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2014年9月18日 (木)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(3)

第1章 「われ思う」のは誰か

1.夢

今あなたが目の前に一冊の書物を見ているとする。その書物の色やかたちや大きさや…が見て取れる。また、手を伸ばしてそれを持ち上げてみれば、その重さやカヴァーの手触りや…が感じ取られる。このときの色やかたちや重さ…が当の書物の「ありのままの姿」を示しているのであれば、あなたはその書物についての「真理」を所有している。

いったいどのような場合にそれは「ありのまま」であって「それ以外ではありえない」、すなわちそれであることが「絶対に疑いえない」と言ってよいかをめぐって、デカルトの探求と吟味が開始される。この探求と吟味は、「真理」の探究であるはずのあらゆる学問がいったいどこから自らの営みの正当性を汲み取ってきているのかを明らかにする試みにほかならず、しかも彼に言わせれば未だ誰も、いかなる学問も、このことを一度も明らかにしていないのだ。なるほど、世の中には「本当らしく見える=真理らしく見える」ものがあふれている。諸学問にしても、事情は同様である。だが、それらが単にそう「見える」だけでなく、実際にそう「である」ことを、誰がどこでどのようにして保証しているのかは決して明らかではない。それほど、これを明らかにすることは困難らしいのだ。さきにもふれたように、「真理」とは或ものの「ありのままの姿」であるとは本当か、「ありのまま」とはそもそもいかなる状態のことか、「ありのまま」であることそれが「絶対に疑いえない」ことは果たして同じか、こうしたことはこの時点でのデカルトにとってあらためて問うまでもない自明の前提をなしている。

「絶対に疑いえない」ものを求めてのデカルトの思考の歩みとの対話を交わすにあたって、ここでもうひとつだけ、あらかじめ考えておきたいことがある。彼は自らの人生を「よりよく」導くためには、それによって生を支えることのできるある確固とした地盤が必要だと考えていた。「岩盤」であり「粘土層」である。諸学問もまた、こうした確固とした地盤の上に建設されねばならない。思考がこのように何かを「建築」することに比せられる営みであるとすれば、そのためにはしっかりとした土台・地盤を確保する必要があろう。つまりデカルトにとって「学」がそのような建築物であることは、はじめから明らかなこと、自明なことだったのである。だが、そうした「建築術」としての学をデカルトが哲学のあるべき姿だと考えたとしたら、どうだろう。哲学とは、本当に「建築術」であるべきなのか。

デカルトはこの途を歩むにあたって、一つの遵守すべき規制を自分に与える。今や私が追求しているのは、どんな疑いを束ねてかかってもびくともしない磐石の土台たるべき「絶対に疑いえない」ものなのだから、逆にほんの僅かでも疑いの余地が残るものに対しては断固としてこれを「偽」とみなし、斥けなければならないというのである。もちろんこれは、少しでも疑いのない余地が残るものはすべて「偽である」と言っているのではない。何かを「偽である」と認定するためには、それに足る十分な根拠がなくてはならない。しかし、今自分が探し求め、吟味しようとしている「絶対に疑いえない」ものに関しては、少しでも疑わしい部分があれば、それは少なくとも「絶対に疑いえない」とは言えない。そこでそうしたものはさしあたり一挙に考慮の外に置くことができる。これが、「偽とみなして斥ける」という操作である。

単なる懐疑あるいは疑うためだけの疑いではなく、「絶対に疑いえない」ものを求めての疑いである限りで、それは「方法的懐疑」と呼ばれる。したがって、そこで偽とみなされたものは、そのことをもって全面的に偽であるわけではない。ここでは判断における「偽」の力がいわば弱められており、だからと言ってそれが「真」であるわけでは当然ないのだから、真・偽のいずれにも属さない次元が指し示されている可能性がある。

さて、方法的懐疑による最初の吟味の対象となるのは、感覚を通して与えられたものである。私たちは、自分たちが生きているこの世界の様々な対象に、五感と呼ばれる感覚器官を通して接している。このような感覚器官を通したものにおいて、見間違いや聞き違いも経験している。そうだとすれば、感覚を通して与えられたものは、そのままでは決して「絶対に疑いえない」ものではない。それらは「偽とみなして」斥けられねばならないのである。

