触れるのである。つまり、「私」が「無際限」かつ「有限」であることをはっきりと見て取る時、その認識は「完全」なものである「無限」が視野に入っているのでなければ可能であることをも、同時に見て取るのだ。「完全」なる「無限」と対比されたとき、「有限」な「私」はみずからの「不完全性」を知るのである。

ところが、このようにして「私」の有限性・不完全性の認識の視野に紛れもなく入ってきている「無限」に、「私」はいったいどのようにして接することができたのか。有限な「私」の内に与えられている「無限」の観念とは、どのような観念なのか。かれは、「私」という「思うこと」の内にある「思われたもの」である観念を、作為観念・外来観念・本有観念の三つに分類していたが、「無限」は本有観念であるという。なぜならそれは、物体的事物に関わる外来観念のように経験を通してあるときには「私」に到来し、またある時には到来しないというものではなく、そもそもはじめから「私の」内に在るからである。つまり「無限」なる神は、ある時「私」がそれに出会ったり、また出会わなかったりするような存在ではなく、「私」が「存在」する時、いつも常にその内に観念として自らを与えている、というのである。だが言うまでもなくそれは、「私」という観念が「私」自身にとって本有的であるのと同じ仕方で、本有的であるのではない。「私」の観念が確かに当の「私」の内にその「起源」を持っているのに対して、「無限」の有限な「私」の内にありえないからである。そうした「無限」についての観念は、「私」の内にあるその観念が、つねにそれが指し示すものによって破られ・はみ出されてしまう仕方ではじめから「私」の内にある、つまり有限な「私」といつも共に在るのだ。ここに、本有観念でありながらその「起源」を「私」の内に見出すことのできない「無限」観念の特異性がある。

この特異性をデカルトは次のように特徴付ける。すなわち、通常の観念はそれが作為観念であれ外来観念であれ、あるいは本有観念であれ、いずれもそれを有する「私」によって「包摂」されるという仕方で「理解」されているのに対して、「無限」観念はそのような仕方では「理解」されないというのである。ところが「無限」は、有限な「私」をはみ出し・凌駕してしまうものであるがゆえに、「私」の内にあるそれについての観念を介しても決して「私」の内に包摂され=理解されることがない。ではそのような「無限」に「私」はどのように接するのか。デカルトそれを。文字通り「触れる」と表現する。その「起源」が「私」の内には決して見出されない「無限」に「私」は、当の「私」の内にはじめから与えられている観念を介して「触れる」ことができるのみなのである。「私」という「思うこと」が有限なものであることは、あたかも何かの痕跡のように当の「思うこと」の内に残されている本有観念を介して、いかにもその「私」の内部に回収・消化できない外部に「触れる」ことで知られると言ってもよい。ここでデカルトが、観念を介して「無限」という「私」の外部に「触れる」その仕方に関して、もはや何も語っていないことに注意しよう。彼は、「それがどのような仕方であれ何らかの仕方で」と述べているのである。「私」は「無限」について、これ以上述べることができないのだ。

わずかに「触れる」という仕方でしかそれにまみえることのできない「無限」が、それにもかかわらず「私」という「思うこと」の内なる観念として与えられていることを今や「私」は「絶対に疑いえない」ほど明晰・判明に見て取る、と彼は言っているのである。この時点での彼のこの発言は、「無限」についての「思われ」を、それが「思われたもの」であるかぎりで保持したものとみなすことができる。つまり、「私」という「思うこと」を一個の全体として「絶対に疑いえない」唯一のものとみなした懐疑の頂点でのあの発言と全く同じ次元で、そのような発言がもし可能であったのであれば実はすでにそうした発言の視野に入っていたはずの「無限」を、あらためてここで彼は確認しているのである。「思うこと」がすべてを内に内包する一個の完結した全体として与えられているのであれば、そのような全体の全体としての定立は、それとの鋭い対比をなす「無限」が当の「思うこと」の外部に広がっていたのでなければならないのであり、その外部の痕跡が「無限」についての観念なのである。

2014年9月22日 (月)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(7)

第2章 「われ思う」に他者はいるか

1.観念の起源へ

「思うもの」としての「私」を徹底してその「思うこと」において解明したデカルトは、続いてそこにおいて「思われたもの」の解明に向かう。「思うこと」なしには「思われたもの」はありえないが、「思われたもの」なしの「思うこと」もまたありえないのであってみれば、「思われたもの」が「思うこと」の本質に関与していることは明らかだからである。「思われたもの」の解明は、「思うこと」の解明は、「思うこと」の解明のさらなる掘り下げなのである。彼は、「思うこと」におけるこの「思われたもの」を観念と呼ぶ。「思われたもの」の解明は、「思うこと」の内に与えられているさまざまな観念の解明なのである。それは具体的には、このような観念にどのような種類のものがあるかを吟味するというかたちをとる。彼はまず、観念を次の三つに大別する。「本有観念」「外来観念」「作為観念」である。

「本有観念」とは、「思うこと」の内にはじめから含まれている観念であり、したがってそれが何であるかを「私」は(つまり「思うこと」は)「私」自身から直接理解することができる。デカルトはここで「<もの>とは何であるか、<真理>とは何であるか、<思う>とは何であるか」をその例として挙げている。「思うこと」は必ず何かを、つまり「思われたもの」を「思う」ことなのだから、「もの」と「思う」は「思うこと」の内にはじめから含まれている。また「思うこと」は何よりもまず「真理」を目指して遂行されるのだから、これも「思うこと」の中核をなしている。それらは「思うこと」それ自身を構成するものなのだから、「思うこと」なおいて端的に理解され、それ以外の何ものも必要としない、というわけである。これに対して「外来観念」は「思うこと」の内にはじめから含まれているのではなく、その外部から、後に与えられた観念である。例えば私は物音が聞こえ、太陽が見え、火の熱が感じられたとすれば、それらはいずれも私の外から「思われ」に到来したと考えられるのである。最後の「作為観念」は、私自身(つまり「思われ」)がその作者であるような観念、私によって作り出された観念のことで、妖精たちや竜のような空想上の存在がその例として挙げられよう。

これらの観念のその真の出所が必ずしも明らかではない、とデカルトは述べる。したがって、次に為すべきは「これらの観念の真の起源」を吟味・精査し、明らかにすることである。現時点で彼が手にしているのは、<「思うこと」において「思われ」たかぎりでの「思われたもの」>のみ、すなわち端的に存立している「思われ」の全体(=「思うこと」)のみである。この「思われ」の内に、「思われ」自身を「起源」としているのではない何らかの観念があるかどうかが問題なのである。もしそのような観念がひとつでも存在していれば、それは「思うこと」に外部があること、すなわち他者が存在することを意味する。逆にそのような観念が見い出されないのだとすれば、「思うこと」という「絶対に疑いえない」とされたものがいかなるものであるかにとって、決定的に重要なことなのである。そうであれば、何を措いても真っ先に吟味すべきは先に「外来観念」と呼ばれたものである。それは「思うこと」の外部に存在する「物」に由来するように見えるからである。もしその通りであれば、「思うこと」には外部が存在することになる。これに対してデカルトは、物体についての観念をその典型とするような「外来観念」は、その名に反して決して「思うこと」の外部に何ものかが存在することを確かなこととして保証しない、というのである。もし「思うこと」の外部に起源をもつような観念が存在するとすれば、それは少なくとも物体的事実を典型とするような「外来観念」ではない。はたしてそのような観念が「思うこと」の中に存在しているであろうか。そこでデカルトは、あらためて「私」という「思うこと」の中に与えられている観念を列挙し、その各々に検討を加える。「私自身を私に示すもの」「神を表象するもの」「物体的で非生命的な事物を表象するもの」「動物を表象するもの」「私と類似の他の人間を表象するもの」。この内、第一の「私自身を私に示すもの」は「思うこと」そのものを示すものであるから、その起源もまた「思うこと」以外ではありえない。それは典型的な本有観念である。次いで検討されるのは最後の三つ「他の人間」「動物」「天使」を表す観念は、かりにそうしたものが実際には存在しなくても、「私自身」と「神」と「物体的事物」という前三者から、それらを適宜組み合わせることで容易に作り出すことができる作為的観念であり、そうであればそれらはその起源を「思うこと」の外部にもつ必要はない。そこでもう一度改めて検討すべきは「物体的事象」についての観念である。それらは夢でもありえ、夢であればそれらは私の単なる「思われ」にすぎないことを示していた。つまり「私」という「思うこと」から引き出すことができる、つまり本有観念を他のものに適用して作り上げた観念にすぎないことになる。すなわち、これらの観念の起源は、どう見ても「思うこと」の内に十分見い出すことできる。

こうして最後に残ったのが、「神」についての観念である。デカルトによれば神とは無限な存在である。それは「私」の有限性と鋭い対立をなす。そして「私」という「思うこと」の有限性のうちに無限なる神の観念が与えられているとすれば、そのような「無限」は有限な「私」の中のどこにもない以上、「私」の外にその「起源」を有することは明らかだ。すなわち、有限な「私」の内に現に「無限」についての観念が与えられている。だが有限な「私」の内のどこにも「無限」は存在しない。また、有限な「私」の内に与えられているどんな観念を組み合わせても、「無限」の観念を作り出すことはできない。有限な観念をどんなに組み合わせてもそれに収まりきらないもの、それを破ってしまうものが「無限」なのだから、この「破れ」は有限なものの外部からもたらされると考えるしかない。そうであれば、この「無限」の観念の「起源」は「私」の外にあることになる。すなわち「無限」なるものが「私」の外に存在する。デカルトは、彼にとって「絶対に疑いえない」と思われた「思考すること」がいったいいかなる事態であるのかを徹底して検証する途上で、その「思考すること」の内に「起源」を持つとは思われない一つの特異な観念に遭遇し、そこから「思考すること」の外部の存在を証明するに至ったのである。この証明は神の存在の「ア・ポステリオリな証明」と呼ばれる。

2014年9月21日 (日)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(6)

「思考されるもの」なしに「思考すること」は成り立たない。この点は動かないだろう。「思考する」とは何かを思考することなのだから。そしてその何かとは、「思考されるもの」以外ではありえないのだから。だが、「思考すること」にとって「思考するもの」は不可欠だろうか。「思考するもの」は、それが「もの」として像化されている以上、すでに「思考されるもの」(思考の主題、図)なのであって、その時今や「思考されるもの」となった「思考するもの」(図となった「思考するもの」)と対になっているのは、あくきでもその「地」として「見えない」ままにとどまっている「思考すること」なのではないか。「思考するもの」について何かを言いうるためには、それはすでに「思考されるもの」(図)でなければならないのだから、絶対に疑い得ない究極の事態とは、<「志向すること」の下にそのメンバー・構成員としての「思考されるもの」と「(それを)思考するもの」が対になる>ことではなく、<「思考すること」と「(そこにおいて)思考されるもの」の対>ではないか。そしてこの後者の事態においては、「思考すること」は「思考されるもの」を主題(図)として浮かび上がらせる地としてあくまで「見えない」のだから、方法的懐疑の極点において「見えるもの」として残っているのは「思考されたもの」のみなのである。

だがその「見えるもの」は、それが図としてそこにおいて浮かび上がる地として「見えるもの」を支え、「見えるもの」にその存立の場所を提供する「思考すること」なしにはありえないのであり、このような仕方で「見えるもの」としての「思考されるもの」を包摂している「思考すること」こそが究極のものとされたのである。唯一の「見えるもの」である「思考されるもの」がそのようなもの(「思考されるもの」)でありうるのは、あくまでそれが「思考」すなわち「考えること=思考すること」の圏内にある時のみなのだから、「思考すること」こそがすべてを包摂する究極のものなのだ。

このように捉えることができるとすれば、「思考するもの」はあくまで「思考されるもの」の一種であって<「思考する」ためにはそれを「思考するもの」がなければならない>というある種の要請にしたがってはじめて登場するものであり、決して方法的懐疑の最終的な地点に残るものではない。

それ自身が「見えること」そのことであるような何か、それ自身が「思考すること」そのことであるような事態、それをデカルトはあらためて「私」と呼んだのではないか。それは決して、「見えるもの」「思考されるもの」の外部にあってそれを「見て取る」「思考する」それ自身も一個の「もの」であるような誰かのことではない。これが「私」とは「思考すること」そのことだ、というデカルトの奇妙な命題が言い当てようとしていた事態なのである。

では、このようなある種の事態にデカルトが「私」という名を与えたのはいかなる理由によるのだろうか。私たちはここで、ある作用ないし動きの遂行者としての「私」と、そのような作用ないし働きそのもの(遂行することそのこと)であるような「私」を厳密に区別した。前者においては「遂行すること」それを「遂行するもの」は別ものだが、後者においては「遂行すること」と「私であること」とは完全に重なり合っており、区別がつかない。「遂行すること」と「私」とはまったく同じことなのである。そしてこの後者の事態にこそデカルトは「私」の名を与えたのだとすれば、それは「遂行すること」の端的さの表現であることを措いて他には考えられない。先に私たちが厳密に言い直したその限りにおける「いま・ここ」での端的さである。世界内部の特定の時刻や場所としての今やここがそれを通して・そこにおいてはじめてそのような規定を受け取ることになる、あの端的さである。私たちが日常用いる「私」という言葉を、単に世界内の一人物という意味ではなく、当人という意味でのある種の直接性ないし臨在性・磁場感を含んだものとして考える。ここでは、この直接性や臨在性を、<誰か(という人物)が何か(という「もの=対象」や「事態」)に居合わせている・じかに接している>という意味から解放して、改めて用いるのである。さらには、「私」という実体(主語)─すなわち、それ自体で存在する「もの」─に何らかの「属性」(述語)─たとえば何らかの作用や働き─を帰属させることをやめさせるのである。したがってこの意味での「私」に関しては、もはや「私はデカルトである」とか「私は思考する」という言い方は成り立たない。それどころか「私は存在する」という言い方すら、普通にかいすればそれは「私」という主語(実体としての「もの」)にその属性(性質)として「存在する」という述語を帰属させること以外ではないのだから、ここでの「私」には使えない用法である疑いが濃厚なのである。こうしたことが、あの最終命題にあらわれた「私」や「存在する」、それらの彼自身による言い換えである「思考すること」や「感ずること」が挙げて言わんとしていることではないか。それは私という「思考するもの」が「存在する」ことでもなければ、「思考すること」「感ずること」という事態がどこかに「ある」と言っているのですらない。そうではなくて、「私」や「存在する」や「思考する」や「感ずる」はすべて同じひとつのことを言い表そうとしているのであり、それらの言葉の共通の源泉を指し示しているのである。

このこと関連して、方法的懐疑の終着点において出会ったものに彼は「私」「ある」「思考すること」「感ずること」という名を与え、その端的さこそ「絶対に疑いえない」と論じた。例えば「1+1=2であると私には思われること」は、かりら1+1が実は2ではないとしても、そのように思われている限り端的に存立しており、この存立を疑う余地はもはやどこにもないということである。「思考すること」は、「私には…と思われること」にほかならない。だが、このときの「私には」という部分に現れる「私」は、普通にそれを解すれば「…」(たとえば1+1=2)という「思われるもの」をそのように思っている「私」、すなわち「思う者」としての私以外ではないであろうから、デカルトが「思考すること」そのことと等置した「私」ではない。したがって、「思考すること」とは「…と思われること」に等しい。「私」とは「…と思われること」の端的な存立のことなのである。

ここで考えてみたいのは、そのような「私」すなわち「…と思われること」はデカルトの言うように本当に「絶対に疑い得ない」のだろうか、ということである。いま彼が立っているこの地点は、方法的懐疑が夢と狂気の想定を経て、もはやこれ以上高まることのできないほどにその強度を高めている地点である。ここでは、私たちの理性がその根本から欺かれている可能性が想定されている。そうであれば、「…と思われること」そのこともはたして無傷でいられるだろうか。「…と思うこと」すなわち「思考」こそ理性そのものではないのか。その理性が今や根本から欺かれているのかもしれないのだとすれば、「思われること」そのことが実は「思われること」でも何でもなく、何かまったく別のものである可能性が成り立ってしまうのではないか。それが「欺かれる」ということではないのか。もしそうだとすれば、「思われること」すなわち思考そのものも欺かれている可能性があるのであって、もはや「…と思われること」のみが唯一「絶対に疑いえない」とは言えなくなってしまうはずである。「欺く神」の利機能を持ってすれば、「思うこと」すなわち思考のいわば文法を破壊することも可能ではないのか。

