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2014年9月28日 (日)

ヴァロットン展─冷たい炎の画家(2)

1.線の純粋さと理想主義

Vallootnself20「20歳の自画像」という作品です。展示室で最初に目に入るのが、この作品だったのですが、実は、私には出会い頭ということもあったのでしょうか、この作品の印象が一番強く残ることになってしまいました。その印象は上手いということで、もとより、私は自分で絵筆をとって描くことはしないで、もっぱら見るだけの人なので、描く際の巧拙は具体的には分かりません。しかし、出来上がりの完成度の高さとか、全体のバランスのきちっと整っていること、そして、これが一番大きな要素だったのですが、デッサンが完璧といいたいほど上手い印象を与えていたということでした。まるで古典を見ているような感じを与えるものでした。かといって、それがこじんまりとまとまってしまっているのではなくて、その真に迫ったような描写が迫力をもって見る側に訴えかけてくるところもある、生き生きとしたものでした。だから、この展覧会のサブタイトルの“冷たい炎の画家”というのと何やらそぐわない感想を持ったのも事実です。

Vallootnflixそれが2年後の「帽子を持つフェリックス・ヤシンスキ」になると完璧だったバランスが崩れていきます。まず、顔の左右のバランスが崩れて古典的な均衡からくる整った感じがなくなり違和感が生まれ、写実的という感じがしなくなってきています。しかし、ここにあるのはモデルこそ描かれた当時の同時代の姿をしていますが、その体裁は数百年昔の、ルネサンスのころの昔の構図のような枠に無理に当て嵌めていて、そこに写真の対比が感じるような現代的な写実との間に生まれるわずかな齟齬をあえて感じさせるように描いているように、私には感じられました。いうなれば、そのような違和感を見るものに湧き起こさせることをヴァロットンが操作して意識的にやろうとしているように、わたしには感じられました。

その10年後に制作された「タデ・ナタンソン」という作品では、人物の顔と身体と、そして背景がちぐはぐです。しかし、全体の構成としては、中世からルネサンスのころの古典的な肖像画の体裁に収まってしまっています。だから、なんとなく違和感を感じるのだけれど、それが全面的に露になってはこないで、仄めかすようにして、見る人は、どこか違うと感じつつも、その原因がどこにあるのか、はたして変なのかはっきりしないという宙ぶらりんの感じを作品から受け取ることになります。

Vallootntade_2多分、私の個人的な感想でしょうけれど、ヴァロットンは意図的にこのような画面を作っているように思えてなりません。最初の「20歳の自画像」の完成度の高い作品は、その後の見る者に違和感を感じさせるためには、その前にまったく違和感の生ずる余地の無いものを作っておく必要があったから制作したとも勘繰りたくなるような作品です。非常識をするためには常識を弁えていなければならない、とでもいいたげなようなのです。私には、そこのズレの絶妙さがヴァロットンの作品の生命線といえるのではないかと思えました。

しかし、ヴァロットンはなぜ、このような変なことを、わざわざ手間をかけてまで行ったのでしょうか。そこに、私にはヴァロットンという画家の特異性があるように思えてなりません。彼が活動を開始したころのパリの画壇は、アカデミーの画家がいる一方で印象派の画家たちが活躍していたと思われます。印象派の画家たちは、光とか色彩を重視して描こうとしていたし、その中で模索していたセザンヌはこのころから独自に存在を画面に定着させようとユニークな作品を描き始めていた、そういう時期だったと思います。そのような動きは実は多彩で十把一絡げにしてしまうのは乱暴だと言われそうですが、そこをあえて強引に言うと、これらの動きは総じて、目の前に真実があるということになんら疑いをもたずに、それをいかにキャンバスに写すかということで様々な試みをしていたと言えるものです。ところが、目の間にあるものが真実なのか、あるいは、今目の前にあるように見えるのが、本当に存在するのか、それに疑いをもってしまったら、そういう試みはすべて意味を為さなくなります。しかし、それを正面から否定しまえば、それは逆に目の前には偽があるということで、結局同じ穴の狢ということになってしまいます。それは、例えば幻想世界とか精神世界を描くような象徴主義の絵画がそういう世界観に近いものだったと思います。その中で、真実に疑いを持ち続けるためには、全面否定への誘惑に負けず、それに対してシニカルに接していくほかありません。一種のアイロニーの姿勢です。それを、ヴァロットンという人は、現実に対して、どこかシニカルに接し、現実の綻びを執拗に見つけ出し、仄めかすという戦略で作品を制作し続けたのではないか、と私には思えました。

Vallootnrestヴァロットン本人は感覚として、そういう違和感を持ち続けた人だったのではないか。その感覚が絵を描くことによって、当初は本人ですら気がつかなかったのが、描く作品に表れてしまったのを、本人が後から気づくことで、絵を描くことによってヴァロットン自身もその感覚を研ぎ澄ましていったのではないか、と私は想像します。つまり、ヴァロットンにとって絵を描くという作業は、現実世界の存在とか真実に対する違和感を察知し、その感覚を育てていくものだったのではないかと思われるのです。

Vallootnbirthヴァロットンの肖像画は、そういう画家が自身の感覚を自覚し、それを制作に反映させていく軌跡がよく表われているように思えます。それは、対象との距離感の変化で、時代が下るにつれて対象との距離感がだんだんと開いていって、「タデ・ナタンソン」では、対象を突き放すかのように、人間的な感情とか息吹が感じられなくなり、マネキン人形のようになっていきました。

そのように冷たい人物表現が端的に感じられたのが女性ヌードを題材とした作品です。正直に申せば、官能性を感じることがまったく無いのです。「休息」という作品に描かれた女性は、美人の範疇に入るでしょうし、肢体も豊満で、扇情的なポーズをとっていますが、生々しさとか肉感性がないのです。マネキン人形を見ているようなのです。これは、女性の顔に個性がなく、ポーズの顔の位置と大きさの不自然さに目が行ってしまうのです。「トルコ風呂」は大作で、オーギュスト・アングルの「トルコ風呂」の影響を受けたと解説されていましたが、両者を見た限りでは似た感じはしません。ただ、アングルの描く裸婦は絵画上の見栄えのために現実では不可能なような無理なポーズになっていることがあって、描かれるものよりも描いたものを優先するところがあり、その姿勢をヴァロットンが範としたのかもしれないと思いました。Vallootnang


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