しかし、そうした個々の錯覚を含みつつもそこで私たちの現実認識が行われている現実世界全体の存在が疑わしいとは誰も思ってないのではないか。そうであれば、次に吟味すべきは、個々の感覚の対象の存在ではなく、私たちが全感覚を挙げてそれに接触し、それどころかその中に自分たちもまた存在していると思っているこの現実世界の全体としての存在である。そこで、デカルト考える。この現実世界の全体としての存在それ自体が、一個の夢見られたものである可能性はないのか。夢の中の出来事は錯覚の一種として、現実世界とははっきり区別される。だが、いったい何が夢と現実を区別しているのだろうか。夢を見ていても、その夢の中に出てくるどれをとっても、それはそれで現に起こっていることのように思われる。そこで、夢と現実とを分かつ唯一の基準は「醒める」という体験を措いて他にはない。夢は醒めた後ではじめて、それと知れるのである。しかし、このことは重大な帰結を孕んでいる。もしそうであれば、この現実が現実であって決して夢でないと断言することは原理的に不可能となるからである。何かがありありと目の前で起こっていることは、決してそれが現実であることを保証しない。それもまた夢であって、それから醒めてしまう可能性を排除しないのである。したがって、私たちは、醒めたものに関してのみ、それを夢と断言する権利を持っているにすぎない。そしてそれ以外のものは、<いつ醒めるかもしれないし、醒めないかもしれない>という宙ぶらりんの状態にとどまらざるを得ない。つまり私たちが現実と呼んでいるものは、単に<今まで醒めたことがない>ということのみをもってそう呼ばれているにすぎず、その権利上いつ醒めてもおかしくはないのである。現実は、いつそれが夢となってもおかしくはないのだ。

このように考えてくると、いわゆる「夢中夢」の経験も納得がいく。夢の中には、夢を見ている最中に「これは夢だ」と思われるような夢も存在する。だがこれは決して、夢が夢見られている最中に、すでにそれが夢であることが知られているわけではないことに注意しなければならない。何かが現に目の前で生じている限りで、それはそのようなものでしかありえないのであって、それが夢の中の出来事であって現実に起こったことではないと知られるのはあくまで醒めた後のことである点は動かない。つまり、「夢中夢」は実は<「夢から醒めた」という夢を見ている>のであって、そのかぎりで醒めた方はすでに夢として知られているが、その醒めたという経験自体が夢であることがまだ知られていないのである。

夢から醒めたという経験自体が夢の中の出来事であることが知られるためには、もう一度醒めなければならないのだ。これは、夢と区別されて通常私たちが現実だと思っているものが、再びそこから醒めてしまって夢となる可能性はいつも保留しているのと、構造上まったく同じである。そして、再び醒めることによって出会った現実なるものが、またしても夢である可能性はいつでものこっているのだから、「夢中夢」の夢、「『夢中夢』の夢」の夢…現実は、その確固たる存在を失う。

もはや明らかであろう。個々の感覚を通して私たちに与えられるものが「疑いうる」ばかりではなく、私たち自身がその中に存在すると思われている現実世界の全体としての存在もまた「疑いうる」ものなのであり、方法的懐疑を前にしてそれは斥けられねばならないのである。ここにはいくつか注目すべき点がある。今や現実世界に属すると考えられているすべては「疑わしさ」を免れ得ないのだから、通常そうした現実世界に属すると考えられているすべては「疑わしさ」を免れえないのだから、通常そうした現実世界に属すると考えられている他人たちの存在もまた斥けられねばならないということがその第一である。だがそれだけではない。私たちは通常、私自身もまた現実世界の一員だと考えているはずである。そうだとすればここで、現実世界の一員と考えられている限りでの私自身の存在もまた今や「絶対に疑いえない」ものではなく、方法的懐疑を前にして斥けられねばならない。換言すれば、今後あらためて方法的懐疑の途上で「私」なるものが登場するとすれば、少なくともそれは現実世界に属する限りでの私ではないことになるのである。

もうひとつ、夢の懐疑をめぐって考えておきたいことがある。先に見たように、夢の夢の夢の…とどこまでも、現実と思われたものが再び夢へと転化する可能性がついてまわるとしても、だからといって「すべてが夢である」とは決していえないということである。そのことが言えるためにはどうしても、それらはすべてを自らとの対比の中で夢として画定させる「現実」なるものが、その手前に姿を現していなければならないからである。ところでこれまでの考察で明らかになったのは、どんな「現実」もそれが夢である可能性を排除できないということであった。とすれば、すべてを夢として確定させる「現実」なるものもまたありえない、ということに他ならない。この世のすべては、それが夢であるかもしれない可能性に開かれたまま、だが夢であるのでもないのである。

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