無料ブログはココログ

« ジャン・フォートリオ展(1) | トップページ | ジャン・フォートリオ展(3) »

2014年9月 5日 (金)

ジャン・フォートリオ展(2)

第1章 レアリスムから厚塗りへ(1922~1938年)~レアリスム

Fautrierport_2まずは、会場に入ってすぐに見ることの出来るのが、展示されている作品の中で最も早い時期に制作された『管理人の肖像』です。何か異様な感じが濃厚に漂う作品です。描き方そのものは写実的で、形態などはレアリスムそのもので達者に描いているのですが、どこか写実の枠に収まり切らない過剰さのようなものがあるように感じられます。顔や組み合わされた両手の筋肉の陰影の濃淡が、まるで筋肉標本のように強調されていて、顔がまるで骸骨のようにも見えてきます。しかし、筋肉の動きから表情らしきものも見えてきて、その双方が共存しているところに人間離れしたものに見えてくるほどです。実際、唇に感じられる表情や手の組み方、目の表情から想像できるのは年齢による経験を積んだ上品な婦人、という印象を受けるのです。さらに、このような描き方に鈍いグリーンの顔の色遣いと、深いグレーの両手がまた異様で、黒い衣装を身に着け、背景のグレーの平面的な壁との間の空間が感じられないような奥行のない描き方がされています。これらから、フォートリエは単にレアリスムによる写生をしようとしたのではないことは確かだと思います。そこに、過剰さといのか人工的なものを強く感じ、それが作品画面を見た時の異様な印象を起こさせているのだと思います。とにかく、最初のところで、フォートリエということのレアリスム、現実を写生することから溢れだしてしまう何ものかを強く感じさせられました。ただ、フォートリエと言う人は、あくまでレアリスムに基盤を置いた人で、決して幻想的とか理念的と言う方向から来た人ではないということは、この作品を見て、よく分かりました。

Fautriersazanここでの最初期の展示は、後のフォートリエになっていく前に彼自身が自分の中に過剰なものを抱えて様々な要素を追求しようとしたことが分かる作品が展示されています。例えば、『玉葱とナイフ』(左中図)という作品では、『管理人の肖像』にあった過剰なほどの写生的な精緻な描写は影を潜めて、もって大雑把に玉葱やナイフの形態を掴むようになっています。まるで、セザンヌの晩年の静物画(右図)を思われるような、玉葱やナイフの形状を取り出してみせて、それらのある空間を写すのではなく、形状によって画面を再構成しようという。そして、さらに付け加えれば、玉葱やナイフといった物体としての量感を、その細部の描写とか表面的な質感よりも力をいれているような描き方をしているように見えます。

Fautrieroignons_4そして、人物画では『愚か者』『森の中の男』あ(左下図)るいは『セットの幼い娘』といった作品。とくに『愚か者』という作品がそういう性格が強いのですが、人物を正確に描写し、顔の特徴とか衣装や小物といったディテールから人物の社会的地位といったものを削ぎ落とし、そこに一人の孤独な人間が立っているということの抒情性という風情。とはいっても、表情が憂愁を帯びたものとなっていることで生活感とかから人生の抒情性とまでは言いませんが、それに近い印象のものを描こうとしていた、それはまるで初期のピカソの哀しみを漂わせた人物画(右下図)を彷彿とさせるようなものでした。

そして、人物では『後ろ姿の裸婦』(下図)といった油絵や『左を向いた裸婦』といったドローイング作品。ここでは、ヌードという衣装のような人間が身にまとわせるものを取り払った裸の姿が描かれています。ここでは上でみた人物像からさらに裸になった人間の姿を描こうとしているように見えます。そこでの描き方は、静物を空間から切り離して形状と量感とで描こうとしたのと同じように、人間をとりまく様々な関係とかいったものと切り離して、その肉体を重厚な量塊として捉えて、その重さを明暗の対照の中で暗さに重心をのせて表現しようとしたように見えます。それは、喩えて言えば、人間がそこにいるという存在を何とか抽出しよう。その際人間が社会的存在であることから、地位とか、名声とか、富とか、性格とか、人生とかがついてまわって、どうしても単なる一人の人間として裸にすることが難しい。ただし、そういうものを削り落としたところで露わになる存在そのもの、そういうものを描こうとして、肉体の量感とか、憂いの表情とか、いろいろなものでそれが感じられるものを探していたのではないか、と私には思われます。

Fautrierforet_3ここで、比較としてあげたセザンヌやピカソといった画家たちは、写実から様々な実験と試行錯誤を繰り返し、独自な絵画の道を進んでいきました。彼等は見たものの外形にこだわるような方向を進めました。それはものの形状であったり、色であったりという要素です。それを、例えば立体の向こう側を見ようと、視点を複数化したり、分析的に、それこそ立体を展開図のようにしてみたりしてみました。その底流には、感覚のなかで見るということを第一に考え、その見るという感覚でものごとを捉えようとする、という考え方があるように思います。もののあるべき姿を本質として、その本質をものの“かたち”すなわち、形相という要素から第一に捉えるという考え方です。たとえば、イデアという理想の理念を説明するときに、机のイデアと言えば、職人が頭の中で作るべき机の姿、つまり理念的な机の“かたち”があって、それによって職人がつくる個々の机が実際の机であるという説明です。そういう形相を認識するための感覚として視覚が第一のものと考えられてきた。そういう考え方があって、ものごとの外形を本質として認識していくという考え方のベースの上に乗っているものと考えていいと思います。絵画というものが目で見るというものである以上、それは仕方のFautrierpicasoないものでもあるでしょう。しかし、私たちの感覚的な行為を思い起こせば、ものを目で見たあとに、手で触って確かめるということをよくやっているのではないか、と思います。これは、多分最終的な確認作業は手で触れてみるという触覚の方に、視覚よりも信頼を置いているということかもしれません。それは、もしかしたら、ものというのを本質ということで認識するのではなく、そこに在るということの方を重要としているのかもしれません。もしそういうことであれば、見るということを第一に、ものの“かたち”を言うなれば特権化するようにして、ものの本質をまず捉え、そしてそれを表わそうとするものとは違う表現のあり方があってもいいのではないか。セザンヌやピカソたちが進めていった絵画運動とは方向性が異なった、別の方向性、ジャン・フォートリエの絵画の試みは、実はそういう異質な方向に向かおうとしたのではないか、と考えられる点があります。それは、例えば『後ろ姿の裸婦』にあるような、人間の身体の量感をまず強調し、裸体という身体表現を理想的な身体を表すというのではなく、個々の人がここに在るという存在感をまず第一に感じ、それを優先的に表わそうという方向性を強く感じさせるものになっていると思います。つまり、西欧の一般的なものを本質から見るということを第一に考える姿勢から、本質云々を議論する前にものが在るということがその前にあるのではないか、という姿勢です。もっというと、本質とか理念とかの“あるべき”というのから、じっさいにここに“ある”ということです。そのために、フォートリエは形状ではなく、色でもなく、そしてまた実は量感でもなく、存在そのものとして表現するにはどうしたらよいのか、ということが彼の方法を形作っていったのではないか。ここで展示されている様々なフォートリエの試みを見て感じました。この後のフォートリエの作品との直接的なつながりがすぐ分かるというものではありませんが、この初期の作品は彼の方向性を色々と想像させてくれるたのでとても興味深く鑑賞することができました。

Fautriertoilette_3

« ジャン・フォートリオ展(1) | トップページ | ジャン・フォートリオ展(3) »

美術展」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: ジャン・フォートリオ展(2):

« ジャン・フォートリオ展(1) | トップページ | ジャン・フォートリオ展(3) »