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2014年9月 9日 (火)

ジャン・フォートリオ展(6)

第3章 第二次世界大戦後(1945~1964年)

Fautriervide多分フォートリエは「人質」の画家ということで、ひとつのレッテルを貼られてしまうことになったかもしれません。それは、ある面ではパッションの画家とか、社会性を持たせた作風とか、トピカルな流行にのったレッテルといえるでしょう。事実、どうだったのかは分かりませんが、作品の展示を見る限りでは、「人質」は、とくにフォートリエの頂点とか記念碑的な作品というものには見えず、フォートリエという画家は、一貫したポリシーを貫いて、そのポリシーにしたがって方法を成長させ作品をコンスタントに制作していった、という印象の強い画家です。突出した代表作によって印象付けられるというタイプではなく、平均点の高い作品が各時期に万遍なく散りばめられているというタイプのように見えます。「人質」もそのひとつで、この作品群だけをとくに取り上げて、フォートリエという画家を代表させるには無理があると思います。

そして、フォートリエには、もうひとつ大きなレッテルが貼られることになります。「アンフォルメル」というレッテルです。アンフォルメルとは不定形という意味らしいのですが、絵の具をキャンバスに激しく盛り上げるように厚塗りし、その素材感や質感を重視するうちに、描く形は何ものかを写すものから次第に形を失い抽象画と見紛うばかりになっていったので「抒情的抽象」とも言われ、幾何学的でクールな抽象画とは区別しされたという、画家たちです。フォートリエの作品も、たしかに通じているところはあると思います。

フォートリエ自身としては、どうであったのかは分かりませんし、私には、どうでもいいことなのですが、ここで展示されている「オブジェ」と呼ばれる一連のシリーズを見ると、抽象画を意図して描くとか、素材感を重視するとは、肌合いがことなるのではいか、と思えます。ここで描かれているのは、コーヒー挽きや籠やグラスなどの日用品や果物といった現実生活にごく身近なものたちです。

「空のグラス」という作品を見てみましょう。グラスという題材について、こじつけですが。ボーヴォワールの回想にある有名なエビソードを想い起させるのです。サンジェルマン・ドュ・プレのカフェでドイツに留学して現象学を学んできたサルトルに対して、友人のアランが「現象学を勉強してきたというのであれば、このグラスがここにあることを説明してみなさい」と言って、テーブルに置かれたコップを示して、サルトルを挑発し、サルトルはそれをたいそう喜んだという逸話です。これは、哲学での存在論が抽象的に存在とは何かという議論をしているが、眼の前に在るグラスそのものを説明できないじゃないかという揶揄をふくんだもので、サルトルはまさにそのことを追求しようとしていたからでした。ちょっと脱線しますが、抽象的に存在を問うということはグラスのような「もの」だけでなく、人に対してもそのように見るということです。そうであれば、私やあなたという個人が存在するのではなく人という一般が存在することになってしまう。まずは、私とかあなたという個々の人が存在すること(これをサルトルは実存と呼びました)から始めるべきではないのか。それをサルトルは「実存は本質に先立つ」というテーゼに預託しました。だから、アランの挑発は、まさにサルトルがやろうとしたことを先取りしていたことになります。

「空のグラス」について、上述のエピソードはこじつけで、フォートリエはこんなことを知っていたのか、興味があったとは思えません。しかし、フォートリエが次のような発言をしているのを聞くと、グラスが現実に在るということを、フォートリエが中心に置いていることが分かります。“セザンヌのコップがあり、シャルダンのコップがあり、コップそのものは存在しないのだ、という言い方がある。そのような言い方はちょっとした知的な体操であって、実際のところコップはいずれの場合も存在しているのだ。そして、もしコップが実際に存在しないのであれば、コップについてのこうした見方さえ存在しないはずである。そのうえ、この現実を投げ出すことは、いったい何に役立つというのか。芸術に関しては、現実に由来する全てのものは、現実を体系的に否定するというよりはむしろ、より想像的で魔術的であるように思われる。絶対的アンフォルメルの非現実性は、何ももたらしはしない。それは無償の戯れなのだ。いかなる芸術の形式も、それに現実の一部分が混ざり合うことがないのなら、感動を与えることはできない。”

何か、作品から離れて言葉を弄んでしまっているようです。紙に塗料を厚塗りして、その地塗りの中央に盛り上がった分厚い物質感を強調するような面に濃い青の絵具で薄く彩色され、その彩色面を引っ掻いたのだろうか地の白いがむき出した線でグラスの形が引かれている。すると、物質感とか存在感は強調されているのに、描かれた対象であるコップは軽やかで希薄な印象になっています。それは、上述の画家の言葉にあるような現実にあるということを何とかして画面に定着させようとしたものと、私には見ることができます。しかし、存在しているのはグラスであり、グラスが存在していることです。これは、まさにサルトルが感心した眼の前のグラスがあることを説明することに他なりません。かといって、グラスを正確に写しても、それはグラスの外形であり画家が見たもので、それでは画家のグラスとして単に画面に写されたものでしかありません。そこで、在るのはグラスであるという順番でフォートリエは描こうとした、と私には思えます。それが、この作品に現われたような厚塗りの物質感とグラスの形態を映す部分にして物質感を強調する。物質感だけにしてしまうと抽象的な存在論に陥ってしまうから、グラスであることを軽やかに描き込んだ。この微妙なバランス感覚というのでしょうか。

結果として、グラスであることはまるで浮遊しているような軽快さと透明感をもたらしているように思います。そしても彩色された黒に近い青が透明に見えるということです。結果として、とても美しい絵になっています。

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