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2014年9月 8日 (月)

ジャン・フォートリオ展(5)

第2章 厚塗りから「人質」へ(1938~1945年)~「人質」

Fautrierotage3フォートリエの代表作だそうです。1945年にドイツ軍がパリから撤退した後で発表され、高い評価を受けたということです。アンドレ・マルローによる「苦痛の象形文字」とか、ジャン・ポーランによる「怒りや決意であると同時に、形而上学的で宗教的な感情」などと評されたということです。たぶん、それがフォートリエの評価を決定づけることになったと思われるのですが、それに沿った説明が為されていたので、ちょっと長いですが引用しましょう。

“40余点の「人質」連作では、片方あるいは両方の眼が、鼻が、口の一部が、さらには顔の半分が欠けた、傷ついた頭部が公然と晒されている。戦争の悲劇的な苦痛のなかで、顔によって象徴化された人間は匿名の存在となっている。フォートリエはこの殺戮を、傷つき、手足が切断され、体躯も崩れ、人型にもなっていない肉塊を通して表現した。この人間の顔には、悲劇性を強め、それをはっきりと示す造形的な要素しか残されていない。「人質」は連作となっており、その相貌はもはやいかなる特異性ももちえていない。とはいえ顔はそこにしっかりとあり、素材のなかへと完全に埋没しているわけではない。侮辱され、犠牲となり、焼き捨てられたこれらの顔は、処刑の暴力と、死骸となる彼らの運命とを証言するいくつかの特徴を残すのみである。絵画の素材の扱いによってのみ、それぞれの頭部を区別することができる。厚みや、曲線や円状の輪郭、そしてより大きな素材の堆積であり、それらが鼻、眼、あるいは眉をかたちづくっている。頭部は現前と消滅のあわいにある。鑑賞者の視線はすばやくいくつかの特徴を捉える。それを手がかりに顔を再構築することができる。けれども鑑賞者は、受刑者の顔がそれぞれを区別するための特徴を欠いている、あるいはそうした特徴が存在しないということに気づくことになる。展示されている「人質」の頭部はほとんど実寸で、ひとつの顔と向かい合っているような印象を与える。「人質の頭部」というこの特異なタイトルをもつのは33点で、それらは数字でしか区別されないため匿名性が高く、つねにひとつの連作へと回収され続けるのである。”

このような長い引用をしたのは(それにしても、今回は引用が多すぎるようです)、フォートリエの作品に対するひとつの切り口として提示するためです。このような作品に対しては、様々な見方があるのが当然で、私がここで述べているのは、それらの一つでしかありません。しかも、おそらく、ここで引用したような見方がスタンダードとは言い切れないけれど。メジャーに見方となっているのだろうということに対して、私の場合、どちらかというもっと個人的であることを明らかにするためです。では、私の個人的な見方とはどのようなものか。

Fautrierotage1まず、大雑把な言い方をすれば、「人質」の連作は、これまで見てきた厚塗りによる作品の一連の流れの作品であるということです。この「人質」の連作を突出したものとして見るという視点は、私にはありません。それほど大きな違いはあるのか、ということです。引用した説明にある、ものがたりの創作は私には、フォートリエと同時代を経験したとか惨劇(引用の説明で言っている悲劇は明らかに誤用です。そうでなければ演劇というものを知らないということです。)を目の当たりにしたとかいうことはなく、「人質」の頭部を見て戦争の殺戮とかそういうものを想像することはありません。ただ、作品タイトルが「人質」とされていることから、あるいは説明されているフォートリエの伝記的なものがたり、そのような物語を喚起することは否定できません。しかし、私には、そのように見られることはフォートリエの作品の在り方に反するものではないか、と思えるのです。ただし、これはあくまで私の個人的な見方によることなので、それがフォートリエが意図したことだとか、そういうものだと誤解されないように願います。さて、私が、これまで見てきたフォートリエの作品の特徴というのは、「本質」よりも「存在」を認識し、見る者に認識させようとする点にあると考えてきました。それゆえに、ものや人が、そのように見える「形相」や「色彩」といった本質をあえて切り捨て、それが在るということを画面に定着させるために、形にならない、色にならないものを描こうとしてきたと言えます。そのときに、例えば人質としての悲惨な情況は、その人質が人質としてみえる「本質」に属することです。それは、これまでフォートリエの作品では切り捨てようとしてきたことではないか、と私には思えるのです。それは、もしかしたら後退なのか、方向転換なのか、と観念的に考えればそうなのです。しかし、実際に作品をみてみれば、人質としての、それらしい「形相」も「色」もなく、具体的にそういうことを想起させる要素は何もありません。そうであれば、見る人が勝手に想像して、勝手に思い入れできる、ある面では懐の広さのようなものが加わったのかもしれません。それは、画面に楕円や矩形で厚塗りされた白系統の絵の具が人の頭を想わせるようにパターン化され、それに装飾的な手を加えるというバリエーションを加えるという様式が。見る者にとって入り込み易いものとなっているからではないか、と私には思えます。だから、私には、「人質」の連作がそれまでの厚塗りの作品と違って、彼の代表作として高い評価をうけたのは、それまで手探りの試行錯誤していて方法は固まってきたところだったところに、楕円や矩形の厚塗りのパターンを打ち出して、これがフォートリエだという一種のブランド化に成功した作品だったからではないか、と思えるのです。

Fautrierotage2だから、この後のフォートリエの芸術的営為とは、このブラントをベースにマンネリを避けながらいかに発展させていくかになったのではないか、と私には思えます。「人質」の連作は、その画期となった作品ではなかったか、と私には思えます。

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