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2014年9月23日 (火)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(8)

2.「無限」ということ

何よりも方法的懐疑の極点に未だ思考は位置している事情を勘案した上で、なおも「ア・ポステリオリな証明」にみるべきものはあるか。最初にはっきり言えることは、<「私」に与えられている「神についての観念」が、その完全性のゆえに、不完全な「私」の内にその「起源」を持つことができず、したがって「私」の外部に「完全な」神が「存在」する>という議論は、もはや受け容れられないということである。ここにも、懐疑のこの地点では有効に機能しないある種の「因果律」がすでに設定されてしまっているからである。それにもかかわらず本書がこの証明に注目するのは、この証明に注目するのは、この証明に注目するのは、この証明の中心に位置していると言ってよい「無限」の観念には、必ずしも今見たような因果的思考に収まらない別の側面が顔をのぞかせているように思われるからであり、現にそこでのデカルトの思考はこの別の側面をはっきり記述しているからである。

デカルトが神の「無限性」に言及する時、そこで対比されているのは「私」の有限性であった。ところで、この有限性の内実を彼はどのようなものとして見て取っていただろうか。「私」とは「思うこと」そのことであった。つまり「私」は、「…と思われる」という仕方で姿を現わしうるもののすべてがその内に「潜在的に存在している」と言ってよい存在である。そして懐疑のこの段階における「存在」とは、それが「思われること」の端的な存立の内に含まれているかぎりでのみ成り立つものであった。逆に言えば、この「私」の内にいかなる仕方でも含まれていないもの、すなわち決して「…と思われる」という仕方で姿を現わすことのないものに関しては、もはや「存在」を云々する余地は全くないのである。この意味で「私」とは、およそ「存在」であるかぎりのすべてがそこに含まれている場所のごきものだった。したがってそれは、すべてであるかぎりで有限であるが、そのすべてが顕在化しているわけではないかぎりで際限がない、つまり<これで終わり>ということがない。現代の私たちは普通「世界」をそのようなものとして考えているのではないだろうか。それはどこまでいってもまだなお先があり、この意味で果てしがない。だが、何が起ころうともそれらはすべてであるかぎりでこの世界の中の出来事でしかありえないという意味では、世界それ自身は閉じた・一個の全体である。すなわちこの意味で有限なものである。このようなものとして私たちはこの現実を捉えていないだろうか。手駆るとはそれを「私」と呼んだのである。つまり「私」とは、「無際限」であり、かつ「有限」なのである。「私」の有限性の内実はこうした「無際限性」なのである。

だが、このような仕方で「無際限」であることは、「無限」とは決定的に異なる。「無際限」なものはあくまで「有限」であるのに対して、「無限」が有限なものでないことは明らかだからである。そしてデカルトは、「私」=「世界」が潜在性を伴った「無際限」なものでありながらなおかつ「有限」であることの認識が紛れもなくこの「私」において成立していることを語るその時に、そのような「有限性」と鋭い対比をなす神の「無限」に触れるのである。つまり、「私」が「無際限」かつ「有限」であることをはっきりと見て取る時、その認識は「完全」なものである「無限」が視野に入っているのでなければ可能であることをも、同時に見て取るのだ。「完全」なる「無限」と対比されたとき、「有限」な「私」はみずからの「不完全性」を知るのである。

ところが、このようにして「私」の有限性・不完全性の認識の視野に紛れもなく入ってきている「無限」に、「私」はいったいどのようにして接することができたのか。有限な「私」の内に与えられている「無限」の観念とは、どのような観念なのか。かれは、「私」という「思うこと」の内にある「思われたもの」である観念を、作為観念・外来観念・本有観念の三つに分類していたが、「無限」は本有観念であるという。なぜならそれは、物体的事物に関わる外来観念のように経験を通してあるときには「私」に到来し、またある時には到来しないというものではなく、そもそもはじめから「私の」内に在るからである。つまり「無限」なる神は、ある時「私」がそれに出会ったり、また出会わなかったりするような存在ではなく、「私」が「存在」する時、いつも常にその内に観念として自らを与えている、というのである。だが言うまでもなくそれは、「私」という観念が「私」自身にとって本有的であるのと同じ仕方で、本有的であるのではない。「私」の観念が確かに当の「私」の内にその「起源」を持っているのに対して、「無限」の有限な「私」の内にありえないからである。そうした「無限」についての観念は、「私」の内にあるその観念が、つねにそれが指し示すものによって破られ・はみ出されてしまう仕方ではじめから「私」の内にある、つまり有限な「私」といつも共に在るのだ。ここに、本有観念でありながらその「起源」を「私」の内に見出すことのできない「無限」観念の特異性がある。

この特異性をデカルトは次のように特徴付ける。すなわち、通常の観念はそれが作為観念であれ外来観念であれ、あるいは本有観念であれ、いずれもそれを有する「私」によって「包摂」されるという仕方で「理解」されているのに対して、「無限」観念はそのような仕方では「理解」されないというのである。ところが「無限」は、有限な「私」をはみ出し・凌駕してしまうものであるがゆえに、「私」の内にあるそれについての観念を介しても決して「私」の内に包摂され=理解されることがない。ではそのような「無限」に「私」はどのように接するのか。デカルトそれを。文字通り「触れる」と表現する。その「起源」が「私」の内には決して見出されない「無限」に「私」は、当の「私」の内にはじめから与えられている観念を介して「触れる」ことができるのみなのである。「私」という「思うこと」が有限なものであることは、あたかも何かの痕跡のように当の「思うこと」の内に残されている本有観念を介して、いかにもその「私」の内部に回収・消化できない外部に「触れる」ことで知られると言ってもよい。ここでデカルトが、観念を介して「無限」という「私」の外部に「触れる」その仕方に関して、もはや何も語っていないことに注意しよう。彼は、「それがどのような仕方であれ何らかの仕方で」と述べているのである。「私」は「無限」について、これ以上述べることができないのだ。

わずかに「触れる」という仕方でしかそれにまみえることのできない「無限」が、それにもかかわらず「私」という「思うこと」の内なる観念として与えられていることを今や「私」は「絶対に疑いえない」ほど明晰・判明に見て取る、と彼は言っているのである。この時点での彼のこの発言は、「無限」についての「思われ」を、それが「思われたもの」であるかぎりで保持したものとみなすことができる。つまり、「私」という「思うこと」を一個の全体として「絶対に疑いえない」唯一のものとみなした懐疑の頂点でのあの発言と全く同じ次元で、そのような発言がもし可能であったのであれば実はすでにそうした発言の視野に入っていたはずの「無限」を、あらためてここで彼は確認しているのである。「思うこと」がすべてを内に内包する一個の完結した全体として与えられているのであれば、そのような全体の全体としての定立は、それとの鋭い対比をなす「無限」が当の「思うこと」の外部に広がっていたのでなければならないのであり、その外部の痕跡が「無限」についての観念なのである。

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