デカルトの極限まで誇張された「並外れた懐疑」は、このような事態までをその射程に収めてしまったのではないか。そうだすれば彼はその懐疑の極点で、もはや「絶対に疑い得ない」ということ云々することのできない次元に「思われ」が晒されてしまうような地点に立っていたことになる。だが、私たちにとってはすべてがこの「思われ」の中でしか姿をあらわさないこともまた、確かである。「思われ」の外部が「ある」と言ってはならない。「ある」と言えるのであれば、それはすでに何らかの理解可能なものなのであり、実は「思われ」の内部なのである。したがって「思われ」の外部など「ない」と言わねばならない。言うまでもなく「ない」も有意味なもの・理解可能なものであり、かくしてすべては「思われ」なのである。その時にのみ「思われ」は、自らが破壊されている可能性に直面したことになるのだ。デカルトは図らずもこのような地点に立ってしまったのではないか。

その時「思われ」は、すべてがそこにおいてのみ姿をあらわす「世界の母胎」、この意味での「世界の起源」であり続けたまま、もはや「絶対に疑いえない」岩盤ではないのである。「思われ」は、そのような思われとして姿を現わしているまさにそのままで、何か分からぬ全く別のものであるかもしれず、あるいはひょっとしてそもそも何ものでもないのかもしれないのである。そしてこの想定もまた「絶対に疑いえない」とは言えないのであり、このように言う言明もまた然り…以下同様なのである。ここが方法的懐疑の果てにデカルトが立った地点なのだ。

この時には、もはや何かの「ありのままの姿」としての「真理」という考え方も機能しなくなっている。当初よりデカルトの念頭にあったと思われる「真理」の建築術としての思考は、今や磐石の土台としての「絶対に疑いえない」ものが宙に浮いたままである以上、もはや有効に機能しないのである。だが彼が思考を放棄したわけではないこともまた、忘れてはならない。むしろ彼はここで「真理」の建築術としての思考から、何ものかが「思われ」において姿を現わし、その限りで常に「思われ」のありえない外部に接してしまうような、つまりは思考の限界に立ち尽くす思考へと、自ら変貌したのである。

いったいのこの思考の言葉は、どこに向けられているのであろうか。みずからに言い聞かせる言葉のようにも、無の深淵に捧げられた言葉のように響くこの言葉は、むしろ祈りの言葉に似ていないだろうか。

「われ思う」のは誰か。この問いを普通の意味で解すれば、それは言うまでもなくその都度の私である。つまり、デカルトであったり、あなたであったりする私である。だがデカルトが「私」の名で呼んだものは、そのような私ではなかった。それは「思うこと」そのことと完全に重なり合い、等しいような「私」であった。それは「思うこと」の遂行者のことではなかったのである。そして「誰か」と問う問いが「思う」という行いを遂行する人物を問う問いでしかない以上、デカルトにおいてこの問いに答えることはないのである。

2014年9月20日 (土)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(5)

3.「私」とは何か

普通「私」といえば、それは人間である限りでの一人の人物の誰か、その当人のことと理解されるだろう。ところがデカルトは早速、私とは人間のことではない、というのだ。方法的懐疑の極点で出会っているものは人間ではありえない。なぜなら人間とはこの現実世界の中に存在するものたちの一種であって、しかも理性を備えたものということになっているが、そのような現実世界の存在や理性といったすべてが夢と狂気の想定の下で潰え去った地点に立っているからである。

「私」は人間でもこの身体のことでもない。ではいったい「私」とは何のことか。「私」ということで思いつくものをひとわたり列挙し、それらを斥けた後、改めてデカルトは問う。「思考すること」はどうか。このように思いを巡らしつつ、再び彼は先ほどの「私は何ものであると私が思考するかぎりでの」という限定に戻ってゆく。「ここに私は見つけ出す、思考がそれである。ただ思考だけが私から引き剥がすことのできないものである」。だが、仮はここでもただちに問い直すことを忘れない。「私」とはそのような「思考するもの」であり、それを「精神」「心」「知性」「理性」と言い換えてもよいが、「それに以前には私にその意味が知られていなかった言葉、つまり単なる音なのである」、と。そこで、彼は「思考するもの」とはどのような「もの」なのかを、想像力を駆使して捉えてみようとする。ところが、この試みはことごとく失敗せざるを得ない。それは私たちが「物体」としてすでに知っている「もの」の像を形成することにしかならないからである。ところが方法的懐疑の極点で出会った「私」は、そうした「もの」のいずれかでもなかった。ここでデカルトは「もの」を物体のレヴェルで考察し・斥けているが、事情は物体のように知覚される現実世界に属すると想定されているものにおいてばかりではなく、理念的な世界においても替わらないはずである。したがって、「私」はいかなる意味でも、「もの」ではないのだ。

「私」とは想像力が私に見せてくれ何らかの「像」としての「もの」ではないことを確かめだデカルトは、翻ってむしろ「私」とは、その想像する力を含めて、疑ったり、理解したり…する当のもののことだという。この「当のもの」を彼は言い換える。それは「想像されたもの」との対比で言えば、「想像する力それ自体」だと言うのである。デカルトはついに、「私」とは想像したり、感覚したり、疑ったり、理解したり…するそのような「力」ないし「働き」それ自体であることを突き止めた、と言っているのである。こうしてわたしの見るところ、方法的懐疑の到達点をはっきりと示す決定的な言葉が述べられるに至る。

何かが何らかの仕方でそのようなものと「思われ」たのであれば、そのような「思われ」の中で「思われ」た「もの」が実は「思われ」た通りの「もの」ではなく、そのかぎりで欺かれていようとも、現にそのように「思われ」ていること、そのことは、もはや「絶対に疑うことができない」と言うのである。ここで「思われる」と言われている事態こそ、「私」の本質だとされた「思考すること」の内実なのである。ここでデカルトは、もはや「私」を思われた「もの」とも言っていないし、思う「もの」とも言っていないこと、あくまでそれを「…と思われる」という「思うこと」として捉えている。この決定的な言葉に続いて、デカルトが、この「思われ」を「感じること」と呼び変えている点も、注目に値する。ここで呼びかえられた「感じること」は、方法的懐疑の最初の段階で斥けられた「感覚すること」ではありえない。それは新しい意味をまとった「感じること」なのである。この呼び換えに注目するのは、すでに「思われる」と言う表現の中に孕まれていたある種の受動性、「思考する」と言う言葉の中では能動性が前面に出てしまうために聴き取ることのできないある種の受動性が、この究極の事態の中に読み取られている点を考えてみたいからなのである。また、「思考する」という通常の意味で理性的な営みに限定されてしまう恐れがあるが、それを「感ずる」と言い換えることは、その限定を取り除くことを意味するからである。私の存在そのものが、「感ずること」なのだ。

ここで、立ち止まって、もう一つ別の問題を考えてみたい。今や「私」は現実世界の一員のそれではなく、端的な「思考すること」「感ずること」である。今「端的な」とわざわざ述べたのは、普通「思考すること」といい「感ずること」といえば、それは世界内の一人物であるかぎりでの人間としての私が行う振る舞いのことを意味してしまうからである。そのような理解を禁ずるための符牒が、この「端的な」だと考えてほしい。デカルトが言わんとしているのは、「思考し」たり、「感じ」たりするのが人間としての私であるか否かは疑おうとすればいくらでも疑えるのに対して、いま・ここで端的に「思考する」「感ずる」という事態が出現してしまっていることだけはいかにしても疑うことができない、ということなのである。実は「いま・ここに」という表現も危険である。普通「いま・ここ」と言えば、それはこの世界の内部の特定の時刻と特定の場所を指してしまうからである。そのような世界内の特定の時刻や場所でなく、それとの関係ではじめて「いま・ここ」がたまたま世界内の特定の時刻や場所であったり、そうでなかったりするような「いま・ここ」を示す「端的な」なのである。

では、あくまで「思考するもの」とは区別された「思考すること」とは何か。さしあたり言葉の上では両者は区別されている。だが、「思考すること」そのことそれ自体として考察することは本当にできるのか。この疑問をもっと簡潔に言い直せば、「思考すること」を「思考すること」はできるのか。それは結局のところ、何らかの「思考されたもの」を「思考すること」にしかならないのではないか。方法的懐疑の極点において究極の事態として名指された「思考すること」は、実はそれ自体としてはいかにしても「思考すること」ができないものだったのではないか。それは、主題として浮かび上がった「思考されたもの」の背後にあたかも「地」のように引くことによってのみ、自らを成就する事態なのではないか。「地」であるかぎりでのそれを見ようとしても、見て取られた時にはそれは「図になってしまっているのだから、この意味で「決して見えないもの」、それをデカルトは「決して像とならないもの」と呼んだのではなかったか。

2014年9月19日 (金)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(4)

2.狂気

次にデカルトが検討するのが、感覚を通じて接近されるそうした世界とは独立に、それ自体で存在していると考えられる「理念」の世界である。「理念」とは、知覚される個々の経験対象とは独立に、私たちがそれを思考するかぎりでそれ自体で存在しているとかんがえられる普遍的なものである。たとえば、「美しさ」は一個の理念である。私たちの現実世界には様々な美しい「もの」が存在している。このような多種多様な、無数の個々の「もの」が美しくありうるわけだが、「美しさ」そのものは一つである。もちろん「美しさ」にも、かたちの美しさ、色の美しさ…等々を考えることができるが、それでもそれらのかたちや色が「美しい」と言われるかぎりで、「美しさ」自体は一つである。また、現実世界に属するとされる個々の対象は時間の流れの中でいずれ失われてゆかざるをえないが、「美しさ」そのものは時間の流れの中で失われるものではない。かりに「美しさ」の内実が時間の流れと共に変化していったとしても、「美しさ」自体が変化したわけではない。そうでなければ、美しさの内実の変化について語ることすら不可能になってしまおう。この意味で理念は普遍的と呼ばれる。ここで普遍的とは、いつ・どこで・誰に対しても、まったく同じものとして通用するというほどの意味である。

こうした理念の典型として、数学的な対象の世界を考えることができる。1という「数」は「もの」ではない。1本の鉛筆や1枚の紙は「もの」としてこの現実世界に存在しているが、1という「数」自体はそのような「もの」として現実世界に存在してはいない。現実世界のどこを探しても、1という「数」そのものに出会うことはできないのである。それは、現実世界の中に存在する「もの」たちとまったく別の仕方で存在している。それは思考されるかぎりで存在しているのである。このように理念の典型としての数学的対象が現実世界の存在とは独立に、すなわち現実世界が存在しようがしまいが、あるいは現実世界の存在が疑わしかろうかどうであろうが、そのこととは無関係にそれ自体として存在している。感覚や知覚を通して接近しうると考えられる現実世界に関わる吟味を終えたデカルトが次に目を向けたのが、こうした理念の世界なのである。この命題の確からしさは、現実世界の存在よりも程度が高いと思われる。

だが、デカルトの答えは「否」。その理由は単純である。数学においても私たちは誤り得るからである。個々の感覚対象に関して私たちが見間違いを犯しうるのと同じように、個々の数学的問題に関して私たちが誤ることはいくらでもある。

だが、理性の水準器かけて測る限り、加法の計算法則自体に誤りはない。十分理性的に理解可能なもので、それにもかかわらず誤りがあるのか。

個々でデカルトが持ち出すのが「欺く神」ないし「悪しき霊」である。もしかしたら私たちの世界も、その中に存在する私たちも、そして私たちが持っていると考えられている理性も、すべては神が創ったのかもしれない。もちろん方法的懐疑のこの段階では神の存在は証明されていないが、そのことは決して神が存在しないことを意味してはいない。もしかしたら神が存在するかもしれない可能性は残ったままなのである。したがって、私たちの理性がひょっとしたらそのような神によって創られたかもしれないと想定する余地は十分にある。ところでその神が「欺く神」であって、私たちの理性をそもそも根本から誤るように仕立て上げたのだとしたら、どうか。計算法則はそもそも誤りであるのに、私たちにはそうとしか思われないように私たちの理性を仕組んだという可能性まったくないのか。デカルトは、ここでは私たちの理性が今般から誤っている可能性を問題としている、さきほどの夢とちがって、その状態から醒める可能性を根本から絶たれている、「狂気」としか言うほかない状態といえる。

もはやこのときには、「真理」に接近するあらゆる途は断たれているように見える。感覚も理性も今や信用してはならないのだとすれば、もはや私たちのもとには「本当らしく=真理らしく思われるもの」はあっても、「絶対に疑い得ない」ものは何ひとつ残っていないのではないか。すべては疑わしさの闇の中に没し去ろうとしているのではないか。方法的懐疑は今や夢の想定から狂気の想定へと一段階その疑いの勢位を高めて、すべてをその内に吞み込もうとしている。だがこのとき、デカルトは次のことに気付いたというのである。もし私たちの理性がそのように根本から欺かれ、来るってしまっているのだとすれば、少なくともそのようにして理性が欺かれた私は存在するのでなければならないはずではないか。そうだとすれば、「私はある、私は存在する」というこのことだけは、今や「絶対に疑いない」と言ってよいのではないか。

しばしば『省察』の中の「<私はある、私は存在する>」とその直前にある「私は何者かであると思考するであろうかぎりで」を結びつけて、「私は考える、ゆえに私は存在する」が方法的懐疑の果てにデカルトが辿り着いた最終的命題だといわれている。そして実際彼自身も、『方法序説』や『哲学原理』ではそのように述べている。しかしだれでもすぐ気付くように、「私は考える、ゆえに私は存在する」が一見すると「ゆえに」で繋がれた推論のように見えるのに対して、『省察』での表現はそのような推論の形をとっていない。そうではなくて、先の命題の「私は考える」の部分は、「私は何者かであると私が思考しうるであろうかぎりで」という限定の文章として、「私はある、私は存在する」を装飾・限定しているのである。『省察』に従う限り、方法的懐疑の果てにデカルトが到達した命題は「私は考える、ゆえに私は存在する」て゜はなく、先の限定をともなったかぎりでの「私はある、私は存在する」なのである。そのような目で「私はある、私は存在する」を眺めてみると、それは決してデカルトの最終到達地点を示してはいない。いや、正確に言いなおすと、この命題のもとにいったいどのような事態を理解すべきかは、いまだまったく明らかではないのだ。

 

2014年9月18日 (木)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(3)

第1章 「われ思う」のは誰か

1.夢

今あなたが目の前に一冊の書物を見ているとする。その書物の色やかたちや大きさや…が見て取れる。また、手を伸ばしてそれを持ち上げてみれば、その重さやカヴァーの手触りや…が感じ取られる。このときの色やかたちや重さ…が当の書物の「ありのままの姿」を示しているのであれば、あなたはその書物についての「真理」を所有している。

いったいどのような場合にそれは「ありのまま」であって「それ以外ではありえない」、すなわちそれであることが「絶対に疑いえない」と言ってよいかをめぐって、デカルトの探求と吟味が開始される。この探求と吟味は、「真理」の探究であるはずのあらゆる学問がいったいどこから自らの営みの正当性を汲み取ってきているのかを明らかにする試みにほかならず、しかも彼に言わせれば未だ誰も、いかなる学問も、このことを一度も明らかにしていないのだ。なるほど、世の中には「本当らしく見える=真理らしく見える」ものがあふれている。諸学問にしても、事情は同様である。だが、それらが単にそう「見える」だけでなく、実際にそう「である」ことを、誰がどこでどのようにして保証しているのかは決して明らかではない。それほど、これを明らかにすることは困難らしいのだ。さきにもふれたように、「真理」とは或ものの「ありのままの姿」であるとは本当か、「ありのまま」とはそもそもいかなる状態のことか、「ありのまま」であることそれが「絶対に疑いえない」ことは果たして同じか、こうしたことはこの時点でのデカルトにとってあらためて問うまでもない自明の前提をなしている。

