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2014年9月19日 (金)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(4)

2.狂気

次にデカルトが検討するのが、感覚を通じて接近されるそうした世界とは独立に、それ自体で存在していると考えられる「理念」の世界である。「理念」とは、知覚される個々の経験対象とは独立に、私たちがそれを思考するかぎりでそれ自体で存在しているとかんがえられる普遍的なものである。たとえば、「美しさ」は一個の理念である。私たちの現実世界には様々な美しい「もの」が存在している。このような多種多様な、無数の個々の「もの」が美しくありうるわけだが、「美しさ」そのものは一つである。もちろん「美しさ」にも、かたちの美しさ、色の美しさ…等々を考えることができるが、それでもそれらのかたちや色が「美しい」と言われるかぎりで、「美しさ」自体は一つである。また、現実世界に属するとされる個々の対象は時間の流れの中でいずれ失われてゆかざるをえないが、「美しさ」そのものは時間の流れの中で失われるものではない。かりに「美しさ」の内実が時間の流れと共に変化していったとしても、「美しさ」自体が変化したわけではない。そうでなければ、美しさの内実の変化について語ることすら不可能になってしまおう。この意味で理念は普遍的と呼ばれる。ここで普遍的とは、いつ・どこで・誰に対しても、まったく同じものとして通用するというほどの意味である。

こうした理念の典型として、数学的な対象の世界を考えることができる。1という「数」は「もの」ではない。1本の鉛筆や1枚の紙は「もの」としてこの現実世界に存在しているが、1という「数」自体はそのような「もの」として現実世界に存在してはいない。現実世界のどこを探しても、1という「数」そのものに出会うことはできないのである。それは、現実世界の中に存在する「もの」たちとまったく別の仕方で存在している。それは思考されるかぎりで存在しているのである。このように理念の典型としての数学的対象が現実世界の存在とは独立に、すなわち現実世界が存在しようがしまいが、あるいは現実世界の存在が疑わしかろうかどうであろうが、そのこととは無関係にそれ自体として存在している。感覚や知覚を通して接近しうると考えられる現実世界に関わる吟味を終えたデカルトが次に目を向けたのが、こうした理念の世界なのである。この命題の確からしさは、現実世界の存在よりも程度が高いと思われる。

だが、デカルトの答えは「否」。その理由は単純である。数学においても私たちは誤り得るからである。個々の感覚対象に関して私たちが見間違いを犯しうるのと同じように、個々の数学的問題に関して私たちが誤ることはいくらでもある。

だが、理性の水準器かけて測る限り、加法の計算法則自体に誤りはない。十分理性的に理解可能なもので、それにもかかわらず誤りがあるのか。

個々でデカルトが持ち出すのが「欺く神」ないし「悪しき霊」である。もしかしたら私たちの世界も、その中に存在する私たちも、そして私たちが持っていると考えられている理性も、すべては神が創ったのかもしれない。もちろん方法的懐疑のこの段階では神の存在は証明されていないが、そのことは決して神が存在しないことを意味してはいない。もしかしたら神が存在するかもしれない可能性は残ったままなのである。したがって、私たちの理性がひょっとしたらそのような神によって創られたかもしれないと想定する余地は十分にある。ところでその神が「欺く神」であって、私たちの理性をそもそも根本から誤るように仕立て上げたのだとしたら、どうか。計算法則はそもそも誤りであるのに、私たちにはそうとしか思われないように私たちの理性を仕組んだという可能性まったくないのか。デカルトは、ここでは私たちの理性が今般から誤っている可能性を問題としている、さきほどの夢とちがって、その状態から醒める可能性を根本から絶たれている、「狂気」としか言うほかない状態といえる。

もはやこのときには、「真理」に接近するあらゆる途は断たれているように見える。感覚も理性も今や信用してはならないのだとすれば、もはや私たちのもとには「本当らしく=真理らしく思われるもの」はあっても、「絶対に疑い得ない」ものは何ひとつ残っていないのではないか。すべては疑わしさの闇の中に没し去ろうとしているのではないか。方法的懐疑は今や夢の想定から狂気の想定へと一段階その疑いの勢位を高めて、すべてをその内に吞み込もうとしている。だがこのとき、デカルトは次のことに気付いたというのである。もし私たちの理性がそのように根本から欺かれ、来るってしまっているのだとすれば、少なくともそのようにして理性が欺かれた私は存在するのでなければならないはずではないか。そうだとすれば、「私はある、私は存在する」というこのことだけは、今や「絶対に疑いない」と言ってよいのではないか。

しばしば『省察』の中の「<私はある、私は存在する>」とその直前にある「私は何者かであると思考するであろうかぎりで」を結びつけて、「私は考える、ゆえに私は存在する」が方法的懐疑の果てにデカルトが辿り着いた最終的命題だといわれている。そして実際彼自身も、『方法序説』や『哲学原理』ではそのように述べている。しかしだれでもすぐ気付くように、「私は考える、ゆえに私は存在する」が一見すると「ゆえに」で繋がれた推論のように見えるのに対して、『省察』での表現はそのような推論の形をとっていない。そうではなくて、先の命題の「私は考える」の部分は、「私は何者かであると私が思考しうるであろうかぎりで」という限定の文章として、「私はある、私は存在する」を装飾・限定しているのである。『省察』に従う限り、方法的懐疑の果てにデカルトが到達した命題は「私は考える、ゆえに私は存在する」て゜はなく、先の限定をともなったかぎりでの「私はある、私は存在する」なのである。そのような目で「私はある、私は存在する」を眺めてみると、それは決してデカルトの最終到達地点を示してはいない。いや、正確に言いなおすと、この命題のもとにいったいどのような事態を理解すべきかは、いまだまったく明らかではないのだ。

 

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