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2014年9月24日 (水)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(9)

ここでデカルトは。観念からその外部を推論しているのではない。そうではなく、「思うこと」が一個の全体として存立していることを見て取ることそのことが、「無限」が痕跡としてその「思うこと」に「触れて」いることなのだ。「思うこと」の端的な存立と、そこに「無限」が「触れて」いることは、コインの両面のように切り離しえないのであり、両者は同じひとつのことなのである。

デカルトの議論はここで、「私」はそうした「完全」にして「無限」な神を<包摂するという仕方で理解>はできないにしても、「知解」はできるという方向に進む。そしてそのような神の観念を「私」の理性が「知解」するなら、その完全にして無限なる神は「存在」する、と結論する。この場合の「知解」や「証明」は両義的であるつまり、明白と思われる概念規定(観念内容)や論理法則に基づいていたそれなのか、それとも「思うこと」の絶対の疑いなさを見て取った時と同じ次元(「私である」ことの次元)でのそれなのか。この両義性は、彼がその「存在証明」において、推論規則を自覚的に用いている以上、最後までついて回る。

そこでもう一度彼の「無限なる神が存在する」という言葉に聴いてみよう。それは、「<包摂するという仕方で理解>することが不可能なものの観念を私は明晰・判明に見て取る。したがってそのようなものが<存在>する」と言っているはずである。そしてこの言明は、二通りの読み方を許す。一方から読めば、それは次のようなことを言っていることになる。「<包摂するという仕方で理解>することが不可能だと明晰・判明に<知解>された当のものが<存在>する」。つまり「理解不可能」であることがはっきりと知解されたものが、まさにその明晰な「知」においてその「存在」を保証されるのである。この場合の「知」から「存在」への通路を保証しているのは、先に見たある種の因果性である。そのような「知」が観念を介して与えられているのであれば、もはや「私」の内に包摂されない理解不可能なものが当の観念の原因ないし起源として「私」の外部に「存在」しているのでなければならない、というわけだ。そしてこの場合の「知」は、紛れもなく「思われること」の内にある。

だが、この言明を別の方向から読めば、次のようになるはずである。「<包摂するという仕方で理解>することが不可能」なものは、文字通り「理解」できないのだから、それが何であるかが分からないものに、「存在」するという明らかに「理解」可能な述語を帰属させることはできない。帰属できるなら、そのかぎりでそれはすでに理解されてしまっている。「無限」とは、「理解」をこととする「私」の理性をはみ出し・破り・凌駕してしまうことの謂いであったのだから、それは何かであることのないものである。したがって、そのようなものに思考が出会ってしまったことのみを、ここでの「存在」するという述語は示しているのだ。というのも、この言明で主語の位置に立つ「無限」が文字通り「理解不可能なもの」である以上、それにどのような述語を帰属させても、この言明の全体は「理解不可能」なままにとどまるともいえるからである。つまり、理性の面前に或る「理解不可能」な言明がただ置かれているだけなのであり、このことがすなわち「思うこと」である。つまり、理性の面前に或る「理解不可能」な言明がただ置かれているだけなのであり、このことがすなわち、「思うこと」である「私」が、その「思うこと」の内にいかにしても回収しえない外部に直面したことを証しするのだ。この言明は、思考がその言葉の厳密な意味で「理解不可能」なものに「触れ」てしまったことのみを証言しているのである。このことをデカルトは「知解」と述べたのである。

彼の行った「神の存在証明」は、もはや存在として理解しうる何者でもなければ、ましてやその存在を証明しうるものでもないような何かに、そのような仕方で「私」が「触れ」てしまったことを、そしてそのことのみを証言しているのではないか。それは、彼が徹底して「思うこと」すなわち「私」というもはやその外部が存在するとは思われないものに沈潜し、その自己充足に徹することによってのみ、僅かに可能となったのである。

観念の起源、つまり「思うこと」の外部の可能性をめぐるデカルトの思考の中で「無限」が決定的な役割を果たすのは、それがもはや理性によって何かとして限定・規定されえない事態を、すなわち理性によって理解されえない事態を指し示しているからである。つまり、「無限」は、「思うこと」の文法が破壊されている可能性が問題となった次元と正確に重なり合っているのだ。したがってデカルトが語る「無限」は、しばしば私たちが口にする無限でもなければ、現代数学で言う無限など様々に論じられているそれらのいずれでもない。それらはあくまで「思うこと」の内部、すなわち理解可能なものだからである。

なぜ、「無限」の観念が「私」の内にあるのかについて「私」は知らないまま、現にありありとその無観念が「私」の内に見て取られる。つまり「無限」の観念に関して、その起源の問題は「私」には理解不可能なのである。もしかしたら次の瞬間にはもはや「私」は「存在」しないかもしれないにもかかわらず。なぜか今この瞬間において私は確かに「私」は「存在」している。つまり、「私」の「存在」に関して、その原因の問題は「私」には理解不可能なのである。いずれの場合にも示されているのは、その時もはや理性が有効には機能しない外部に理性が曝されていることが当の理性にはっきり告げられているという事態であり、それ以外ではない。これは決して理性が外部の存在を明証性をもって確信しているということではない。「外部が存在することは確かだ」と言っているわけではないのだ。もはや外部に関してのそのような確言は不可能なのであり、この不可能性の内に理性は宙吊りにされたままなのである。これがすなわち、デカルトがア・ポステリオリな証明において行ったことなのである。それは理性の内部で行われる何らかの「証明」ではもはやありえず、図らずも理性をそれとは別の次元に連れ出してしまう営みだったのだ。そしてまさにその時、彼は「思考すること」を「感ずること」とあらためて呼びなおしたのである。しかし理性は、自らを、その外部に曝すことになるこの営みを、己の全力を傾けて遂行したのだ。

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