「絶対に疑いえない」ものを求めてのデカルトの思考の歩みとの対話を交わすにあたって、ここでもうひとつだけ、あらかじめ考えておきたいことがある。彼は自らの人生を「よりよく」導くためには、それによって生を支えることのできるある確固とした地盤が必要だと考えていた。「岩盤」であり「粘土層」である。諸学問もまた、こうした確固とした地盤の上に建設されねばならない。思考がこのように何かを「建築」することに比せられる営みであるとすれば、そのためにはしっかりとした土台・地盤を確保する必要があろう。つまりデカルトにとって「学」がそのような建築物であることは、はじめから明らかなこと、自明なことだったのである。だが、そうした「建築術」としての学をデカルトが哲学のあるべき姿だと考えたとしたら、どうだろう。哲学とは、本当に「建築術」であるべきなのか。

デカルトはこの途を歩むにあたって、一つの遵守すべき規制を自分に与える。今や私が追求しているのは、どんな疑いを束ねてかかってもびくともしない磐石の土台たるべき「絶対に疑いえない」ものなのだから、逆にほんの僅かでも疑いの余地が残るものに対しては断固としてこれを「偽」とみなし、斥けなければならないというのである。もちろんこれは、少しでも疑いのない余地が残るものはすべて「偽である」と言っているのではない。何かを「偽である」と認定するためには、それに足る十分な根拠がなくてはならない。しかし、今自分が探し求め、吟味しようとしている「絶対に疑いえない」ものに関しては、少しでも疑わしい部分があれば、それは少なくとも「絶対に疑いえない」とは言えない。そこでそうしたものはさしあたり一挙に考慮の外に置くことができる。これが、「偽とみなして斥ける」という操作である。

単なる懐疑あるいは疑うためだけの疑いではなく、「絶対に疑いえない」ものを求めての疑いである限りで、それは「方法的懐疑」と呼ばれる。したがって、そこで偽とみなされたものは、そのことをもって全面的に偽であるわけではない。ここでは判断における「偽」の力がいわば弱められており、だからと言ってそれが「真」であるわけでは当然ないのだから、真・偽のいずれにも属さない次元が指し示されている可能性がある。

さて、方法的懐疑による最初の吟味の対象となるのは、感覚を通して与えられたものである。私たちは、自分たちが生きているこの世界の様々な対象に、五感と呼ばれる感覚器官を通して接している。このような感覚器官を通したものにおいて、見間違いや聞き違いも経験している。そうだとすれば、感覚を通して与えられたものは、そのままでは決して「絶対に疑いえない」ものではない。それらは「偽とみなして」斥けられねばならないのである。

しかし、そうした個々の錯覚を含みつつもそこで私たちの現実認識が行われている現実世界全体の存在が疑わしいとは誰も思ってないのではないか。そうであれば、次に吟味すべきは、個々の感覚の対象の存在ではなく、私たちが全感覚を挙げてそれに接触し、それどころかその中に自分たちもまた存在していると思っているこの現実世界の全体としての存在である。そこで、デカルト考える。この現実世界の全体としての存在それ自体が、一個の夢見られたものである可能性はないのか。夢の中の出来事は錯覚の一種として、現実世界とははっきり区別される。だが、いったい何が夢と現実を区別しているのだろうか。夢を見ていても、その夢の中に出てくるどれをとっても、それはそれで現に起こっていることのように思われる。そこで、夢と現実とを分かつ唯一の基準は「醒める」という体験を措いて他にはない。夢は醒めた後ではじめて、それと知れるのである。しかし、このことは重大な帰結を孕んでいる。もしそうであれば、この現実が現実であって決して夢でないと断言することは原理的に不可能となるからである。何かがありありと目の前で起こっていることは、決してそれが現実であることを保証しない。それもまた夢であって、それから醒めてしまう可能性を排除しないのである。したがって、私たちは、醒めたものに関してのみ、それを夢と断言する権利を持っているにすぎない。そしてそれ以外のものは、<いつ醒めるかもしれないし、醒めないかもしれない>という宙ぶらりんの状態にとどまらざるを得ない。つまり私たちが現実と呼んでいるものは、単に<今まで醒めたことがない>ということのみをもってそう呼ばれているにすぎず、その権利上いつ醒めてもおかしくはないのである。現実は、いつそれが夢となってもおかしくはないのだ。

このように考えてくると、いわゆる「夢中夢」の経験も納得がいく。夢の中には、夢を見ている最中に「これは夢だ」と思われるような夢も存在する。だがこれは決して、夢が夢見られている最中に、すでにそれが夢であることが知られているわけではないことに注意しなければならない。何かが現に目の前で生じている限りで、それはそのようなものでしかありえないのであって、それが夢の中の出来事であって現実に起こったことではないと知られるのはあくまで醒めた後のことである点は動かない。つまり、「夢中夢」は実は<「夢から醒めた」という夢を見ている>のであって、そのかぎりで醒めた方はすでに夢として知られているが、その醒めたという経験自体が夢であることがまだ知られていないのである。

夢から醒めたという経験自体が夢の中の出来事であることが知られるためには、もう一度醒めなければならないのだ。これは、夢と区別されて通常私たちが現実だと思っているものが、再びそこから醒めてしまって夢となる可能性はいつも保留しているのと、構造上まったく同じである。そして、再び醒めることによって出会った現実なるものが、またしても夢である可能性はいつでものこっているのだから、「夢中夢」の夢、「『夢中夢』の夢」の夢…現実は、その確固たる存在を失う。

もはや明らかであろう。個々の感覚を通して私たちに与えられるものが「疑いうる」ばかりではなく、私たち自身がその中に存在すると思われている現実世界の全体としての存在もまた「疑いうる」ものなのであり、方法的懐疑を前にしてそれは斥けられねばならないのである。ここにはいくつか注目すべき点がある。今や現実世界に属すると考えられているすべては「疑わしさ」を免れ得ないのだから、通常そうした現実世界に属すると考えられているすべては「疑わしさ」を免れえないのだから、通常そうした現実世界に属すると考えられている他人たちの存在もまた斥けられねばならないということがその第一である。だがそれだけではない。私たちは通常、私自身もまた現実世界の一員だと考えているはずである。そうだとすればここで、現実世界の一員と考えられている限りでの私自身の存在もまた今や「絶対に疑いえない」ものではなく、方法的懐疑を前にして斥けられねばならない。換言すれば、今後あらためて方法的懐疑の途上で「私」なるものが登場するとすれば、少なくともそれは現実世界に属する限りでの私ではないことになるのである。

もうひとつ、夢の懐疑をめぐって考えておきたいことがある。先に見たように、夢の夢の夢の…とどこまでも、現実と思われたものが再び夢へと転化する可能性がついてまわるとしても、だからといって「すべてが夢である」とは決していえないということである。そのことが言えるためにはどうしても、それらはすべてを自らとの対比の中で夢として画定させる「現実」なるものが、その手前に姿を現していなければならないからである。ところでこれまでの考察で明らかになったのは、どんな「現実」もそれが夢である可能性を排除できないということであった。とすれば、すべてを夢として確定させる「現実」なるものもまたありえない、ということに他ならない。この世のすべては、それが夢であるかもしれない可能性に開かれたまま、だが夢であるのでもないのである。

2014年9月17日 (水)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(2)

2.「よき生」のために

哲学がこのような仕方での絶えざる対話なのだとして、そうした哲学がデカルトにとってどのような意味を持っていたのか、彼をそのような対話に駆り立てたのは何だったのか、この対話を通して彼は何を目指していたのか。実際、彼ほど精力的に、自らの前におかれた「死んだもの」たちに、対話を試みた人も珍しい。そうした対話の果てに、ついに彼は自身が産み出した主題との粘り強い対話の内へと分け入ってゆくことになるのだ。『方法序説』は、そのような対話の数々を生き生きと伝えてくれている。

彼は、むさぼるようにして死者たちの亡骸と対話を重ねたが、そのような対話のいずれも、彼を真に満足させることはなかった。その結果、彼は「本当らしく見えるにすぎないものはいっさいほぼ偽ものときめこむ」しかないと考えるに至る。これこそ、後の「方法的懐疑」を導く準則にほかならない。その後の彼の歩み、何年にもわたって諸国を旅した後、ついに「私自身」という新たな書物の中に対話相手を求めて分け入っていくことで、固有のデカルト哲学の入り口に到達する。ここから前人未到の新たな旅が始まるのであり、この旅においてデカルトはひたすら自らの産み出した主題に、すなわち自らの骸との対話に沈潜していく。

この「私自身」という書物との対話に到達するまでの一連の対話を通して、いったい何を彼は学んだのだろうか。それは、すべてが「不確か」で「疑わしい」ことであった。彼は哲学の中に「何ひとつ論議の的にはならない、したがって疑わしくないものは見当たらない」ことに失望し、自らの対話に裏付けられた経験を通して「何ひとつうたがわしくないものはないこと」、すなわちすべてが「不確か」で「疑わしい」ままであることに驚いたのだ。この驚きが、次から次へと新たな対話を重ねるよう彼を衝き動かした。哲学は驚きに発する、とは古来の言である。つまり、すべてが「疑わしい」ことへの驚きが、彼をして彼固有の哲学へと押しやったのだ。このことを別の側面から眺めてみれば、デカルトは当初から何か「不確かなもの」、「絶対に疑いえない」ほどに堅固なものを求めていたということでもある。そうしたものが得られると期待して諸学に学んだにもかかわらず、いっこうにそうしたものに出会わないことが彼を驚かせたのだ。ではいったいなぜ、デカルトはそのように「確かなもの」を求めていたのだろうか。この問いに彼ははっきり答えている。それは「私の人生をよりよく導いてゆく」ため、なのである。「自分の行いを明らかに見通し、確信をもってこの人生をあるいてゆく」ためには、「どうしたら真なるものを偽なるものから見分けられるかを学び知る」ことがぜひとも必要であり、その「真なるもの」の真理たるゆえんがあの「絶対に疑いえない」という「確かさ」なのである。

彼のこうした考え方は、『方法序説』第三部に登場する「暫定道徳」の名で知られた提案にもよくあらわれている。自らの人生を導く絶対に確かなものが未だ見つからないとしても日々の生活は待ってくれない。否応なく日々の生活のその都度の場面で、私たちはどのように行為すべきかの決断を迫られる。そのような事態に対処するために、人生を導く絶対に確かなものが見出されるまでの間「暫定的に」、「仮に」でも私を導いてくれる指針が必要だと考えのである。例えば森の中で旅人が途を見失った場合、最悪の振舞は無定見にうろうろすることで、同じところをぐるぐる回って森から抜け出ることができず、状況は改善しえない。では、とりうる最善の方途とは、デカルトは、ある特定の方向を見定めて、後はわき目も振らずひたすらその方向を歩き続けることだという。ここでのデカルトの言い分から読み取れるのは、人生を導いてゆくに当たって、自分が納得できるしっかりした基準を彼が心底欲しているということである。必ずしもすべてが明らかになっていなくても、この場合であれば森の全体像は捉えられていなくても、それどころか歩むべき途すら見失われていても、「これだけは確かだ」といえるものを彼は絶えず追い求めていたし、現にその都度獲得してもいたのである。しかし彼の最終的な目標が、そのような暫定的なものでないことはいうまでもない。哲学者は、何が言葉の厳密な意味で「絶対に疑うことのできない」ものであるかを、すなわち何があらゆる疑いを撥ねつける究極の「真理」であるかを、明らかにしなければならない。それこそ彼が「極めて強い欲望」をもって探し求めていたものであり、それがために次々と、およそ可能な限りの対話を重ねもしたのである。

確認しよう。自らの人生とすべての学を支えるに足る何か「絶対に疑うことのできない」ものを発見すること、たとえすべてが疑わしいのだとしても、すべてが疑わしいというそのことだけは「確か」だと言いうる地点に到達すること、これこそがデカルトのすべての対話を駆り立てた原動力であり、そのような「絶対に疑い得ない」もののみが「真理」の名に値する。哲学とはこのような意味での真理の探究なのである。そしてこのような真理を求めて飽くことなく対話を積み重ねること、可能ならばそのような真理に支えられて自らの生を導くこと、それがよりよくいきること、すなわち「よき生」なのだ。かくして今や、次のように言ってよい。デカルト哲学の導きの糸は「真理」であり、かつそれに基づいた「よき生」なのである。

ここで二つのことに注目しておきたい。第一は、そのような「絶対に疑い得ない」ものが「真理」であるというそのことがデカルトにおいて「疑われた」形跡はない、ということである。哲学が追究すべき「真理」とは、あるいは現に追究している「真理」とは、いったいいかなるものなのか、すべてを根底から、徹底して疑ってみることこそ哲学を身をもって示したデカルトであってみれば、この問いをも彼は問うべきではなかったか。

第二に注目したいのは、そのような「真理」、つまりデカルトの生を絶対の確実性をもって支え・導いてくれるような「真理」を求め、それにしたがって生きることが「よりよい生」であるのはなぜか、という点である。自らの生を「絶対に疑い得ない」ものに支えられたて導いてゆくことが「よき生」であるというのは本当なのか。この点を彼があらためて問うた形跡もまた、ない。

2014年9月16日 (火)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(1)

序章 哲学とは何か

1.死んだものとの対話

本書で私が皆さんに示してみたいのは、デカルトと私が交わしたある対話の記録である。対話は、生きた人間同士の間で成り立つこともありはするが、その本質においてはむしろ死んだ者との間にこそ成り立つ。いや正確には死んだ者との間にしか成り立たない。どういうことかことは哲学の思考の本質に関わる。

対話とは、あなたと私の間で何事かをめぐって、何事かについて、交わされるはずである。対話とはある主題をめぐって、あなたと私の間で交わされる。つまり、主題のない対話はありない。これに対して主題はどうでもよくて、ただおしゃべりが続くことが肝心であるような対話もあるが、これは本質的に挨拶なのである。対話は必ず「何か」をめぐってのものであり、対話には必ず主題がある。これはすなわち対話の主役は今や主題のほうであって、私でもあなたでもない。そして主題とは、何らかの仕方で「たかち」あるものとして具体化されて、あなたと私の前に姿を現したもの以外ではないであろう。対話において主題を形成するものの媒体は、色や形や音響や味わいや手触りや…と様々なものでありうる。そして私とデカルト、あるいは読者であるあなたと私との間で交わされる対話の媒体は、言うまでもなく言語である。

もうひとつはっきりさせておきたいことがある。主題を構成する媒体が何であれ、主題はそれがひとたび構成されたときには、それを構成する者から原理的に切り離されたものだ、という点である。だからこそ話者であるあなたや私は、自分が間違ったことを言ってしまったことや、言いたいことがうまく表現されていないことに気づくことができるのである。自分の言ったことが主題として「かたち」を備えて目の前にあるから、すなわち自分自身と切り離されて自分の前に具体化されているから、それが自分の言いたいことであるか否かを判定できるのだ。いやそもそも私は、自分から切り離されて具体化され、「かたち」を備えて目の前にある主題を通してはじめて、自分が何を語ろうとしたのかを知るのである。それ以前にあるのは、主題を「かたち」づくることへ向けてのある漠とした衝動のごときものにすぎない。主題を「かたち」づくるこの働きが紛れもなく「生き生きと」活動するものであることと対比すれば、主題として「かたち」づくられたものの方は、その活動からその都度切り離されたものとして本質的に「死」を中核に宿している。主題の誕生と話者の死は表裏一体なのだ。しばしば私たちは対話の現場から遠ざかった後で、ようやくそこで何が語られていたかを理解し始めないだろうか。そして実は、私から切り離されることで主題として産み出された「かたち」を通してはじめて私は、自分がそのような「かたち」を産み出すそれ自身は「たかち」なきもの、すなわち「生」であることを知るのだ。主題を「かたち」づくる者の「死」が、主題の誕生なのだ。対話は主題なしには成り立たないのだから、それは話者の「死」をもってはじめてその準備を整えたのである。

