無料ブログはココログ

« 黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(6) | トップページ | 黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(8) »

2014年9月 2日 (火)

黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(7)

近年の戦国大名の戦争に関する研究の中で明らかになってきたことに、領国内の村も、大名の戦争に参加していたという事態がある。戦国大名の軍勢を構成していたのは、給人などの正規兵だけではなく、村そのものも大名に村の兵士を提供していた。軍事最前線に位置した境目地域では、大名・領主の「城」だけでなく、村の土豪の屋敷も防衛拠点として機能していた。その場合も、村や土豪に対して諸役が減免された。こうした事態も、境目地域における村と戦争との関わりにみられる特徴といえるであろう。

戦争が日常化していた領国境目地域では、村の土豪が、防衛拠点としいて取り立てられていたのである。さきほどまでにみてきたものは、戦国大名が村の武力を、自らの戦力として動員していた状況であった。いまここに防衛施設も、同じような状況にあったことが分かった。そうすると戦国大名の戦争においては、戦力も軍事施設も、大名・領主が恒常的に維持していた分だけでは、賄い切れていなかった様子がみえてくる。そこでは在地の村の武力や防衛施設が、恒常的に、正規軍や軍事施設を補完する役割を担っていたのである。このことが意味しているのは、そもそも戦国大名の戦争は、正規軍だけで成り立たず、当初から村の武力の動員を内包していた、ということであろう。

このことは、以後の豊臣大名や近世大名においても変わらなかったと見られる。よくいわれていることに、豊臣大名は、「兵農分離」を遂げた常備軍によって構成され手いたので、戦国大名に対して軍事的に優越していた、といったものがある。しかし、この理解も成り立たない。戦争のなくなった江戸時代、大名の江戸幕府に対する軍役負担は、参勤交代や普請役の負担にとってかわった。ところが、必要な人数を恒常的に抱えていたのかというと実態はほど遠かった。そうした場面になると、不足分については、領内の百姓を臨時に被官化し、帳尻をあわせていたというのが実情なのだ。つまり不足分を補うといった状況は、戦国大名のときとまったく変わっていない。そしてよく知られているように、幕末の戦争では、百姓が大量に武士化された。戦争は正規兵だけでは、どんな時代も行い得なかった、ということである。

坂色地域の土豪が、戦功を上げて大名・領主の家臣になったとしても、在村被官となっただけでは、基本的な属性は百姓のままであったから、当然のことながら在村を続けた。そうした存在が、他所では多くの所領を獲得して、存立の基本が給人という性格に変わり、大名・国衆に対して「常の奉公」を行うようになった場合、おのずから彼らが在村する割合は少なくなってくる。所領に見合った、様々な奉公を行うため、戦陣や大名・国衆本拠での勤務が生じてくるからである。

しかし土豪らの屋敷は、それまでとは替わらぬ本拠として維持され、いざというときに防衛施設の役割を担うことになったからである。これは上級の家臣の場合であっても事情はおなじであろう。戦国大名や国衆・被官が本拠との関係を切断することは、ほとんどなかった。こうした状況について、豊臣大名や近世大名の場合では、家臣・被官の多くが本拠から離れて城下に居住していることと比較して、戦国大名は後進的で、豊臣・近世大名は先進的とするような枠組みをはめたり、その背景に「兵農分離」政策の有無が持ち込まれることが多い。しかし、ことの本質は、戦争が日常であったかどうかの違いによるに過ぎなかった、と考えられる。

戦国大名の戦争で、軍時期には最前線にある地域においては、恒常的に村の武力の動員が行われていたという状況こそが、一般的な事態であった一方で、それとは状況が異なる地域もあった。それがその内側に展開していた戦国大名の拠点となる本国地域とその隣接地であった。そこでは、村人に対しての日常的ともいえる軍事動員は行われなくなり、軍事的最前線地域としての性格から解放され、そのような村人の軍事動員は必要なくなり、それらは家臣化した給人・被官によって果たされていくことになった。そもそも村への軍事動員は、中世を通じて、地域防衛と一体化する場合にのみ実現しうるものであった。このことからすると、すでに防衛戦争の存在が常態ではなくなった地域において、村の軍事動員が行われなくなるのは必然であった。戦国大名の戦争は、それらの地域から遠く隔たった最前線地域で行われ、その軍事力は家臣という正規兵によって担われる。それらの正規兵の多くは、本国地域の村出身者であったが、家臣化し、さらに知行を与えられて、兵に特化していく存在となっていく。ただしその一方で、被官関係を断絶して百姓としての立場に特化していく存在も見られた。このような本国地域においては、兵と百姓とに二分されていく状況が、地域平和の展開の中で進展していったと考えられる。

このような本国地域にあって、再び村の武力の動員が図られていく事態が生まれてくる。大名家の存亡の危機に際して、村に対して規定以上の防衛のための負担を強いたものである。「御国」論理を生み出した段階のことであった。「御国」にいて、その平和を享受してきたのだから、「御国」の危機には「御国」の維持のために働くべきだ、という論理を振りかざして、納得させようとした。このような本国地域に対するものは、村への軍事動員がみられない状況が常態化していた中で。領国存亡の危機にあって、改めて村への軍事動員を図るために生み出されたものといえる。

« 黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(6) | トップページ | 黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(8) »

書籍・雑誌」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(7):

« 黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(6) | トップページ | 黒田基樹「戦国大名─政策・統治・戦争」(8) »