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2014年9月20日 (土)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(5)

3.「私」とは何か

普通「私」といえば、それは人間である限りでの一人の人物の誰か、その当人のことと理解されるだろう。ところがデカルトは早速、私とは人間のことではない、というのだ。方法的懐疑の極点で出会っているものは人間ではありえない。なぜなら人間とはこの現実世界の中に存在するものたちの一種であって、しかも理性を備えたものということになっているが、そのような現実世界の存在や理性といったすべてが夢と狂気の想定の下で潰え去った地点に立っているからである。

「私」は人間でもこの身体のことでもない。ではいったい「私」とは何のことか。「私」ということで思いつくものをひとわたり列挙し、それらを斥けた後、改めてデカルトは問う。「思考すること」はどうか。このように思いを巡らしつつ、再び彼は先ほどの「私は何ものであると私が思考するかぎりでの」という限定に戻ってゆく。「ここに私は見つけ出す、思考がそれである。ただ思考だけが私から引き剥がすことのできないものである」。だが、仮はここでもただちに問い直すことを忘れない。「私」とはそのような「思考するもの」であり、それを「精神」「心」「知性」「理性」と言い換えてもよいが、「それに以前には私にその意味が知られていなかった言葉、つまり単なる音なのである」、と。そこで、彼は「思考するもの」とはどのような「もの」なのかを、想像力を駆使して捉えてみようとする。ところが、この試みはことごとく失敗せざるを得ない。それは私たちが「物体」としてすでに知っている「もの」の像を形成することにしかならないからである。ところが方法的懐疑の極点で出会った「私」は、そうした「もの」のいずれかでもなかった。ここでデカルトは「もの」を物体のレヴェルで考察し・斥けているが、事情は物体のように知覚される現実世界に属すると想定されているものにおいてばかりではなく、理念的な世界においても替わらないはずである。したがって、「私」はいかなる意味でも、「もの」ではないのだ。

「私」とは想像力が私に見せてくれ何らかの「像」としての「もの」ではないことを確かめだデカルトは、翻ってむしろ「私」とは、その想像する力を含めて、疑ったり、理解したり…する当のもののことだという。この「当のもの」を彼は言い換える。それは「想像されたもの」との対比で言えば、「想像する力それ自体」だと言うのである。デカルトはついに、「私」とは想像したり、感覚したり、疑ったり、理解したり…するそのような「力」ないし「働き」それ自体であることを突き止めた、と言っているのである。こうしてわたしの見るところ、方法的懐疑の到達点をはっきりと示す決定的な言葉が述べられるに至る。

何かが何らかの仕方でそのようなものと「思われ」たのであれば、そのような「思われ」の中で「思われ」た「もの」が実は「思われ」た通りの「もの」ではなく、そのかぎりで欺かれていようとも、現にそのように「思われ」ていること、そのことは、もはや「絶対に疑うことができない」と言うのである。ここで「思われる」と言われている事態こそ、「私」の本質だとされた「思考すること」の内実なのである。ここでデカルトは、もはや「私」を思われた「もの」とも言っていないし、思う「もの」とも言っていないこと、あくまでそれを「…と思われる」という「思うこと」として捉えている。この決定的な言葉に続いて、デカルトが、この「思われ」を「感じること」と呼び変えている点も、注目に値する。ここで呼びかえられた「感じること」は、方法的懐疑の最初の段階で斥けられた「感覚すること」ではありえない。それは新しい意味をまとった「感じること」なのである。この呼び換えに注目するのは、すでに「思われる」と言う表現の中に孕まれていたある種の受動性、「思考する」と言う言葉の中では能動性が前面に出てしまうために聴き取ることのできないある種の受動性が、この究極の事態の中に読み取られている点を考えてみたいからなのである。また、「思考する」という通常の意味で理性的な営みに限定されてしまう恐れがあるが、それを「感ずる」と言い換えることは、その限定を取り除くことを意味するからである。私の存在そのものが、「感ずること」なのだ。

ここで、立ち止まって、もう一つ別の問題を考えてみたい。今や「私」は現実世界の一員のそれではなく、端的な「思考すること」「感ずること」である。今「端的な」とわざわざ述べたのは、普通「思考すること」といい「感ずること」といえば、それは世界内の一人物であるかぎりでの人間としての私が行う振る舞いのことを意味してしまうからである。そのような理解を禁ずるための符牒が、この「端的な」だと考えてほしい。デカルトが言わんとしているのは、「思考し」たり、「感じ」たりするのが人間としての私であるか否かは疑おうとすればいくらでも疑えるのに対して、いま・ここで端的に「思考する」「感ずる」という事態が出現してしまっていることだけはいかにしても疑うことができない、ということなのである。実は「いま・ここに」という表現も危険である。普通「いま・ここ」と言えば、それはこの世界の内部の特定の時刻と特定の場所を指してしまうからである。そのような世界内の特定の時刻や場所でなく、それとの関係ではじめて「いま・ここ」がたまたま世界内の特定の時刻や場所であったり、そうでなかったりするような「いま・ここ」を示す「端的な」なのである。

では、あくまで「思考するもの」とは区別された「思考すること」とは何か。さしあたり言葉の上では両者は区別されている。だが、「思考すること」そのことそれ自体として考察することは本当にできるのか。この疑問をもっと簡潔に言い直せば、「思考すること」を「思考すること」はできるのか。それは結局のところ、何らかの「思考されたもの」を「思考すること」にしかならないのではないか。方法的懐疑の極点において究極の事態として名指された「思考すること」は、実はそれ自体としてはいかにしても「思考すること」ができないものだったのではないか。それは、主題として浮かび上がった「思考されたもの」の背後にあたかも「地」のように引くことによってのみ、自らを成就する事態なのではないか。「地」であるかぎりでのそれを見ようとしても、見て取られた時にはそれは「図になってしまっているのだから、この意味で「決して見えないもの」、それをデカルトは「決して像とならないもの」と呼んだのではなかったか。

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