だが以上はいまだ対話の半面でしかない。何らかのものとして死んだ主題は、それを再び、いやはじめてみずからの前に見て取る(聴き取る)生き生きとした働きの前に姿を現すことをもって対話の空間を開く。主題はいつもこのようにして「復活」するのである。「復活」によってすべては始まる。この主題を見て取る働きは当の主題の作者とは原理的に独立である。したがって、対話とは決して主題の作り手との対話ではない。対話はあくまでもその主題をめぐって、当の主題がいかに聴き取られ、いかにしてさらに展開されるべきかを基軸にして、主題とその受け手にして問いかけ手との間で進行して行くのだ。「方法序説」や「省察」も、ある作り手が産み出した主題とデカルトが交わした対話の記録に他ならないのだ。したがってこれから本書が皆さんに提示する対話も、私と、もはやこの世にいないデカルトが、ある主題を介して対話するのではない。あくまで対話は「死んだもの」である主題をめぐって、それとの間で進行するのである。

有意味な対話はすべて、その主題の作り手の生から切り離された「死せるもの」のもとでのみ成り立つ。通常私たちが「誰それ」との対話と呼んでいるものの内実は、実はこのようなものなのだ。「誰それ」とは、あくまで主題としておのれを「かたち」あるものへともたらしたかぎりのもの、すなわち「死んだもの=者」でしかない。対話とはすべて、死者の骸との対話なのだ。

このように言うと、それは対話と呼べるような代物ではない、骸を前にした単なる独り言にすぎない、という反論が聞こえてきそうである。だが、骸を前にした独り言が常に同時に、それ自身が死んで骸と化すことによって様々な受け手に別様に聴き取られる可能性に開かれること以外に、対話の、すなわち思考の存立の余地はない。何事かを思考するとは、まさに当の何事かをそのような「かたち」を備えた主題として構成し、そのようにして語りだされた「もの」、すなわち骸に耳を傾け、あらためてそれに問いかけること以外ではないからである。この意味で、思考は常に死を介した営みなのである。いったん「死」を迎え、ただちに聴き取られ、さらにその上文字として書き留められて私以外の他者たちに差し出された書物は、沈黙の内での独り言ですらすでに有していた対話の可能性を、はるかに多くの、無数といっていいほどの可能性へと増幅する。

デカルトほど哲学の本質がこのような対話であることを、みずからの哲学を通して明らかにしてくれた人も少ない。というのも、彼は徹底して思考がこうした対話に他ならないことを実践することで、ついにこうした思考の言葉が最終的にはいったいどこに向けて発せられるものなのかを示す地点にまで達したように思われるからである。このことを通してデカルトは、思考するとはいかなる営みなのかについて、ある光を投げかけてくれたのだ。

2014年9月15日 (月)

ジャズを聴く(15)~デクスター・ゴードン「アワ・マン・イン・パリ」

OUR MAN IN PARIS        1963年5月23日録音

Jazdex_pariScrapple From The Apple

Willow Weep For Me

Broadway

Stairway To The Stars

A Night In Tunisia

 

Dexter Gordon (ts)

Bud Powell (p)

Pierre Michelot (b)

Kenny Clark (ds)

 

ゴードンのファンにはお叱りを受けると思うが、彼の魅力は時代錯誤がうまく嵌ったというタイミングとブランドによるものだろうと思う。それが、もっともうまく現われたのが、このアルバムであると思う。ハード・バップに陰りが現われた1960年代前半のヨーロッパの地で、バド・パウエルを迎えての録音というストーリーは何がしかの期待や憶測が尾鰭のついた話を生み、伝説などという形容をする者があらわれる。(このアルバムの録音の経緯などの話はライナーノーツをはじめとして至る所で語られているので、ここではかないけれど)そこで演奏されているのは、紛れもないバップでバド・パウエルもがんばっているともなれば、演奏は実際以上にストーリーが味付けされ、それがさらに膨らんでいく。

ただし、これはゴードンが自覚的に自己演出してやったとか、そういうことではなく、結果として、ゴードンの録音を愛でる人々が、それらを聴くことで作っていった付加価値が膨らんだ結果であるともう。たぶん、ゴードンその人は、そういうこと自体を面白がるような性格の人だったのではないだろうか。(でなければ、映画に出て、パド・パウエルを彷彿とされる人物を演じたりはしないだろう)

で、私は、そういうゴードンに対して、だからといって批判がましいことをいうつもりは全くない。そういう付加価値を含めて、このアルバムを聴くのが楽しいからだ。実際のところ、当時のような環境で不安定な精神状態にいたはずのバド・パウエルをその気にさせて、これほどのプレイをさせるというのは、それだけでゴードンの実力と柔軟性、そして性格をものがたっている。

例えば、1曲目の「Scrapple From The Apple」以降、すべてスタンダード・ナンバーで占められ、ゴードンのプレイも、『One Flight Up』でのものとは違って、まるで型にはまったかのようなバップの定型的なような(私にはちょっと堅い印象がある)吹きぶりで、アドリブのフレーズも、わざとゴツゴツさせているように感じられる。これは、バド・パウエルがプレイしやすいようにと配慮しているのではないかと想像してしまう。その結果、遥かヨーロッパの地に、時代も10年前が冷凍保存されていたかのようなプレイが再現されている。その、バップ・テイストをファンはこよなく愛するのだろうと思う。その土ヨーロッパでも、“本場”のジャズということで食いつないでいたのが、次第にブランド化して、クラシック音楽のように定番化していった嚆矢と言えるのではないか、と思う。それだけに安心して聞くことができ、ときおりゴードンが挿入する引用(この曲では競馬の出走ファンファーレなど)に思わず頬を緩めるなどサービスも怠りがない。例えば、黒人の中産階層で一定以上の年齢になると、いつまでも若者向けのチャラチャラしたものを喜んで聴いているとバカにされる、年相応に落ち着いたものといっても、クラシック音楽は堅苦しくてというときに、ちょうどいいのが、このようなジャズということになりはしないだろうか。また、白人でも、ちょっとへそ曲がりのスノッブには格好の対象となったのではないか。そういうニッチなニーズに上手く応えているのが、結果的に時代に取り残されてしまったゴードンなどは典型だったのではないかと思う。ゴードンとしては、意図してわけではなく、それしかできなかったというのが正直なところではないか。そういうストーリーを想像し、そういうゴードンを嫌いではない。

今回は、申し訳ないがどのような音だったのか具体的なことは述べていない。ただこで、一つだけ、『One Flight Up』のケニー・ドリューと、このアルバムでのバド・パウエルの録音されたピアノの音を聴き比べてみてほしい。いかに、パウエルのピアノの音が太く、低く(ドスが利いていて)、打鍵が深いがはっきり分かると思う。そういう音で繰り広げられるプレイが、いかに力強く、聴く者に迫ってくるかも。

2014年9月14日 (日)

ジャズを聴く(14)~デクスター・ゴードン「ワン・フライト・アップ」

デクスター・ゴードンは、3度のカムバック等のハリウッド映画にもなりそうな、色鮮やかで波乱にとんだ人生を送った。ビ・バップの時代に現れた最高のテナー・サックス奏者で、特徴的な独自のサウンドの持ち主。ゴードンは時には諄くて他の曲からの引用が過ぎることもあったが、スケールの大きな優れた演奏を創造し、ジャムセッションでは誰とでも火花の散るような共演をすることができた。彼の最初の重要なギグは1940年~43年のライオネル・ハンプトンとのものだったが、サックスにはイリノイ・ジャケがいたためにゴードンはソロをとることができなかった。1943年にナット・キンク・コールのレコーディング・セッションで、彼は初めて伸び伸びと自由にプレイすることができた。リー・ヤング、フレッチャー・ヘンダーソン楽団、ルイ・アームストロングのビック・バンドとの短期間のプレイをこなし、1944年12月にニュー・ヨークに移り、ビリー・エクスタイン楽団の一員となった。エクスタインの「Blowin' the Blues Away」のレコーディングでジーン・アモンズと契約をした。ゴードンは1946年、ロサンゼルスに戻る前にサボイ・レーベルのために、リーダーとしてディジー・ガレスピーと共にレコーディングをした。彼はシーンのメインストリームの中心にいた。数多くの伝説的なテナー奏者とのバトルはワーデル・グレーやテディ・エドワーズとの契約に至り、チェーズやディアルのスタジオ・レコーディングは時代の雰囲気を残す助けとなった。

1952年以後、麻薬問題のために50年代を通じて、数回の短期間の囚役を含めて活動停止の状態が続いた(1955年の2枚のアルバムを録音しているが)。1960年にカムバックすると、すぐにブルー・ノートにレコーディングを行っている。人気が回復してきた1962年にヨーロッパに渡り、1972年までとどまった。ヨーロッパにいる間、彼は絶好調だったと言える。スティープルチェース・レーベルでの数多くの録音は彼のキャリアの中でも最も素晴らしいものだ。1965、69~70、72年と不定期にアメリカに戻りレコーディングしていたが、故国ではほとんど忘れられてしまっていた。それゆえ、1976年の彼の復帰がマスコミに大きく取り上げられたのは、大きな驚きだった。クラブで彼を見るための人々の長い行列は生きた伝説となった、彼に対する突然湧きあがった大きな関心を表わしている。ゴードンはコロンビアと契約し、80年代前半までに徐々に健康を害して活動を半減させてしまうまで高い人気を保っていた。彼の3回目のカムバックは、映画「Round Midnight」の主演に指名されたことによる。彼の演技はリアルで感動的だった。非常に充実した人生を送り亡くなる4年前にアカデミー賞にノミネートされた。彼のプレイは様々なレーベルでレコーディングされ、現在でも、その多くを聴くことができる。

 

One Flight Up    1964年6月2日録音

Jazdex_oneTanya

Coppin' The Heven

Dan That Dream

 

Bass – Butch Warren

Drums – Billy Higgins

Piano – Sonny Clark

Saxophone [Tenor] Dexter Gordon    

 

デクスター・ゴードンが渡欧中だった1964年に、現地に活躍の場を求めていた面々と録音したアルバム。全編にわたり、粘っこいリズムをうけて、思わせぶりなポーズが長尺でつづく、即物的なビ・バップからヨーロッパの地でノスタルジックな哀感をおもわせるハード・バップになっている。思うに、ゴードンをはじめとして、ここで録音に参加しているドナルド・バードもケニー・ドリューもアート・テイラーらがヨーロッパに渡ったのは、アメリカでは食べていけなくなったからで、1940年代から50年代に興隆したジャズは、次第に人気を他の音楽ジャンルに奪われていったという。黒人の音楽と言われながら、黒人の若者リスナーをリズム・アンド・ブルースに奪われ、エルヴィスやビートルズといったポップスの興隆の陰でジャズのミュージシャンは活動の場を失っていった。ジャズ・ミュージシャンの中には、ジャズ・ロックなどの試みやポップスのセッションに参加するなどして一種の変節によって食いつなぐ人もいたが、ゴードンのような不器用なミュージャンはそれもできなかった。一方、ヨーロッパではクラシック音楽の伝統からジャズを異文化のアートとして鑑賞する一定の層が存在していたようだ。そこでは、ポップスに迎合するのではなく、ジャズをハイエンドとして、その特徴であるアドリブのプレイを鑑賞する空気があったようだ。かといって、ヨーロッパの伝統的な音楽文化の中では、アメリカのような即物的な文化とは異質な、意味を求められ続けたのではないか想像できる。そういう環境のなかで、純正なモダン・ジャズを提示することを続けて、ヨーロッパナイズしていった結果として生まれた録音という想像ができる。それは、ビ・バップが徹底的に音を抽象化して、音の即物的な運動を追いかける楽しみというのではなくて、感情でも、気分でも、その何らかの内容を込めて、託して音楽を伝えるものに変質していった。この録音と、2年前に録音された「GO」を比べると、この作品の意味ありげなポーズが際立つのは、そのためではないか。しかし、このような要素が加わることで、後のジャズのリバイバルの際に、ゴードンの音楽にノスタルジックな要素を加わり人気を獲得した遠因になっているのではないか、と勝手な妄想をかきたてる作品ではある。

1曲目「Tanya」かつてのLPレコードであればA面をこれ1曲のみで埋めてしまう長尺の演奏。ピアノ・トリオの編成によりアグレッシヴに刻まれるちょっとしたブレイクの入る独特のリズムは、いつになく雄弁でいわくありげに聞こえる。ピアノが執拗に繰り返すリズム音形が耳について離れないほど印象的で、このフレーズのちょっとミステリアスでダークなムードが曲全体を支配して、聴き方によっては、このピアノのフレーズがメインで、その上でサックスやトランペットが展開するのは飾り程度に聞こえてくることもある。じっさい、最初に、サックスとトランペットのユニゾンで退廃的なテーマで入る前に、一度ピアノと3人でリズム音形をユニゾンで繰り返して、これから入ってくると、予告するようなところもある。そういう曲のあり方がゴードンのプレイのクセにうまく適合していると思う。それが、この演奏の成功の一番大きな要因ではないか。(もともと器用な人ではなく、歌いまわしと、ビ・バップから生き残ったというブランドからイメージされる味わいが、一方でクラシック音楽のように一種の骨董品としてハイソ趣味を嗜好するヨーロッパ人や日本人、そして高い階層の黒人をターゲットに晩年の成功に結びついた人だろうから。)ピアノのリズム音形をひとつの基準のようにして、いわゆる“後ノリ”によってそこからに微妙にズラしながらフレーズを乗せるのが際立つ効果をあげられている。クラシック音楽でいうテンポルバートでショパンの曲を演奏をするピアニストのような感じだ(ここで、アルフレッド・コルトーの名をあげたくなる)。しかも、ミステリアスでダークに雰囲気が、ゴードンの低く、野太いサックスの音色とうまくマッチしていて効果をさらに高めている。そのため、テーマからアドリブに移るときに、少し転調しているのが、とても印象的に映える。普段は、テーマから一本の流れのようにアドリブに続いていく人が、珍しく転換させているからなおさらなのだ。18分に及ぶこの演奏は全体として雰囲気に浸るもので、それこそがゴードンの特質に合っていると思う。

このアルバムには、他に2曲収録されていて、それぞれによい演奏だが、それらはあくまでも、この1曲目があるがゆえに存在しているようなものなので、そっちだけを取り出して(1曲目をさしおいて)聴きたいというほどものではない。

2014年9月13日 (土)

ジャズを聴く(13)~デクスター・ゴードン「ゴー」

デクスター・ゴードンのプレイの特徴は二つの面から指摘できると言われている。まず第一の面は楽器の音色とか演奏の仕方といった音の出し方の面で、デクスターのテナー・サックスは朗々と響き渡る伸びやかな音ということだ。教科書的な言い方をすれば、ビブラートや装飾音を多用したビ・バップ以前に流行していたスイング・スタイルの奏法から脱皮して、ゴードンはノン・ビブラートでテナー・サックス本来の飾り気のない力強い音をそのまま出すようした。これは、後のバップ・テナーたちに大きな影響を与えたと言われている。

そして、第二の面は、演奏の仕方、もっと絞ればアドリブ、すなわち原曲のメロディをどう破壊し再構築して独自の演奏内容を繰り広げるか、というところで、目立った特徴はレイド・バックすなわち、リズムに対する極端な後ノリと言われる。これ以上遅れるともたついてしまうという寸前のタイミングで出てくる彼の音は、聞き手をリラックスさせまた、一つ一つの音に重みとインパクトを与える効果をもたらす。

第一面での伸びやかで豊かに響き渡る音が、第二の面での"ため"を作ったうえで心地よいアドリブのメロディを奏でるからこそ、聴き手を飽きさせないのだと思う。したがって、デクスターのサックスが奏でる音を追い続けながら聴くと、わくわくして楽しい時間があっという間に過ぎていく。

そしてさらに、デクスターのプレイを引き立てている特徴的なこととして、ジャズのスタンダードのみならず、クラシックや流行のポップスまで、確信犯的な引用をプレイの随所で挿入することだ。それを絶妙なタイミングで挿入することによって自在に緩急を使い分け、聞き手にグルーブ感とリラクゼイションを与える。この点が彼のファンにとってはたまらない魅力ではないかと思う。 

 

Go    1962年8月27日録音

Jazdex_goCheese CakeI

Guess I'll Hang My Tears Out to Dry

Second Balcony Jump

Love for Sale

Where Are You?

