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2014年9月 6日 (土)

ジャン・フォートリオ展(3)

第1章 レアリスムから厚塗りへ(1922~1938年)~黒の時代

Fautriermaerafu年代で言うと、1925年から26年にかけて制作された作品を見ているとフォートリオの作風に断絶のような大きな変化があったのが分かります。『前を向いて立つ裸婦』という1927年の作品を見てみましょう。それまではキッチリと描かれていた顔の造作や表情はぼんやりとしていて、かろうじて頭と分かる程度、全体にそのような描かれ方で裸体の女性が腰に手を当てて立っています。その女性がいるのがどのような場所なのかを示すようなものが何も描かれていないで、ただ暗い背景と女性の周囲を隈取るように逆光の明るみが囲んでいます。このように女性の立っている空間は現実感を欠いて、画面上で設えられた扁平なものでしかなく、平坦な画面にぼんやりとした量塊をもった人間の存在そのものを抜き出して表わしているように見えます。これについて、解説の説明を以下に引用します。

“フォートリエの眼は、前年の1925年の作と比べてみると一目瞭然のように、具体的な対象への観察の性格を変えている。言い換えれば、レアリスムの質が明白に変化している。それまで人物を描くにしても人間の存在を重厚な量塊として捉え、その重々しさを明暗の対照の中で暗さに重心を乗せて表わし、人間の表情も憂愁を帯びた生活感を漂わせていた。それが1926年に入るとも人物像からは表情が消え、裸体を描くにも、それらが位置している現実の場を表わす空間の装置が奪われて、絵画という仮構された場─というより絵画を成立させる物質がつくりだす別の現実の場─に移される。対象の形態を表わす時にも、輪郭は明確さを失って、頭部も身体も、あるいはときに静物も、細部を溶かされた物質の塊のように描かれる。しかもそれらは、色彩の現実性を薄めて、重々しさを持たない。この変化の内実が何であろうかと考えると、いま端的に言えば、画家の関心が現実優先から転換し絵画自体の現実に向けられるようになったことにある。その点でレアリスムの質がかわったのである。その転換が生じるまでの画家の眼は、身近な対象を捉えることを通し、地に生えて引き抜くことも出来ない鈍重でさえある現実に拘り、そういう現実こそ自らの絵画の根拠となるものと思いなしてその存在の様相を探っていた。それに対して、絵画優先に移行したというのは、画家が絵画の上に表わし出そうとすることが、外側の現実、あるいは現実の外観てはなくなり、眼差しの捉えた現実を内側に取り込んで、画家自身の解釈、絵画の必要性、絵画的論理といったもので濾過した現実のもうひとつの姿になったことに他ならない。そこでは、絵画の空間は現実の空間をなぞらない。絵画はそれ自体の空間をもって、その中で対象を生動させていく。そして対象もまた、現実に縛り付けられる根を絶って、形態も色彩も絵画にとって効果的なものへと自由に装いを変えていく。絵画に効果的であるというのは、画家が抱く絵画観に従って作動していく眼と腕が画布の上で具体的なものとなるとき、現実を参照しながらも画家の想い描く絵画の必要に合わせて対象を現実から解き放っていく作業を含んでいる。そのことがフォートリエの中で明らかに意識される。別の言い方をすると、この時点でフォートリエのレアリスムは、現実の外見に則して描写するという最も通常の意味での現実から、絵画自体がいかに現実性をもつかを問うことに方向転換をする。現実は絵画の手がかりとはなるが、画家の意図はとこにとどまらない。確かな存在を持つものとして絵画をつくりあげる、しかもそこに自らの外界に対する見方を印していく、それが画家の最大の目論見になっていく。フォートリエは、絵画にそういう意図を込めて自らの絵を変容させ、その後の絵画にそのことを生涯一貫させた。”

