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2014年9月16日 (火)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(1)

序章 哲学とは何か

1.死んだものとの対話

本書で私が皆さんに示してみたいのは、デカルトと私が交わしたある対話の記録である。対話は、生きた人間同士の間で成り立つこともありはするが、その本質においてはむしろ死んだ者との間にこそ成り立つ。いや正確には死んだ者との間にしか成り立たない。どういうことかことは哲学の思考の本質に関わる。

対話とは、あなたと私の間で何事かをめぐって、何事かについて、交わされるはずである。対話とはある主題をめぐって、あなたと私の間で交わされる。つまり、主題のない対話はありない。これに対して主題はどうでもよくて、ただおしゃべりが続くことが肝心であるような対話もあるが、これは本質的に挨拶なのである。対話は必ず「何か」をめぐってのものであり、対話には必ず主題がある。これはすなわち対話の主役は今や主題のほうであって、私でもあなたでもない。そして主題とは、何らかの仕方で「たかち」あるものとして具体化されて、あなたと私の前に姿を現したもの以外ではないであろう。対話において主題を形成するものの媒体は、色や形や音響や味わいや手触りや…と様々なものでありうる。そして私とデカルト、あるいは読者であるあなたと私との間で交わされる対話の媒体は、言うまでもなく言語である。

もうひとつはっきりさせておきたいことがある。主題を構成する媒体が何であれ、主題はそれがひとたび構成されたときには、それを構成する者から原理的に切り離されたものだ、という点である。だからこそ話者であるあなたや私は、自分が間違ったことを言ってしまったことや、言いたいことがうまく表現されていないことに気づくことができるのである。自分の言ったことが主題として「かたち」を備えて目の前にあるから、すなわち自分自身と切り離されて自分の前に具体化されているから、それが自分の言いたいことであるか否かを判定できるのだ。いやそもそも私は、自分から切り離されて具体化され、「かたち」を備えて目の前にある主題を通してはじめて、自分が何を語ろうとしたのかを知るのである。それ以前にあるのは、主題を「かたち」づくることへ向けてのある漠とした衝動のごときものにすぎない。主題を「かたち」づくるこの働きが紛れもなく「生き生きと」活動するものであることと対比すれば、主題として「かたち」づくられたものの方は、その活動からその都度切り離されたものとして本質的に「死」を中核に宿している。主題の誕生と話者の死は表裏一体なのだ。しばしば私たちは対話の現場から遠ざかった後で、ようやくそこで何が語られていたかを理解し始めないだろうか。そして実は、私から切り離されることで主題として産み出された「かたち」を通してはじめて私は、自分がそのような「かたち」を産み出すそれ自身は「たかち」なきもの、すなわち「生」であることを知るのだ。主題を「かたち」づくる者の「死」が、主題の誕生なのだ。対話は主題なしには成り立たないのだから、それは話者の「死」をもってはじめてその準備を整えたのである。

だが以上はいまだ対話の半面でしかない。何らかのものとして死んだ主題は、それを再び、いやはじめてみずからの前に見て取る(聴き取る)生き生きとした働きの前に姿を現すことをもって対話の空間を開く。主題はいつもこのようにして「復活」するのである。「復活」によってすべては始まる。この主題を見て取る働きは当の主題の作者とは原理的に独立である。したがって、対話とは決して主題の作り手との対話ではない。対話はあくまでもその主題をめぐって、当の主題がいかに聴き取られ、いかにしてさらに展開されるべきかを基軸にして、主題とその受け手にして問いかけ手との間で進行して行くのだ。「方法序説」や「省察」も、ある作り手が産み出した主題とデカルトが交わした対話の記録に他ならないのだ。したがってこれから本書が皆さんに提示する対話も、私と、もはやこの世にいないデカルトが、ある主題を介して対話するのではない。あくまで対話は「死んだもの」である主題をめぐって、それとの間で進行するのである。

有意味な対話はすべて、その主題の作り手の生から切り離された「死せるもの」のもとでのみ成り立つ。通常私たちが「誰それ」との対話と呼んでいるものの内実は、実はこのようなものなのだ。「誰それ」とは、あくまで主題としておのれを「かたち」あるものへともたらしたかぎりのもの、すなわち「死んだもの=者」でしかない。対話とはすべて、死者の骸との対話なのだ。

このように言うと、それは対話と呼べるような代物ではない、骸を前にした単なる独り言にすぎない、という反論が聞こえてきそうである。だが、骸を前にした独り言が常に同時に、それ自身が死んで骸と化すことによって様々な受け手に別様に聴き取られる可能性に開かれること以外に、対話の、すなわち思考の存立の余地はない。何事かを思考するとは、まさに当の何事かをそのような「かたち」を備えた主題として構成し、そのようにして語りだされた「もの」、すなわち骸に耳を傾け、あらためてそれに問いかけること以外ではないからである。この意味で、思考は常に死を介した営みなのである。いったん「死」を迎え、ただちに聴き取られ、さらにその上文字として書き留められて私以外の他者たちに差し出された書物は、沈黙の内での独り言ですらすでに有していた対話の可能性を、はるかに多くの、無数といっていいほどの可能性へと増幅する。

デカルトほど哲学の本質がこのような対話であることを、みずからの哲学を通して明らかにしてくれた人も少ない。というのも、彼は徹底して思考がこうした対話に他ならないことを実践することで、ついにこうした思考の言葉が最終的にはいったいどこに向けて発せられるものなのかを示す地点にまで達したように思われるからである。このことを通してデカルトは、思考するとはいかなる営みなのかについて、ある光を投げかけてくれたのだ。

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