Three O'Clock in the Morning

 

Bass – Butch Warren

Drums – Billy Higgins

Piano – Sonny Clark

Saxophone [Tenor] Dexter Gordon    

 

1962年にゴードンは渡欧するがこの録音は1962年8月に行われており、言うなれば渡欧直前の録音である。このアルバムを聴くと、このページの上のところで述べたゴードンの特徴がよく分かる。“たっぷりと息を吹き込んだ太い音色のサックスをゆうゆうと奏でる、ごっつく優しい大男”というようなイメージそのもので、野太い伸びのある音で、小細工を弄することなく楽器がよく鳴っている。しかし、その一方でひとつひとつの音には芯があって輪郭がはっきりしていて、切れがあるため、荒々しい感じはしない。だから、音自体は重い音なのに鈍重な感じはなくて躍動感を失わず、ゴードン独特の“後ノリ”が聴く人にそれと分かるように活きてくるのである。デクスター・ゴードンが好きだという人は、ゴードンの吹くサックスの音に魅力を感じるという人が多いのではないか。そして、“後ノリ”と評される歌い回しで、アフタービート気味に、もたついている感じさせないぎりぎりのところでフレーズが出てくる、微妙なズレの感覚が、ストレートに奏されるフレーズが滑らかに流れ過ぎないようにアクセントとなって、聴く者の注意を引くことになっている。それはまた、全体として悠然とした流れのようなプレイの中でメリハリを作っている。とくに、ゴードンのアドリブは細かい刻みの速いパッセージを交じえて変化をつけるようなことは行わず、ゆったりとしたフレーズを悠然と続ける傾向にある。そこでの“後ノリ”は、ある種の変化を与えることになり、好きな人には味わい深い印象を与える効果を及ぼしている。

1曲目の「Cheese Cake」ベースの低音からはじまって、シンバルが被さるようにリズムを刻んでいく重い導入に、あっさりした感じの問いかけるような短いテーマのサックスが入ってくると、ピアノが応答するかのような対旋律を返すやりとりが繰り返され、アドリブに入っても、基本的にテンポや全体の雰囲気が変わることがない。多くのプレイヤーは、重い導入でミディアム・テンポのテーマから、アドリブパートに入ると速いパッセージを入れて鮮やかな場面転換による変化をいれようとする。例えば、ソニー・ロリンズの『サクソフォン・コロッサス』の第一曲目「セント・トーマス」のアドリブの入ったところの急激な変化などが典型例だ。これに対して、ゴードンは8分音符を中心にした大らかなフレーズで悠然とプローしていく。しかも、ゴードンのアドリブは一つの流れのように異なる要素を挿入させて、音が上下に跳躍したり、遠く転調させるようなことはせず、まるで大河の滔々たる流れのように大きく形を変えないフレーズを続ける。聴く人によってはスリルに欠けるといわれるかもしれないが、それで単調にならないのは、サックスの鳴りのよさとゴードン独特の歌い回しによるのだろう。それによって、ちょっとダークで、どっしりした重量感、そして、そこはかとない哀愁をファンは感じ取る。

2曲目の「I Guess I'll Hang My Tears Out to Dry」は、打って変わってスローバラードになるが、センチメンタルになりすぎるように嫋々と旋律を歌うこともなく、一見、単にテンポを落としただけで淡々とフレーズを吹いて、それを最後まで続けてしまう、いってみれば力技をやってのけてしまう。これも比較で、またまた持ち出してしまうがソニー・ロリンズなどでは、たしかに甘さを極力控えめにするところは相通じるところがあるけれど、最後近くになって、その淡々としたプレイで溜めたものを一気に吐き出すかのように感情を込めて劇的な盛り上がりを作る。しかし、ゴードンはしないのだ。

4曲目は「Love for Sale」というスタンダード・ナンバー。有名な曲らしく、サックスで最初に提示されたテーマはよく知られているとのこと。『サクソフォン・コロッサス』の第一曲目「セント・トーマス」にちょっと似ているようにも思える。ジャズ・ボッサと4ビートのどっしりとした躍動感に漲るリズムセクションに乗って、リズミカルではあるのだけれど、重量感溢れるプレイで。決して疾走することなく、じっくりと、たんたんとフレーズを紡ぐように聴かせてしまう。

6曲目の「Three O'Clock in the Morning」はアルバムの最後を飾るには軽妙な曲でまるで肩透かしのような洒落っ気が何とも言えない。

2014年9月12日 (金)

ジャズを聴く(12)~リー・コニッツ「リー・コニッツ・ウィズ・ウォーン・マーシュ」

50年代においてチャーリー・パーカーの後を追わなかった数少ないアルト・サックス奏者の中でも傑出した一人。クールと呼ばれるスタイルに分類されていたが、常に多方面に興味を拡げていた故に、様々なことを試み一貫して音楽の幅を拡げ自身の音楽性を高めていった。早い頃から音楽に親しみ、当初はクラリネットを習っていたが、アルト・サックスに転向し、1947年、クラウド・ソーンヒル楽団のソリストとして注目された。そして、レニー・トリスターノとの出会うことで、即興演奏に対する考え方やそれへのアプローチについて大きな影響を受けることになった。そして、1948~50年、マイルス・デイビスの“クールの誕生”の一員として実演に加わり、キャピタル・レコードでの録音に参加した。また、1948年、トリスターノのセクステットで史上初の完全な即興演奏を2曲録音した。コニッツのアルト・サックスは同じトリスターノ門下のウォーン・マーシュのテナー・サックスと同質性が高く、二人が共演すると2本のサックスがまるで1本のように聞こえた(その奇跡のような共演に聴衆は「ワォ!」と驚嘆の声を上げるのが常だった)。コニッツとマーシュ、そしてトリスターノは、その後も何度も共演している。しかし、マーシュがトリスターノに教えに忠実な即興を追求したのとは対照的に、コニッツは次第にトリスターノの影響から徐々に脱し独自の道を切り開いていった。1951年にヨーロッパに渡り、スカジナビアを中心にプレイした。60年代前半にはほとんど引退同然となったが、数年後カムバックし、コンスタントに第一線での活動を続けている。

 

Lee Konitz With Wame Marsh   1955年6月14日録音

Jazleeknitz_marTopsy

There Will Never Be Another You

I Can't Get Started

Donna Lee

Two Not One

Don't Squawk

Ronnie's Line

Background Music

 

Billy Bauer(Guitar)

Kenny Clarke(Drums)

Lee Konitz(Sax (Alto))

Lee Konitz(Sax (Soprano))

Oscar Pettiford(Bass)

Ronnie Ball(Piano)

Sal Mosca(Piano)

Warne Marsh(Sax (Tenor))

 

リー・コニッツのディスコグラフィーを見渡してみると、リーダー・アルバムの殆どがワン・ホーンの編成で、他のセッションへの参加にしても、レニー・トリスターノやマイルス・デイビスのグループへの参加がある程度なのに気づく。では、コニッツという人が他人と合わせるのを好まない人なのかというと、どうやらそうではないのではないか、ということがこのアルバムを聴くと分かる。コニッツがトランペットや他のサックス奏者とセッションを組まないのは、というよりは組めないのではないか。コニッツのプレイがユニークなので、他のホーン奏者は一緒にやりにくい、というのが正直なところではないのだろうか。マイルス・デイビスのような人はむしろ例外的な人なのではないか。ここで共演している、ウォーン・マーシュは、コニッツがトリスターノの下で一緒に学んだ同僚のような人だという。このアルバムでの演奏を聴くと、コニッツというプレイヤーは聴く人なのだということがよく分る。コニッツとマーシュという2人のサックスの絡みが何とも見事で、時には精緻なユニゾン、時には交叉する2本のメロディーラインを自在に織り込んでいく様は、分野は違うけれどクラシックのモーツァルトのヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲K354第2楽章のヴァイオリンとヴィオラの絡みを想わせる。2人のプレイの親密さは、まるでスコアがあるかのようなのだ。これは、コニッツという人が相手のプレイを能く聴く人であるということの証拠だ。だから、コニッツは本来的にアンサンブルへの志向性が強かったのではないか。そういうコニッツがずっとワン・ホーンの録音をしていたというのは、本人にとってもかなり緊張感を要するものだったのではないか。彼のアルバムにあるテンションの高さの要因の一つに、そういうものがあったのでは、という想像を禁じ得ない。同時期の人で、同じように即興的なプレイをした人で、アート・ペッパーがいる。ペッパーもどちらかというとワン・ホーンの編成が多かった人だ。コニッツとペッパーを比べてみると、ペッパーのプレイは天才的とでもいうのか、後から後からフレーズが無尽蔵に湧き上がってくるという感じで、出てくるフレーズがビシバシとキマッている。これに対して、コニッツのフレーズはうねうねと手さぐりであっちかこっちが迷いながら匍匐前進している感じだ。コニッツはペッパーに比べて、自分の音を聴いて確認しながら次の音を探っている感じなのだ。そこでの聴くという要素はペッパーよりずっと強い。そういうコニッツにとって、ペッパーに比べれば、フレーズを独りでつむぐというのは作業量の大きいものだったのではないか。そこでの、コニッツにとって他人のプレイを聴くということは本質的な資質だったのではと思うのだ。それは、アンサンブルのこのアルバムでのコニッツのリラックスしたプレイが図らずも証拠と見ていいのではないかと思う。

最初の「Topsy」での2人の織りなす推進力、「I Can't Get Started」での2人一緒のソロは互いにうねうねして屈折し合って同じように聞こえ区別がつかない。「Donna Lee」や「Two Not One」での2人の即興的なプレイは、いつもの分解的なうねうねなのだが、2本の線が絡むと、そこにメロディックな聴こえ方がしてくる。リラックスしたプレイの中で、それらを聴くと、仄かな情緒的な響きが聞こえてくるような気もする。

2014年9月10日 (水)

ジャン・フォートリオ展(7)

第3章 第二次世界大戦後(1945~1964年)~晩年

Fautrierveg最後の展示のところにきました。正直なところ、この展示に辿り着いたときには閉館時間が迫ってきて、また、ずっと立ちっぱなしであったことから、少しく疲労感を持ち始めたこともあって、気力が萎え始めていました。しかし、作品自体は魅力的なのは感じられたので、勿体なかったというのが実感です。もっと、じっくりと見たかった。

それは、晩年の作品に至って、これまで見てきた作品と明白な違いが生まれていて、それが目立っていたように見えたからです。その違いとは3点ありました。それは、ひとつは、作品のサイズ大きくなったこと、ふたつめは、作品画面上で色彩の鮮やかさが目立つようになったこと、そして三つ目は、それまで具体的な物を特定して描いていたことがなくなったことです。おそらく、ひとつめとふたつめはみっつめのことから派生したことであるように思えます。「アンフォルメル」とか言われて、一見では具象画とは思えない作品になっていましたが、フォートリエの作品は対象の外形を写実するのではなくて、対象物の存在を画面に表わそうとしていた、というのが、私のフォートリエの作品に対して持っていたイメージでした。だから、一見抽象画とに思われるとしても、それは作者の理念とか内心とか幻想とか、あるいは絵画の表現要素を抽出拡大したような抽象画とは、ひとあじ違うものという捉え方をしていました。

しかし、ここにきてフォートリエの作品は、その対象と離れてしまったようなのです。それゆえなのでしょうか、以前作品では、それ程感じられなかった色彩の美しさなどの要素が、ここで見る作品では、突然のように感じられるようになっていました。ぱっと見ただけでは、おなじような作品なのですが、これ以前の作品とは、全く異質の作品であるかのように、私には見えました。私の見方が間違っていたのか、何か見落としていたのか。晩年になってフォートリエが絵画に対する姿勢を改めたのか、多分前者が原因なのでしょう。

Fautrierblue_2「黒の青」という作品を見てみましょう。薄く彩色された紙の地に白を主体とした絵の具が分厚く塗り重ねられ、その盛り上がった表面に、黒や青その他の色で薄く彩色され、その上に線あるいは溝のような傷がつけられ、その部分は表面の下の白い絵具が現われている。作品タイトルも何を描いたのか示されていません。これは、例えば、今までの技法で即興的に作品を制作しているうちに、画家が美を発見したというような技法のひとり歩き、あるいは即興性による結果として作品ができたというものなのでしょうか。多分そういうことはないと思います。それは、例えば中央の絵の具を厚く塗り重ねるということについて、表面的で即興的な美を求めるというのであれば、そんな面倒くさいことはする必要がないはずです。たしかに、絵の具が厚く層をなしていることで量感を感じさせることができるということはあります。しかし、単に表面を盛り上げて量感を表わすだけでかれば、他にもっと楽な方法があるはずです。そこをあえて、何度も何度も繰り返し、絵の具を塗っては乾かすことを行い労力をかけたのは、そこに、フォートリエがそこに絵の具を塗るという描く行為を繰り返さなければならない何かがあったのではないか、と思い始めました。描いては、また、その上から新たにその上に描くということ。それは、眼に見える表面の下に、描かれてはいるけれど鑑賞者の見ることの出来ない描かれたなにかがあるということです。その一部は、表面に傷をつけ削ることで下の層が部分的にあらわれてかいま見ることができます。いままで、厚塗りを、私は量感の表現としてしか見てきませんでしたが、そういう隠されたものがあるということ、いわば重層性ということがあることが、これらの作品にいたってはじめて認識できました。そのことに関してなにがしかの解釈を施すことは可能ですが、むしろ私はそこに現われた、私にとって新しい、隠されていた面を発見させられた。そのことによって、作品の見方を改めさせられるという奥深さを、いまは堪能したいと思います。

「存在」ということは、西洋がこの世に文化として現われて2000年以上ずっと探究されてきたものの、いまだに解明されていないなぞであり、20世紀の有名な哲学者も、存在の神秘に対してその奇跡に驚くことしかできない、ということを言っているのですから。

2014年9月 9日 (火)

ジャン・フォートリオ展(6)

第3章 第二次世界大戦後(1945~1964年)

Fautriervide多分フォートリエは「人質」の画家ということで、ひとつのレッテルを貼られてしまうことになったかもしれません。それは、ある面ではパッションの画家とか、社会性を持たせた作風とか、トピカルな流行にのったレッテルといえるでしょう。事実、どうだったのかは分かりませんが、作品の展示を見る限りでは、「人質」は、とくにフォートリエの頂点とか記念碑的な作品というものには見えず、フォートリエという画家は、一貫したポリシーを貫いて、そのポリシーにしたがって方法を成長させ作品をコンスタントに制作していった、という印象の強い画家です。突出した代表作によって印象付けられるというタイプではなく、平均点の高い作品が各時期に万遍なく散りばめられているというタイプのように見えます。「人質」もそのひとつで、この作品群だけをとくに取り上げて、フォートリエという画家を代表させるには無理があると思います。

そして、フォートリエには、もうひとつ大きなレッテルが貼られることになります。「アンフォルメル」というレッテルです。アンフォルメルとは不定形という意味らしいのですが、絵の具をキャンバスに激しく盛り上げるように厚塗りし、その素材感や質感を重視するうちに、描く形は何ものかを写すものから次第に形を失い抽象画と見紛うばかりになっていったので「抒情的抽象」とも言われ、幾何学的でクールな抽象画とは区別しされたという、画家たちです。フォートリエの作品も、たしかに通じているところはあると思います。

フォートリエ自身としては、どうであったのかは分かりませんし、私には、どうでもいいことなのですが、ここで展示されている「オブジェ」と呼ばれる一連のシリーズを見ると、抽象画を意図して描くとか、素材感を重視するとは、肌合いがことなるのではいか、と思えます。ここで描かれているのは、コーヒー挽きや籠やグラスなどの日用品や果物といった現実生活にごく身近なものたちです。

