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2014年9月22日 (月)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(7)

第2章 「われ思う」に他者はいるか

1.観念の起源へ

「思うもの」としての「私」を徹底してその「思うこと」において解明したデカルトは、続いてそこにおいて「思われたもの」の解明に向かう。「思うこと」なしには「思われたもの」はありえないが、「思われたもの」なしの「思うこと」もまたありえないのであってみれば、「思われたもの」が「思うこと」の本質に関与していることは明らかだからである。「思われたもの」の解明は、「思うこと」の解明は、「思うこと」の解明のさらなる掘り下げなのである。彼は、「思うこと」におけるこの「思われたもの」を観念と呼ぶ。「思われたもの」の解明は、「思うこと」の内に与えられているさまざまな観念の解明なのである。それは具体的には、このような観念にどのような種類のものがあるかを吟味するというかたちをとる。彼はまず、観念を次の三つに大別する。「本有観念」「外来観念」「作為観念」である。

「本有観念」とは、「思うこと」の内にはじめから含まれている観念であり、したがってそれが何であるかを「私」は(つまり「思うこと」は)「私」自身から直接理解することができる。デカルトはここで「<もの>とは何であるか、<真理>とは何であるか、<思う>とは何であるか」をその例として挙げている。「思うこと」は必ず何かを、つまり「思われたもの」を「思う」ことなのだから、「もの」と「思う」は「思うこと」の内にはじめから含まれている。また「思うこと」は何よりもまず「真理」を目指して遂行されるのだから、これも「思うこと」の中核をなしている。それらは「思うこと」それ自身を構成するものなのだから、「思うこと」なおいて端的に理解され、それ以外の何ものも必要としない、というわけである。これに対して「外来観念」は「思うこと」の内にはじめから含まれているのではなく、その外部から、後に与えられた観念である。例えば私は物音が聞こえ、太陽が見え、火の熱が感じられたとすれば、それらはいずれも私の外から「思われ」に到来したと考えられるのである。最後の「作為観念」は、私自身(つまり「思われ」)がその作者であるような観念、私によって作り出された観念のことで、妖精たちや竜のような空想上の存在がその例として挙げられよう。

これらの観念のその真の出所が必ずしも明らかではない、とデカルトは述べる。したがって、次に為すべきは「これらの観念の真の起源」を吟味・精査し、明らかにすることである。現時点で彼が手にしているのは、<「思うこと」において「思われ」たかぎりでの「思われたもの」>のみ、すなわち端的に存立している「思われ」の全体(=「思うこと」)のみである。この「思われ」の内に、「思われ」自身を「起源」としているのではない何らかの観念があるかどうかが問題なのである。もしそのような観念がひとつでも存在していれば、それは「思うこと」に外部があること、すなわち他者が存在することを意味する。逆にそのような観念が見い出されないのだとすれば、「思うこと」という「絶対に疑いえない」とされたものがいかなるものであるかにとって、決定的に重要なことなのである。そうであれば、何を措いても真っ先に吟味すべきは先に「外来観念」と呼ばれたものである。それは「思うこと」の外部に存在する「物」に由来するように見えるからである。もしその通りであれば、「思うこと」には外部が存在することになる。これに対してデカルトは、物体についての観念をその典型とするような「外来観念」は、その名に反して決して「思うこと」の外部に何ものかが存在することを確かなこととして保証しない、というのである。もし「思うこと」の外部に起源をもつような観念が存在するとすれば、それは少なくとも物体的事実を典型とするような「外来観念」ではない。はたしてそのような観念が「思うこと」の中に存在しているであろうか。そこでデカルトは、あらためて「私」という「思うこと」の中に与えられている観念を列挙し、その各々に検討を加える。「私自身を私に示すもの」「神を表象するもの」「物体的で非生命的な事物を表象するもの」「動物を表象するもの」「私と類似の他の人間を表象するもの」。この内、第一の「私自身を私に示すもの」は「思うこと」そのものを示すものであるから、その起源もまた「思うこと」以外ではありえない。それは典型的な本有観念である。次いで検討されるのは最後の三つ「他の人間」「動物」「天使」を表す観念は、かりにそうしたものが実際には存在しなくても、「私自身」と「神」と「物体的事物」という前三者から、それらを適宜組み合わせることで容易に作り出すことができる作為的観念であり、そうであればそれらはその起源を「思うこと」の外部にもつ必要はない。そこでもう一度改めて検討すべきは「物体的事象」についての観念である。それらは夢でもありえ、夢であればそれらは私の単なる「思われ」にすぎないことを示していた。つまり「私」という「思うこと」から引き出すことができる、つまり本有観念を他のものに適用して作り上げた観念にすぎないことになる。すなわち、これらの観念の起源は、どう見ても「思うこと」の内に十分見い出すことできる。

こうして最後に残ったのが、「神」についての観念である。デカルトによれば神とは無限な存在である。それは「私」の有限性と鋭い対立をなす。そして「私」という「思うこと」の有限性のうちに無限なる神の観念が与えられているとすれば、そのような「無限」は有限な「私」の中のどこにもない以上、「私」の外にその「起源」を有することは明らかだ。すなわち、有限な「私」の内に現に「無限」についての観念が与えられている。だが有限な「私」の内のどこにも「無限」は存在しない。また、有限な「私」の内に与えられているどんな観念を組み合わせても、「無限」の観念を作り出すことはできない。有限な観念をどんなに組み合わせてもそれに収まりきらないもの、それを破ってしまうものが「無限」なのだから、この「破れ」は有限なものの外部からもたらされると考えるしかない。そうであれば、この「無限」の観念の「起源」は「私」の外にあることになる。すなわち「無限」なるものが「私」の外に存在する。デカルトは、彼にとって「絶対に疑いえない」と思われた「思考すること」がいったいいかなる事態であるのかを徹底して検証する途上で、その「思考すること」の内に「起源」を持つとは思われない一つの特異な観念に遭遇し、そこから「思考すること」の外部の存在を証明するに至ったのである。この証明は神の存在の「ア・ポステリオリな証明」と呼ばれる。

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