Fautrierjacoかなり長い引用になってしまいましたが、この展覧会の章立てがレアリスムとされているから、レアリスムの変容という視点でフォートリエの作品を一貫して見ていることから、こういう説明が出てきたのだと思います。誤解を恐れずに単純化して要約すれば、フォートリエのレアリスムは1925年以前は見たものをそのまま画面に写すことに近かったのだったが、ここで画面に描かれたものに現実を感じさせるであるという発想の転換があったと、言ってみれば、絵画の画面上で現実っぽく見せるためには見たままを写すことではなく、現実っぽい描かれたものにするために対象の見方が変わってくる。そのことで、描く対象を観る眼に自由さが生まれる。というようなことだと思います。フォートリエの絵画制作に大きな転換が、この時点であったということ、その中身を具体的な作品を通じて追いかけようとしていることに納得性の高い説明だと思います。ただ、私には、その際に絵画作品の上での現実性とは何であるかがうまく説明されていないので、左の画像に現実性を見る人が感じることができるのか、と問いたくなります。例えば、年代は全く違いますがジャコメッティのひょろ長い人物彫刻を、私はフォートリエの、このような作品(右図)を見ていて思い出していました。たぶん、私にはフォートリエの作品にレアリスムを感じるということがもともとなくて、例えば、彼が人物を描くときに、人物の形態とか色といった、その人が他の人と区別する目安というのが、他の人のではなく、その人であることを示すようなもの、これを存在に対する「本質」というヨーロッパの考え方の伝統がありますが、その本質よりも、その人がここにいるという「存在」をまず重視して描こうとした、そのように見えたのです。ただし、「その人が存在する」というのは「あの人が存在する」とは違うので、どうしても「その人」であるという本質をなおざりにすることはできません。そのような折衷的なものが残っていたのが1925年以前の作品だったと思うのです。しかし、「その人が存在する」という命題について、1926年以降のフォートリエは後半の「存在する」に重心をさらに移していきました。「その人が存在する」と「あの人が存在する」は「その人」と「あの人」が違うのだけではなく、「その人が存在する」のと「あの人が存在する」のとは、それぞれ「存在する」というのが別物であるということなのではないか。そうであれば、1925年以前の作品で折衷的に残されていた本質に関する部分、つまり外形とか色とか、そういうもので「その人」であることを区別させる必要はなくなります。そこで必要でないものを捨て去った。かといって、そもそも「存在」というのは目で見るだけのものではない、また、すべて見ることの出来るものではない、ということであれば目で見える現実というものから離れていってしまうことになる。そのため。見た目で特徴的に区別することが難しいものとなる。その結果がフォートリエのぼんやりとした平面であったり、ジャコメッティのひょろ長い人体彫刻だったりということになったのではないか、ということを、私は、これらを見て感じたのでした。かなり、説明が抽象的で、個人的な感じ方によるものだったので、これを読む人に舌足らずになってしまわないために、敢えて煩雑になるのを覚悟して長い引用で一つの議論を理解してもらって、それへの反論の形で説明をさせていただきました。

Fautrierrabit『兎の皮』(左図)は静物画ということになるのでしょうか。黒の時代という言葉通りに真っ黒な中に、兎の皮が5体吊り下げられています。まるで黒い空間の中から浮き上がって来るようです。ただ、描かれているのが兎の皮であることは作品タイトルがなければ分かりません。精緻に写生がしてあるわけではなく、そのような塊が吊り下げられるように描かれてある、というだけなのです。これは、シャルダンの初期の静物画に似たような吊り下げられた動物の肉を描いたものがありますが、それは形の面白さと典型的な情景ということがあったと思います。両者をみていると、同じ題材なのに、こうも違うのかと驚かされます。しかし、シャルダンのこの作品について、人は存在の真実を描こうとしたと評しているのです。たしかにシャルダンの作品をよく見てみると、肉の各部分の質感の違いを丁寧に描くではなく、シャルダンはごく大雑把に、そこに塊があるとでもいうように描いています。そういうことを考え見ると、フォートリエの作品というのは、現代に特徴的というのではなくて、絵画の伝統のなかで、細々とではあるかもしれないが、常にあった伝統のひとつの流れの中から生まれてきたと言えるかもしれません。

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