「空のグラス」という作品を見てみましょう。グラスという題材について、こじつけですが。ボーヴォワールの回想にある有名なエビソードを想い起させるのです。サンジェルマン・ドュ・プレのカフェでドイツに留学して現象学を学んできたサルトルに対して、友人のアランが「現象学を勉強してきたというのであれば、このグラスがここにあることを説明してみなさい」と言って、テーブルに置かれたコップを示して、サルトルを挑発し、サルトルはそれをたいそう喜んだという逸話です。これは、哲学での存在論が抽象的に存在とは何かという議論をしているが、眼の前に在るグラスそのものを説明できないじゃないかという揶揄をふくんだもので、サルトルはまさにそのことを追求しようとしていたからでした。ちょっと脱線しますが、抽象的に存在を問うということはグラスのような「もの」だけでなく、人に対してもそのように見るということです。そうであれば、私やあなたという個人が存在するのではなく人という一般が存在することになってしまう。まずは、私とかあなたという個々の人が存在すること(これをサルトルは実存と呼びました)から始めるべきではないのか。それをサルトルは「実存は本質に先立つ」というテーゼに預託しました。だから、アランの挑発は、まさにサルトルがやろうとしたことを先取りしていたことになります。

「空のグラス」について、上述のエピソードはこじつけで、フォートリエはこんなことを知っていたのか、興味があったとは思えません。しかし、フォートリエが次のような発言をしているのを聞くと、グラスが現実に在るということを、フォートリエが中心に置いていることが分かります。“セザンヌのコップがあり、シャルダンのコップがあり、コップそのものは存在しないのだ、という言い方がある。そのような言い方はちょっとした知的な体操であって、実際のところコップはいずれの場合も存在しているのだ。そして、もしコップが実際に存在しないのであれば、コップについてのこうした見方さえ存在しないはずである。そのうえ、この現実を投げ出すことは、いったい何に役立つというのか。芸術に関しては、現実に由来する全てのものは、現実を体系的に否定するというよりはむしろ、より想像的で魔術的であるように思われる。絶対的アンフォルメルの非現実性は、何ももたらしはしない。それは無償の戯れなのだ。いかなる芸術の形式も、それに現実の一部分が混ざり合うことがないのなら、感動を与えることはできない。”

何か、作品から離れて言葉を弄んでしまっているようです。紙に塗料を厚塗りして、その地塗りの中央に盛り上がった分厚い物質感を強調するような面に濃い青の絵具で薄く彩色され、その彩色面を引っ掻いたのだろうか地の白いがむき出した線でグラスの形が引かれている。すると、物質感とか存在感は強調されているのに、描かれた対象であるコップは軽やかで希薄な印象になっています。それは、上述の画家の言葉にあるような現実にあるということを何とかして画面に定着させようとしたものと、私には見ることができます。しかし、存在しているのはグラスであり、グラスが存在していることです。これは、まさにサルトルが感心した眼の前のグラスがあることを説明することに他なりません。かといって、グラスを正確に写しても、それはグラスの外形であり画家が見たもので、それでは画家のグラスとして単に画面に写されたものでしかありません。そこで、在るのはグラスであるという順番でフォートリエは描こうとした、と私には思えます。それが、この作品に現われたような厚塗りの物質感とグラスの形態を映す部分にして物質感を強調する。物質感だけにしてしまうと抽象的な存在論に陥ってしまうから、グラスであることを軽やかに描き込んだ。この微妙なバランス感覚というのでしょうか。

結果として、グラスであることはまるで浮遊しているような軽快さと透明感をもたらしているように思います。そしても彩色された黒に近い青が透明に見えるということです。結果として、とても美しい絵になっています。

2014年9月 8日 (月)

ジャン・フォートリオ展(5)

第2章 厚塗りから「人質」へ(1938~1945年)~「人質」

Fautrierotage3フォートリエの代表作だそうです。1945年にドイツ軍がパリから撤退した後で発表され、高い評価を受けたということです。アンドレ・マルローによる「苦痛の象形文字」とか、ジャン・ポーランによる「怒りや決意であると同時に、形而上学的で宗教的な感情」などと評されたということです。たぶん、それがフォートリエの評価を決定づけることになったと思われるのですが、それに沿った説明が為されていたので、ちょっと長いですが引用しましょう。

“40余点の「人質」連作では、片方あるいは両方の眼が、鼻が、口の一部が、さらには顔の半分が欠けた、傷ついた頭部が公然と晒されている。戦争の悲劇的な苦痛のなかで、顔によって象徴化された人間は匿名の存在となっている。フォートリエはこの殺戮を、傷つき、手足が切断され、体躯も崩れ、人型にもなっていない肉塊を通して表現した。この人間の顔には、悲劇性を強め、それをはっきりと示す造形的な要素しか残されていない。「人質」は連作となっており、その相貌はもはやいかなる特異性ももちえていない。とはいえ顔はそこにしっかりとあり、素材のなかへと完全に埋没しているわけではない。侮辱され、犠牲となり、焼き捨てられたこれらの顔は、処刑の暴力と、死骸となる彼らの運命とを証言するいくつかの特徴を残すのみである。絵画の素材の扱いによってのみ、それぞれの頭部を区別することができる。厚みや、曲線や円状の輪郭、そしてより大きな素材の堆積であり、それらが鼻、眼、あるいは眉をかたちづくっている。頭部は現前と消滅のあわいにある。鑑賞者の視線はすばやくいくつかの特徴を捉える。それを手がかりに顔を再構築することができる。けれども鑑賞者は、受刑者の顔がそれぞれを区別するための特徴を欠いている、あるいはそうした特徴が存在しないということに気づくことになる。展示されている「人質」の頭部はほとんど実寸で、ひとつの顔と向かい合っているような印象を与える。「人質の頭部」というこの特異なタイトルをもつのは33点で、それらは数字でしか区別されないため匿名性が高く、つねにひとつの連作へと回収され続けるのである。”

このような長い引用をしたのは(それにしても、今回は引用が多すぎるようです)、フォートリエの作品に対するひとつの切り口として提示するためです。このような作品に対しては、様々な見方があるのが当然で、私がここで述べているのは、それらの一つでしかありません。しかも、おそらく、ここで引用したような見方がスタンダードとは言い切れないけれど。メジャーに見方となっているのだろうということに対して、私の場合、どちらかというもっと個人的であることを明らかにするためです。では、私の個人的な見方とはどのようなものか。

Fautrierotage1まず、大雑把な言い方をすれば、「人質」の連作は、これまで見てきた厚塗りによる作品の一連の流れの作品であるということです。この「人質」の連作を突出したものとして見るという視点は、私にはありません。それほど大きな違いはあるのか、ということです。引用した説明にある、ものがたりの創作は私には、フォートリエと同時代を経験したとか惨劇(引用の説明で言っている悲劇は明らかに誤用です。そうでなければ演劇というものを知らないということです。)を目の当たりにしたとかいうことはなく、「人質」の頭部を見て戦争の殺戮とかそういうものを想像することはありません。ただ、作品タイトルが「人質」とされていることから、あるいは説明されているフォートリエの伝記的なものがたり、そのような物語を喚起することは否定できません。しかし、私には、そのように見られることはフォートリエの作品の在り方に反するものではないか、と思えるのです。ただし、これはあくまで私の個人的な見方によることなので、それがフォートリエが意図したことだとか、そういうものだと誤解されないように願います。さて、私が、これまで見てきたフォートリエの作品の特徴というのは、「本質」よりも「存在」を認識し、見る者に認識させようとする点にあると考えてきました。それゆえに、ものや人が、そのように見える「形相」や「色彩」といった本質をあえて切り捨て、それが在るということを画面に定着させるために、形にならない、色にならないものを描こうとしてきたと言えます。そのときに、例えば人質としての悲惨な情況は、その人質が人質としてみえる「本質」に属することです。それは、これまでフォートリエの作品では切り捨てようとしてきたことではないか、と私には思えるのです。それは、もしかしたら後退なのか、方向転換なのか、と観念的に考えればそうなのです。しかし、実際に作品をみてみれば、人質としての、それらしい「形相」も「色」もなく、具体的にそういうことを想起させる要素は何もありません。そうであれば、見る人が勝手に想像して、勝手に思い入れできる、ある面では懐の広さのようなものが加わったのかもしれません。それは、画面に楕円や矩形で厚塗りされた白系統の絵の具が人の頭を想わせるようにパターン化され、それに装飾的な手を加えるというバリエーションを加えるという様式が。見る者にとって入り込み易いものとなっているからではないか、と私には思えます。だから、私には、「人質」の連作がそれまでの厚塗りの作品と違って、彼の代表作として高い評価をうけたのは、それまで手探りの試行錯誤していて方法は固まってきたところだったところに、楕円や矩形の厚塗りのパターンを打ち出して、これがフォートリエだという一種のブランド化に成功した作品だったからではないか、と思えるのです。

Fautrierotage2だから、この後のフォートリエの芸術的営為とは、このブラントをベースにマンネリを避けながらいかに発展させていくかになったのではないか、と私には思えます。「人質」の連作は、その画期となった作品ではなかったか、と私には思えます。

2014年9月 7日 (日)

ジャン・フォートリオ展(4)

Fautriernature第2章 厚塗りから「人質」へ(1938~1945年)~厚塗り

『飾り皿の梨』あるいは『梨と葡萄のある静物』という作品。画像で見る限りでは、以前の「黒の時代」の黒を主調とした作品の一環のように見えます。これら1938年頃の作品は、キャンバスに描くのではなく、紙に描いたものです。それはあらかじめ複数の画材で地塗り塗料を施した紙を、木枠に張ったキャンバスに貼り付ける、という面倒な作業によるものでした。

少しばかりの脱線を、お許しください。今回は、一つ一つの作品の印象についてあまり述べることがなく、作品を見て考えたことを書き連ねているようになってしまっています。これも、フォートリエの作品が、それを見たものに喚起させる特徴というようなことで、間接的な作品の感想と思っていただければ、ありがたいのですが。さて、黒の時代から徐々に写実的な傾向から離れていくフォートリエについて、前回は私なりの印象を述べましたが、それはあくまでも、ひとつの方向からの見方で、それ以外にも様々な見方があるのは、ご承知のことと思います。例えば“フォートリエが描く主題は、それが飲み込もうとするかのような暗い地に沈みつつ、かろうじてそこから現われている。それはときに主題を守るかのように明るい輝きの中でとぐろを巻いており、またときにはそうした地に抗うために発光さえしているかのような、色のついたまばゆい輝きを放っている”というような夢想的であったり、色彩面に着目したりした見方があります。また、当時の展覧会を見た記者の評に“暗くてバティックな芸術”というのもあったそうです。つまるところ、フォートリエの作品は様々な議論を引き起こす、多様性があるだと思います。その中で、フォートリエをアンフォルメルという運動の中核に位置づける人々もいるようですが、そういう人々には、フォートリエが1928年から29年にかけてコート・ダジュール地方のイエール諸島にあるポール・クロに滞在して、描かれたものは重要なものとされているということです。フォートリエは、そこでグワッシュや厚紙にパステルで小さなデッサンを描くうちに、それが何か分かるような形象を失うという体験をしたといいます。それがアンフォルメルの最初ということになるということです。このとき、デッサンは単に作品の下書きにとどまらなくなっていきます。デッサンは作品のために予備的に線を引くという作業から、それ自体がイメージを喚起する生命力を持ったものとなり、そこに直接彩色を施し、さらに線が付け足されということが繰り返され、デッサンそのものが絵画になっていった、というわけです。

Fautrierappleさて、脱線から戻りましょう、フォートリエはデッサンをすることでイメージを喚起され、紙やグワッシュへのデッサンは彩色され、それがさらにイメージを喚起し、さらなるデッサンが加えられそこに再び彩色が、という作業の末に作品として出来上がってしまった、というのが、ここに展示されている『飾り皿の梨』であり『梨と葡萄のある静物』です。そこで、感じられるのは一種の手触りのようなものです。キャンバスと紙の材質の違いによる印象の違いということもあるかもしれませんが、もっと直接目に見えるものとして言葉にしにくいものです。画家の手触りが、よりダイレクトに伝わってくるような感じと言ったらいいかもしれません。それは、いままで下書きとして正式の作品の影に隠れてしまうものが、そのまま作品に成長して結実したということで、作品のスタートからゴールまでが見る者の前に全て提示されているということです。そこに画家の失敗も試行もすべてがプロセスをへて全て提示されているということになるわけです。つまりは、作品として完成した画面、完成時の時間の静止した画面ではなく、デッサンのときから見る者に提示されるまでのプロセス(時の経過)をなかに含み込んだ長い時間の流れも、そこに見ることの出来る画面となっていることです。そこに画家の息吹に直接的に触れることも出来るようになってきているのでは、と思わせるところがあると思います。

フォートリエの作品は、「本質」よりも「存在」を重視したものではないか、というのが私が感じた点です。そのことをさらに突き詰めて行くと、「存在」とはどういうことか、という議論に行き着くと思います。例えば、私が、いま、ここに、存在している、ということは、どういうことか。まるで哲学みたいです。あまり深刻に考えすぎると袋小路にはまってしまうので、簡単にのべます。「存在」というのは結果ではなくて、まさに、いま、ここに、いるということではないか、ということです。もっと簡単にいえば、結果としてこういう状態になったという静止状態ではなくて、いま、まさに存在しているという動作として考えられるということです。そうであれば時間が止まった静止状態としての完成としての作品では「存在」を十分に表わすことはできないのではないか。そうしたら、その時の、いま、を表わすことを考えることになります。具体的に一つの例として、制作という行為をしていて、その行為の一点を、そのときの、いま、の一瞬として提示するということができると思います。その具体例として、紙へのデッサンから始めたものを、そのまま、ある一瞬の時に瞬間冷凍するように、その、いま、も含めてキャンバスに貼り付け、提示した。そんなように私は受け取りました。もしかしたら、机上の空論、作品そのものから遊離した観念論かもしれません。

Fautrierapple2『林檎』あるいは『醸造用の林檎』という作品。「厚塗り」ということが為されています。画面を見れば分かると思いますが、絵の具か何かが分厚く塗られて、波打つように見えます。これは、上述の作品の発展形という見ることができるのではないか、と思います。つまり、デッサンに彩色を加えるプロセスでイメージを膨らませていくということに、厚塗りという段階が加わり、よりイメージ喚起が強まったということではないでしょうか。しかし、その一方、描かれる形象は、さらに曖昧に茫洋としたものになっていくことになりました。そのかわり、厚塗りしたものが物として画面に存在するということが目立つことになりました。

2014年9月 6日 (土)

ジャン・フォートリオ展(3)

第1章 レアリスムから厚塗りへ(1922~1938年)~黒の時代

Fautriermaerafu年代で言うと、1925年から26年にかけて制作された作品を見ているとフォートリオの作風に断絶のような大きな変化があったのが分かります。『前を向いて立つ裸婦』という1927年の作品を見てみましょう。それまではキッチリと描かれていた顔の造作や表情はぼんやりとしていて、かろうじて頭と分かる程度、全体にそのような描かれ方で裸体の女性が腰に手を当てて立っています。その女性がいるのがどのような場所なのかを示すようなものが何も描かれていないで、ただ暗い背景と女性の周囲を隈取るように逆光の明るみが囲んでいます。このように女性の立っている空間は現実感を欠いて、画面上で設えられた扁平なものでしかなく、平坦な画面にぼんやりとした量塊をもった人間の存在そのものを抜き出して表わしているように見えます。これについて、解説の説明を以下に引用します。

