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2014年9月 3日 (水)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(8)

終章 戦国大名から近世大名へ

現在でも通説的な評価とされているのが、天下人となった織田信長・羽柴秀吉は、他の戦国大名よりも先進性があり、それゆえ天下統一を進め、近世社会の扉を開けた、といったような理解である。その前提には、近代思想に特有の、因果関係によって物事の変化を説明しようとする思考方法と、政治権力の政策に目的性を設定する政策決定論的な思考方法がある。そのため、新しい近世社会は織豊政権から始まるのであって、信長・秀吉の政策には、他の戦国大名にはない、画期的な要素があるはずだ、そうであるからこそ、信長・秀吉が天下統一を推進することができたのだ、という発想にいたる。しかしこうした思考方法は、歴史的結果からその必然性を探る、典型的な予定調和論である。そしてありとあらゆる側面において、その先進性。画期性探しが行われていった。戦国大名と織豊政権は異質の存在と規定される荷いたる。

しかし、ここでの実証的な議論を振り返れば、両者にとりたてて異質さは見られない。考えてみれば、信長も秀吉も、戦国大名と同時代の領域権力であったのであるから。とりわけ信長について言えば、本書で扱った戦国大名の範囲は、信長の死去から10年ほど先までを含んでいるのである。また同時期について比較してみても、信長の領国支配に、他の戦国大名よりも「先進性」のような要素は見られない。むしろ信長は最終段階に入ってようやく、他の戦国大名が到達しているレベルに追いついてきた、という表現も可能なほどである。

戦国大名と近世大名との決定的な違いとは、戦時体制の現実性の有無ではないか。この部分で言えば、織豊大名は天下統一後も朝鮮侵略戦争という形で戦争を継続していたから、戦国大名に類似する。大坂合戦後のいわゆる「元和偃武」以降における変化が注目される。第二章でみたように、戦国大名の収取体系は、戦争費用の調達を基幹に構築されていた。また、大名・国衆ともに、上納金や戦争費用の援助などから、財政において戦争関係の収入・支出が大きな割合を占めていたと考えられる。戦争状態の終結は、そうした財政構造を自然と転換させずにはおかなかったはずである。その結果として、戦争を前提としない大名権力の在り方へと転換をみたに違いない。その帰結として、17世紀前半における、いわゆる「前期藩政改革」を経過した姿をみることは、現在のところ有効と考える。それらの改革はたいてい、災害・飢饉を契機にし、領国内の「村の成り立ち」を図って進められたものであった。それらがその後における慢性的飢餓状態の克服に繋がっていくと考えられる。

戦国大名は、災害・飢饉が頻発していたなかでも、戦争への対応を重要な柱としていたが、17世紀以降の大名は、災害・飢饉に全力をあげて対応できる状態になっていた。それまで多くかかっていた軍事支出の大部分を、社会資本整備や社会保障にあてていったといえる。そのあり方が、以後200年にわたる江戸時代の平和における、重要な柱をなしていた可能性がある。

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