“フォートリエの眼は、前年の1925年の作と比べてみると一目瞭然のように、具体的な対象への観察の性格を変えている。言い換えれば、レアリスムの質が明白に変化している。それまで人物を描くにしても人間の存在を重厚な量塊として捉え、その重々しさを明暗の対照の中で暗さに重心を乗せて表わし、人間の表情も憂愁を帯びた生活感を漂わせていた。それが1926年に入るとも人物像からは表情が消え、裸体を描くにも、それらが位置している現実の場を表わす空間の装置が奪われて、絵画という仮構された場─というより絵画を成立させる物質がつくりだす別の現実の場─に移される。対象の形態を表わす時にも、輪郭は明確さを失って、頭部も身体も、あるいはときに静物も、細部を溶かされた物質の塊のように描かれる。しかもそれらは、色彩の現実性を薄めて、重々しさを持たない。この変化の内実が何であろうかと考えると、いま端的に言えば、画家の関心が現実優先から転換し絵画自体の現実に向けられるようになったことにある。その点でレアリスムの質がかわったのである。その転換が生じるまでの画家の眼は、身近な対象を捉えることを通し、地に生えて引き抜くことも出来ない鈍重でさえある現実に拘り、そういう現実こそ自らの絵画の根拠となるものと思いなしてその存在の様相を探っていた。それに対して、絵画優先に移行したというのは、画家が絵画の上に表わし出そうとすることが、外側の現実、あるいは現実の外観てはなくなり、眼差しの捉えた現実を内側に取り込んで、画家自身の解釈、絵画の必要性、絵画的論理といったもので濾過した現実のもうひとつの姿になったことに他ならない。そこでは、絵画の空間は現実の空間をなぞらない。絵画はそれ自体の空間をもって、その中で対象を生動させていく。そして対象もまた、現実に縛り付けられる根を絶って、形態も色彩も絵画にとって効果的なものへと自由に装いを変えていく。絵画に効果的であるというのは、画家が抱く絵画観に従って作動していく眼と腕が画布の上で具体的なものとなるとき、現実を参照しながらも画家の想い描く絵画の必要に合わせて対象を現実から解き放っていく作業を含んでいる。そのことがフォートリエの中で明らかに意識される。別の言い方をすると、この時点でフォートリエのレアリスムは、現実の外見に則して描写するという最も通常の意味での現実から、絵画自体がいかに現実性をもつかを問うことに方向転換をする。現実は絵画の手がかりとはなるが、画家の意図はとこにとどまらない。確かな存在を持つものとして絵画をつくりあげる、しかもそこに自らの外界に対する見方を印していく、それが画家の最大の目論見になっていく。フォートリエは、絵画にそういう意図を込めて自らの絵を変容させ、その後の絵画にそのことを生涯一貫させた。”

Fautrierjacoかなり長い引用になってしまいましたが、この展覧会の章立てがレアリスムとされているから、レアリスムの変容という視点でフォートリエの作品を一貫して見ていることから、こういう説明が出てきたのだと思います。誤解を恐れずに単純化して要約すれば、フォートリエのレアリスムは1925年以前は見たものをそのまま画面に写すことに近かったのだったが、ここで画面に描かれたものに現実を感じさせるであるという発想の転換があったと、言ってみれば、絵画の画面上で現実っぽく見せるためには見たままを写すことではなく、現実っぽい描かれたものにするために対象の見方が変わってくる。そのことで、描く対象を観る眼に自由さが生まれる。というようなことだと思います。フォートリエの絵画制作に大きな転換が、この時点であったということ、その中身を具体的な作品を通じて追いかけようとしていることに納得性の高い説明だと思います。ただ、私には、その際に絵画作品の上での現実性とは何であるかがうまく説明されていないので、左の画像に現実性を見る人が感じることができるのか、と問いたくなります。例えば、年代は全く違いますがジャコメッティのひょろ長い人物彫刻を、私はフォートリエの、このような作品(右図)を見ていて思い出していました。たぶん、私にはフォートリエの作品にレアリスムを感じるということがもともとなくて、例えば、彼が人物を描くときに、人物の形態とか色といった、その人が他の人と区別する目安というのが、他の人のではなく、その人であることを示すようなもの、これを存在に対する「本質」というヨーロッパの考え方の伝統がありますが、その本質よりも、その人がここにいるという「存在」をまず重視して描こうとした、そのように見えたのです。ただし、「その人が存在する」というのは「あの人が存在する」とは違うので、どうしても「その人」であるという本質をなおざりにすることはできません。そのような折衷的なものが残っていたのが1925年以前の作品だったと思うのです。しかし、「その人が存在する」という命題について、1926年以降のフォートリエは後半の「存在する」に重心をさらに移していきました。「その人が存在する」と「あの人が存在する」は「その人」と「あの人」が違うのだけではなく、「その人が存在する」のと「あの人が存在する」のとは、それぞれ「存在する」というのが別物であるということなのではないか。そうであれば、1925年以前の作品で折衷的に残されていた本質に関する部分、つまり外形とか色とか、そういうもので「その人」であることを区別させる必要はなくなります。そこで必要でないものを捨て去った。かといって、そもそも「存在」というのは目で見るだけのものではない、また、すべて見ることの出来るものではない、ということであれば目で見える現実というものから離れていってしまうことになる。そのため。見た目で特徴的に区別することが難しいものとなる。その結果がフォートリエのぼんやりとした平面であったり、ジャコメッティのひょろ長い人体彫刻だったりということになったのではないか、ということを、私は、これらを見て感じたのでした。かなり、説明が抽象的で、個人的な感じ方によるものだったので、これを読む人に舌足らずになってしまわないために、敢えて煩雑になるのを覚悟して長い引用で一つの議論を理解してもらって、それへの反論の形で説明をさせていただきました。

Fautrierrabit『兎の皮』(左図)は静物画ということになるのでしょうか。黒の時代という言葉通りに真っ黒な中に、兎の皮が5体吊り下げられています。まるで黒い空間の中から浮き上がって来るようです。ただ、描かれているのが兎の皮であることは作品タイトルがなければ分かりません。精緻に写生がしてあるわけではなく、そのような塊が吊り下げられるように描かれてある、というだけなのです。これは、シャルダンの初期の静物画に似たような吊り下げられた動物の肉を描いたものがありますが、それは形の面白さと典型的な情景ということがあったと思います。両者をみていると、同じ題材なのに、こうも違うのかと驚かされます。しかし、シャルダンのこの作品について、人は存在の真実を描こうとしたと評しているのです。たしかにシャルダンの作品をよく見てみると、肉の各部分の質感の違いを丁寧に描くではなく、シャルダンはごく大雑把に、そこに塊があるとでもいうように描いています。そういうことを考え見ると、フォートリエの作品というのは、現代に特徴的というのではなくて、絵画の伝統のなかで、細々とではあるかもしれないが、常にあった伝統のひとつの流れの中から生まれてきたと言えるかもしれません。

2014年9月 5日 (金)

ジャン・フォートリオ展(2)

第1章 レアリスムから厚塗りへ(1922~1938年)~レアリスム

Fautrierport_2まずは、会場に入ってすぐに見ることの出来るのが、展示されている作品の中で最も早い時期に制作された『管理人の肖像』です。何か異様な感じが濃厚に漂う作品です。描き方そのものは写実的で、形態などはレアリスムそのもので達者に描いているのですが、どこか写実の枠に収まり切らない過剰さのようなものがあるように感じられます。顔や組み合わされた両手の筋肉の陰影の濃淡が、まるで筋肉標本のように強調されていて、顔がまるで骸骨のようにも見えてきます。しかし、筋肉の動きから表情らしきものも見えてきて、その双方が共存しているところに人間離れしたものに見えてくるほどです。実際、唇に感じられる表情や手の組み方、目の表情から想像できるのは年齢による経験を積んだ上品な婦人、という印象を受けるのです。さらに、このような描き方に鈍いグリーンの顔の色遣いと、深いグレーの両手がまた異様で、黒い衣装を身に着け、背景のグレーの平面的な壁との間の空間が感じられないような奥行のない描き方がされています。これらから、フォートリエは単にレアリスムによる写生をしようとしたのではないことは確かだと思います。そこに、過剰さといのか人工的なものを強く感じ、それが作品画面を見た時の異様な印象を起こさせているのだと思います。とにかく、最初のところで、フォートリエということのレアリスム、現実を写生することから溢れだしてしまう何ものかを強く感じさせられました。ただ、フォートリエと言う人は、あくまでレアリスムに基盤を置いた人で、決して幻想的とか理念的と言う方向から来た人ではないということは、この作品を見て、よく分かりました。

Fautriersazanここでの最初期の展示は、後のフォートリエになっていく前に彼自身が自分の中に過剰なものを抱えて様々な要素を追求しようとしたことが分かる作品が展示されています。例えば、『玉葱とナイフ』(左中図)という作品では、『管理人の肖像』にあった過剰なほどの写生的な精緻な描写は影を潜めて、もって大雑把に玉葱やナイフの形態を掴むようになっています。まるで、セザンヌの晩年の静物画(右図)を思われるような、玉葱やナイフの形状を取り出してみせて、それらのある空間を写すのではなく、形状によって画面を再構成しようという。そして、さらに付け加えれば、玉葱やナイフといった物体としての量感を、その細部の描写とか表面的な質感よりも力をいれているような描き方をしているように見えます。

Fautrieroignons_4そして、人物画では『愚か者』『森の中の男』あ(左下図)るいは『セットの幼い娘』といった作品。とくに『愚か者』という作品がそういう性格が強いのですが、人物を正確に描写し、顔の特徴とか衣装や小物といったディテールから人物の社会的地位といったものを削ぎ落とし、そこに一人の孤独な人間が立っているということの抒情性という風情。とはいっても、表情が憂愁を帯びたものとなっていることで生活感とかから人生の抒情性とまでは言いませんが、それに近い印象のものを描こうとしていた、それはまるで初期のピカソの哀しみを漂わせた人物画(右下図)を彷彿とさせるようなものでした。

そして、人物では『後ろ姿の裸婦』(下図)といった油絵や『左を向いた裸婦』といったドローイング作品。ここでは、ヌードという衣装のような人間が身にまとわせるものを取り払った裸の姿が描かれています。ここでは上でみた人物像からさらに裸になった人間の姿を描こうとしているように見えます。そこでの描き方は、静物を空間から切り離して形状と量感とで描こうとしたのと同じように、人間をとりまく様々な関係とかいったものと切り離して、その肉体を重厚な量塊として捉えて、その重さを明暗の対照の中で暗さに重心をのせて表現しようとしたように見えます。それは、喩えて言えば、人間がそこにいるという存在を何とか抽出しよう。その際人間が社会的存在であることから、地位とか、名声とか、富とか、性格とか、人生とかがついてまわって、どうしても単なる一人の人間として裸にすることが難しい。ただし、そういうものを削り落としたところで露わになる存在そのもの、そういうものを描こうとして、肉体の量感とか、憂いの表情とか、いろいろなものでそれが感じられるものを探していたのではないか、と私には思われます。

Fautrierforet_3ここで、比較としてあげたセザンヌやピカソといった画家たちは、写実から様々な実験と試行錯誤を繰り返し、独自な絵画の道を進んでいきました。彼等は見たものの外形にこだわるような方向を進めました。それはものの形状であったり、色であったりという要素です。それを、例えば立体の向こう側を見ようと、視点を複数化したり、分析的に、それこそ立体を展開図のようにしてみたりしてみました。その底流には、感覚のなかで見るということを第一に考え、その見るという感覚でものごとを捉えようとする、という考え方があるように思います。もののあるべき姿を本質として、その本質をものの“かたち”すなわち、形相という要素から第一に捉えるという考え方です。たとえば、イデアという理想の理念を説明するときに、机のイデアと言えば、職人が頭の中で作るべき机の姿、つまり理念的な机の“かたち”があって、それによって職人がつくる個々の机が実際の机であるという説明です。そういう形相を認識するための感覚として視覚が第一のものと考えられてきた。そういう考え方があって、ものごとの外形を本質として認識していくという考え方のベースの上に乗っているものと考えていいと思います。絵画というものが目で見るというものである以上、それは仕方のFautrierpicasoないものでもあるでしょう。しかし、私たちの感覚的な行為を思い起こせば、ものを目で見たあとに、手で触って確かめるということをよくやっているのではないか、と思います。これは、多分最終的な確認作業は手で触れてみるという触覚の方に、視覚よりも信頼を置いているということかもしれません。それは、もしかしたら、ものというのを本質ということで認識するのではなく、そこに在るということの方を重要としているのかもしれません。もしそういうことであれば、見るということを第一に、ものの“かたち”を言うなれば特権化するようにして、ものの本質をまず捉え、そしてそれを表わそうとするものとは違う表現のあり方があってもいいのではないか。セザンヌやピカソたちが進めていった絵画運動とは方向性が異なった、別の方向性、ジャン・フォートリエの絵画の試みは、実はそういう異質な方向に向かおうとしたのではないか、と考えられる点があります。それは、例えば『後ろ姿の裸婦』にあるような、人間の身体の量感をまず強調し、裸体という身体表現を理想的な身体を表すというのではなく、個々の人がここに在るという存在感をまず第一に感じ、それを優先的に表わそうという方向性を強く感じさせるものになっていると思います。つまり、西欧の一般的なものを本質から見るということを第一に考える姿勢から、本質云々を議論する前にものが在るということがその前にあるのではないか、という姿勢です。もっというと、本質とか理念とかの“あるべき”というのから、じっさいにここに“ある”ということです。そのために、フォートリエは形状ではなく、色でもなく、そしてまた実は量感でもなく、存在そのものとして表現するにはどうしたらよいのか、ということが彼の方法を形作っていったのではないか。ここで展示されている様々なフォートリエの試みを見て感じました。この後のフォートリエの作品との直接的なつながりがすぐ分かるというものではありませんが、この初期の作品は彼の方向性を色々と想像させてくれるたのでとても興味深く鑑賞することができました。

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2014年9月 4日 (木)

ジャン・フォートリオ展(1)

Fautrierpos2014年7月9 東京ステーションギャラリー

大型台風が日本列島に接近し、その先駆けが各所で大雨や土砂崩れの被害を受け始めているような天候のなか、東京の空は、今にも崩れそうな雲行きでありながらも一種の小康状態にありました。そんな中、都心でセミナーがあったついでに、東京駅の中にあるギャラリーなので雨に濡れることもないだろうと、展覧会の期間も終わりが迫っているし、機会を逃すべきでないと、行ってみることにしました。とはいっても、閉館前の1時間という限られた時間になってしまい、また高校生の美術鑑賞か何かの課題学習のようなグループでノートを抱えながら学習?している団体と一緒になってしまい、落ち着いて作品を見ることがなかなかしにくい状態となってしまいました。彼らには悪いのでしょうが、邪魔でうっとおしいので、怒りがこみあげてくるのを抑えるのに苦労して、落ち着いて作品を見ることがなかなかできませんでした。あれは、なんとかしてくれないか、というのが正直な気持ちです。余計な話は、このくらいにして作品について少しく述べていきたいと思います。

ジャン・フォートリエという人は、あまり馴染みのない名前だと思います。私も、この展覧会ではじめて見た人です。それなので、簡単に紹介しておいた方がいいと思います。もとより、初めて作品に触れた私には紹介することはできないので、展覧会チラシの説明を引用します。“ジャン・フォートリエ(1898~1964)は、1908年にバリからロンドンに移住、ロイヤル・アカデミーとスレイド美術学校で学び、1922年、写実的な絵でソロン・ドートンヌに初入選。その後、色彩の暗い抽象化した画風へと変化し、1930年代は不景気もあり絵が売れず、美術界から一時遠ざかりました。第二次世界大戦が勃発すると、パリにもどってアトリエを構え、制作を再開します。1943年からはドイツ軍の捜査を逃れ、友人の手助けを得て、戦時体験をもとにした連作に取り組みました。これらをパリ解放後すぐのドゥールアン画廊の個展に発表、フォートリエは文学者、批評家らの称賛と批判を浴びながらパリの美術界へ復帰を果たしました。厚い絵肌に戦争で抑圧される人間像を半ば抽象的に印し、その主題と確かな存在感をもつ絵自体の強さによって、《人質》シリーズは、人々に深い衝撃を与えたのです。以降、フォートリエは、厚い絵具の層を基盤にして、人体や自然をテーマに、美しく緊張した絵画を突き詰めました。”まあ、これではどのような作品を描いたのかは見えてきませんが、人物事典てきな伝記的情報はこの程度で十分ではないかと思います。では、フォートリエという人は、どのような作品を描いたのか。

Fautrierkatuki具体的な作品については、この後で個々に見ていきたいと思いますが、まずは私の大雑把な、「こう見た」というのを述べておきたいと思います。上で展覧会チラシを掲示していると思いますが、ここにある画像は『人質の頭部』という作品で、チラシの解説でも触れられていた《人質》シリーズの代表的な作品ということです。作品のタイトルが人質の頭ということですが、とても一見で人間の頭部には見えません。キャンパスに絵の具を厚い層のように塗り固めた卵型の形状で、白や暗いグレーを基調とした色の抽象画といってもおかしくありません。とはいっても、今まで私が見てきた抽象画の作品とは異質な感じがします。それは、誤解を恐れずに端的に言えば感覚的な美しさが感じられないのです。どういうことかというと、抽象絵画の代表的な画家たちの作品は、絵画の様々な要素、例えば色彩とか形態とか画面の構成とかいったものの中から、特に重要と思われる要素を抽出され、それらを中心に作品を創り直してきたというイメージがあります。例えば、カンディンスキーは風景を塗り絵のように色彩の配置に置き換えることを進めて行くうちに、その色彩で構成されるコンポジションを制作し始めました。そこには、目で表面的に見ることの出来ないものを見ようとして、感覚的な要素に操作を加えることで、それを作品にしようとしたという面もあるかもしれません。そこに感覚の奥底を突き詰めようとした面もあって、カンディンスキーの作品は色彩が乱舞するような感覚的な美の喜びに満ち満ちたところがあります。これに対して、フォートリエの作品には、そういう色彩の喜びは感じられません。では、フォートリエは絵画の要素のどんなものを抽出しようとしたのか。そう考えると、色彩、形態、画面構成といった私のこれまで見てきた抽象画でピックアップされた要素には、あまり注意を払っていないような感じがします。そこで、フォートリエがピックアップしようとしたのは「存在」ということではないのだろうか、と思いました。誤解を恐れずに言えば、フォートリエは「美」という本質の前に、そこにあるという「存在」を追求しようとしたのではないか。そう私には見えました。それは、初期の静物画の中にセザンヌを彷彿とさせるものがあったからかもしれませんが、例えば、今見ている『人質の頭部』でも、厚く層のように塗り固めた絵の具は物体としての重量感とか、それがあってどっしりと存在しているという要素を抽出してきたのではないか、と私には思えました。それは、絵画は美を表現するという本質(があったとして)は、絵画そのものが、まず存在していなければ本質を追求するどころではない。そこで、ここに、まず絵画というもの、画面をしっかりと存在させよう。そういう姿勢が感じられました。それは、描く対象に対しても、多少文学的な想像力の飛躍を働かせますが、「人質」という極限状態は、人間性を剥奪されるに近いところで、生存するか否かに追い込まれた状態だったと思います。そこでの人質はまず生存(存在)しなければ、と全力を傾けた。そこに本質とかきれいごとを言う前の存在が剥き出しになった(ちょうど、この作品が制作された当時、流行した実存主義的な言い方です。例えば、ジャン・ポール・サルトルの『嘔吐』という小説には、そういう表現が沢山出てきます。)、そういうところで、フォートリエは描いていた、あるいは描こうとしたのではないか。私には、そう思います。だからこそ、何か見るものに迫ってくるようなところがあります。これは、別のところで触れることができるかどうか分かりませんが、香月泰男の作品に通じるところがあるように思えるところがあります。

さて、展示は、次のような章立てでしたので、それに沿って個々の作品を見ていきたいと思います。

第1章 レアリスムから厚塗りへ(1922~1938年)

第2章 厚塗りから「人質」へ(1938~1945年)

第3章 第二次世界大戦後(1945~1964年)

2014年9月 3日 (水)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(8)

終章 戦国大名から近世大名へ

現在でも通説的な評価とされているのが、天下人となった織田信長・羽柴秀吉は、他の戦国大名よりも先進性があり、それゆえ天下統一を進め、近世社会の扉を開けた、といったような理解である。その前提には、近代思想に特有の、因果関係によって物事の変化を説明しようとする思考方法と、政治権力の政策に目的性を設定する政策決定論的な思考方法がある。そのため、新しい近世社会は織豊政権から始まるのであって、信長・秀吉の政策には、他の戦国大名にはない、画期的な要素があるはずだ、そうであるからこそ、信長・秀吉が天下統一を推進することができたのだ、という発想にいたる。しかしこうした思考方法は、歴史的結果からその必然性を探る、典型的な予定調和論である。そしてありとあらゆる側面において、その先進性。画期性探しが行われていった。戦国大名と織豊政権は異質の存在と規定される荷いたる。

しかし、ここでの実証的な議論を振り返れば、両者にとりたてて異質さは見られない。考えてみれば、信長も秀吉も、戦国大名と同時代の領域権力であったのであるから。とりわけ信長について言えば、本書で扱った戦国大名の範囲は、信長の死去から10年ほど先までを含んでいるのである。また同時期について比較してみても、信長の領国支配に、他の戦国大名よりも「先進性」のような要素は見られない。むしろ信長は最終段階に入ってようやく、他の戦国大名が到達しているレベルに追いついてきた、という表現も可能なほどである。

戦国大名と近世大名との決定的な違いとは、戦時体制の現実性の有無ではないか。この部分で言えば、織豊大名は天下統一後も朝鮮侵略戦争という形で戦争を継続していたから、戦国大名に類似する。大坂合戦後のいわゆる「元和偃武」以降における変化が注目される。第二章でみたように、戦国大名の収取体系は、戦争費用の調達を基幹に構築されていた。また、大名・国衆ともに、上納金や戦争費用の援助などから、財政において戦争関係の収入・支出が大きな割合を占めていたと考えられる。戦争状態の終結は、そうした財政構造を自然と転換させずにはおかなかったはずである。その結果として、戦争を前提としない大名権力の在り方へと転換をみたに違いない。その帰結として、17世紀前半における、いわゆる「前期藩政改革」を経過した姿をみることは、現在のところ有効と考える。それらの改革はたいてい、災害・飢饉を契機にし、領国内の「村の成り立ち」を図って進められたものであった。それらがその後における慢性的飢餓状態の克服に繋がっていくと考えられる。

戦国大名は、災害・飢饉が頻発していたなかでも、戦争への対応を重要な柱としていたが、17世紀以降の大名は、災害・飢饉に全力をあげて対応できる状態になっていた。それまで多くかかっていた軍事支出の大部分を、社会資本整備や社会保障にあてていったといえる。そのあり方が、以後200年にわたる江戸時代の平和における、重要な柱をなしていた可能性がある。

2014年9月 2日 (火)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(7)

近年の戦国大名の戦争に関する研究の中で明らかになってきたことに、領国内の村も、大名の戦争に参加していたという事態がある。戦国大名の軍勢を構成していたのは、給人などの正規兵だけではなく、村そのものも大名に村の兵士を提供していた。軍事最前線に位置した境目地域では、大名・領主の「城」だけでなく、村の土豪の屋敷も防衛拠点として機能していた。その場合も、村や土豪に対して諸役が減免された。こうした事態も、境目地域における村と戦争との関わりにみられる特徴といえるであろう。

戦争が日常化していた領国境目地域では、村の土豪が、防衛拠点としいて取り立てられていたのである。さきほどまでにみてきたものは、戦国大名が村の武力を、自らの戦力として動員していた状況であった。いまここに防衛施設も、同じような状況にあったことが分かった。そうすると戦国大名の戦争においては、戦力も軍事施設も、大名・領主が恒常的に維持していた分だけでは、賄い切れていなかった様子がみえてくる。そこでは在地の村の武力や防衛施設が、恒常的に、正規軍や軍事施設を補完する役割を担っていたのである。このことが意味しているのは、そもそも戦国大名の戦争は、正規軍だけで成り立たず、当初から村の武力の動員を内包していた、ということであろう。

このことは、以後の豊臣大名や近世大名においても変わらなかったと見られる。よくいわれていることに、豊臣大名は、「兵農分離」を遂げた常備軍によって構成され手いたので、戦国大名に対して軍事的に優越していた、といったものがある。しかし、この理解も成り立たない。戦争のなくなった江戸時代、大名の江戸幕府に対する軍役負担は、参勤交代や普請役の負担にとってかわった。ところが、必要な人数を恒常的に抱えていたのかというと実態はほど遠かった。そうした場面になると、不足分については、領内の百姓を臨時に被官化し、帳尻をあわせていたというのが実情なのだ。つまり不足分を補うといった状況は、戦国大名のときとまったく変わっていない。そしてよく知られているように、幕末の戦争では、百姓が大量に武士化された。戦争は正規兵だけでは、どんな時代も行い得なかった、ということである。

坂色地域の土豪が、戦功を上げて大名・領主の家臣になったとしても、在村被官となっただけでは、基本的な属性は百姓のままであったから、当然のことながら在村を続けた。そうした存在が、他所では多くの所領を獲得して、存立の基本が給人という性格に変わり、大名・国衆に対して「常の奉公」を行うようになった場合、おのずから彼らが在村する割合は少なくなってくる。所領に見合った、様々な奉公を行うため、戦陣や大名・国衆本拠での勤務が生じてくるからである。

しかし土豪らの屋敷は、それまでとは替わらぬ本拠として維持され、いざというときに防衛施設の役割を担うことになったからである。これは上級の家臣の場合であっても事情はおなじであろう。戦国大名や国衆・被官が本拠との関係を切断することは、ほとんどなかった。こうした状況について、豊臣大名や近世大名の場合では、家臣・被官の多くが本拠から離れて城下に居住していることと比較して、戦国大名は後進的で、豊臣・近世大名は先進的とするような枠組みをはめたり、その背景に「兵農分離」政策の有無が持ち込まれることが多い。しかし、ことの本質は、戦争が日常であったかどうかの違いによるに過ぎなかった、と考えられる。

戦国大名の戦争で、軍時期には最前線にある地域においては、恒常的に村の武力の動員が行われていたという状況こそが、一般的な事態であった一方で、それとは状況が異なる地域もあった。それがその内側に展開していた戦国大名の拠点となる本国地域とその隣接地であった。そこでは、村人に対しての日常的ともいえる軍事動員は行われなくなり、軍事的最前線地域としての性格から解放され、そのような村人の軍事動員は必要なくなり、それらは家臣化した給人・被官によって果たされていくことになった。そもそも村への軍事動員は、中世を通じて、地域防衛と一体化する場合にのみ実現しうるものであった。このことからすると、すでに防衛戦争の存在が常態ではなくなった地域において、村の軍事動員が行われなくなるのは必然であった。戦国大名の戦争は、それらの地域から遠く隔たった最前線地域で行われ、その軍事力は家臣という正規兵によって担われる。それらの正規兵の多くは、本国地域の村出身者であったが、家臣化し、さらに知行を与えられて、兵に特化していく存在となっていく。ただしその一方で、被官関係を断絶して百姓としての立場に特化していく存在も見られた。このような本国地域においては、兵と百姓とに二分されていく状況が、地域平和の展開の中で進展していったと考えられる。

このような本国地域にあって、再び村の武力の動員が図られていく事態が生まれてくる。大名家の存亡の危機に際して、村に対して規定以上の防衛のための負担を強いたものである。「御国」論理を生み出した段階のことであった。「御国」にいて、その平和を享受してきたのだから、「御国」の危機には「御国」の維持のために働くべきだ、という論理を振りかざして、納得させようとした。このような本国地域に対するものは、村への軍事動員がみられない状況が常態化していた中で。領国存亡の危機にあって、改めて村への軍事動員を図るために生み出されたものといえる。

2014年9月 1日 (月)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(6)

第4章 戦国大名の行政機構

北条氏や武田氏など、領国が数カ国にわたるような大名になると大名家当主がそれら領国すべてに対して、直接に当たることは難しくなってくる。そうして登場してくるのが、領国を構成する行政単位ごとに支配を委ねていく、いわゆる地域分権化の動向である。領国が広域化してくると、大名本拠のみによって防衛していくのは無理となり、他にも軍事拠点が設けられることになるのは当然であろう。それに軍事拠点は、いうまでもないが軍事的緊張への対応のために構築・維持されたのであり、その状況が解消されれば維持する必要はなくなり、たいていは放棄されていくことになる。しかしそれらの中で、周辺地域に対する行政支配を管轄するようになって、軍事的緊張とは関係なしに恒常的に維持されるものが見られるようになってくる。こうした城郭を支城といい、この支城が、大名領国らなかにおける軍事・行政の地域支配拠点として位置した。支城の維持に当たっては、周辺地域の村の負担があてられた。

領国のなかの領域支配者については、領域に対し行使できる機能、領域における知行制のあり方によって多く四つの階層に区分することができる。

 

第6章 戦国大名の戦争

戦国大名とはそもそも、戦争をする権力体である。その戦争はいうまでもなく対外戦争であり、基本的には他の戦国大名との戦争であった。そしてそのことの表裏の事態として、領国内における紛争抑止が進んでいき、これまでに見てきたような「惣国」が平和領域の単位となるような事態が作り出されていくようになってきた。それでは翻って、戦国大名はどうして戦争をしていたのであろうか。一昔前までの戦国大名論では、戦国大名は本来的に領土拡大欲を持ち、領国支配もそれを実現するための富国強兵策を第一義としていた、といった理解にあった。まさに戦前の軍国主義国家を投影した認識であり、しかもそれを大名家当主の個性に還元する傾向が強かったから、そうした理解はいわゆる「英雄史観」と大差ないといわざるを得ない。

まず、戦国時代における戦争の日常化という事態の背景には慢性的な飢饉状態があったことは間違いなく、そのため戦国大名の戦争の背景にも、慢性的な社会状況を見ることができる。戦国大名が戦争をしている季節が、夏の麦の収穫期や秋作の収穫期に顕著であることも戦争の中では下級兵士による略奪が行われていたことをみれば、それは否定できない現実として受け止めざるをえない。

しかし極論すると、戦国大名は全方位で戦争状態にあった。そうした状況で、具体的に戦争を展開できるのは、その中の一部に過ぎなかった。戦国大名が動員できる軍勢には限度があったからである。実際に戦国大名の軍事行動について、その政治的契機を見ていくと、そのほとんどは、従属する国衆からの支援要請に応えたものであった。そもそも敵方への最前線にあった国衆は、その敵方大名から離叛して従属してきた者であったり、あるいは隣接する国衆が敵方大名に従属したために、最前線に位置するようになっていた。戦国大名のもとには、最前線に位置する国衆から、常に支援要請があり、実際にはそのなかで優先度の高いものから、支援を行っていた、というのが実情であった。

しかし情勢によっては支援できない場合もあった。その結果として、国衆が離叛し、敵方大名に従属してしまうことは珍しいことではなかった。そうした場合、大名は味方勢力から「頼もしからず」と評判された。戦国大名は、従属国衆からの支援要請に応えなければならなかったのであり、そのことは大名自身も自覚していた。それは名誉を損なうことであった。

そこで、大切なことは、損なわれた名誉の回復、という事態であろう。敵対大名から領国内へ侵攻を受け、そこで敵兵によって領国住人の財産が略奪されてしまったこと、従属していた国衆が離叛したこと、というのはすべて名誉を損なうものであった。損なわれた名誉は回復しないと、「頼もしからず」というレッテルが貼られた。戦国大名の権力構造は、重層的な「頼み」構造にあり、大名家はその頂点に位置していただけに、その名誉毀損をそのまま放置しておくことは、他の国衆も相次いで離叛したり、重臣たちも離叛したり、あるいはクーデターによる当主交替などの事態が生じる等、大名家そのものの崩壊をもたらしかねなかった。だから反撃や報復のための攻撃を行い、それによって損なわれた名誉の回復に当たる必要があったのであろう。同様のことは他大名との外交関係においても見られた。

こうしたことからすると、戦国大名の戦争の具体的な展開の背景には、名誉観の問題が大きな位置を占めていたことが分かってくる。これは社会全体の存立が、現代のような法に基づく権利等に裏打ちされたのではない前近代社会にあっては、何よりも名誉によって維持されていたことに関わっている。名誉損害を受け、そのまま放置しておくというのは、社会主体として認識されなくなることに通じるものとはいえ、社会全体として存立し続けるというのは、名誉を維持し続けることであった。戦国大名もそうした社会観念のなかで存在していたのであった。

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