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2014年9月21日 (日)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(6)

「思考されるもの」なしに「思考すること」は成り立たない。この点は動かないだろう。「思考する」とは何かを思考することなのだから。そしてその何かとは、「思考されるもの」以外ではありえないのだから。だが、「思考すること」にとって「思考するもの」は不可欠だろうか。「思考するもの」は、それが「もの」として像化されている以上、すでに「思考されるもの」(思考の主題、図)なのであって、その時今や「思考されるもの」となった「思考するもの」(図となった「思考するもの」)と対になっているのは、あくきでもその「地」として「見えない」ままにとどまっている「思考すること」なのではないか。「思考するもの」について何かを言いうるためには、それはすでに「思考されるもの」(図)でなければならないのだから、絶対に疑い得ない究極の事態とは、<「志向すること」の下にそのメンバー・構成員としての「思考されるもの」と「(それを)思考するもの」が対になる>ことではなく、<「思考すること」と「(そこにおいて)思考されるもの」の対>ではないか。そしてこの後者の事態においては、「思考すること」は「思考されるもの」を主題(図)として浮かび上がらせる地としてあくまで「見えない」のだから、方法的懐疑の極点において「見えるもの」として残っているのは「思考されたもの」のみなのである。

だがその「見えるもの」は、それが図としてそこにおいて浮かび上がる地として「見えるもの」を支え、「見えるもの」にその存立の場所を提供する「思考すること」なしにはありえないのであり、このような仕方で「見えるもの」としての「思考されるもの」を包摂している「思考すること」こそが究極のものとされたのである。唯一の「見えるもの」である「思考されるもの」がそのようなもの(「思考されるもの」)でありうるのは、あくまでそれが「思考」すなわち「考えること=思考すること」の圏内にある時のみなのだから、「思考すること」こそがすべてを包摂する究極のものなのだ。

このように捉えることができるとすれば、「思考するもの」はあくまで「思考されるもの」の一種であって<「思考する」ためにはそれを「思考するもの」がなければならない>というある種の要請にしたがってはじめて登場するものであり、決して方法的懐疑の最終的な地点に残るものではない。

それ自身が「見えること」そのことであるような何か、それ自身が「思考すること」そのことであるような事態、それをデカルトはあらためて「私」と呼んだのではないか。それは決して、「見えるもの」「思考されるもの」の外部にあってそれを「見て取る」「思考する」それ自身も一個の「もの」であるような誰かのことではない。これが「私」とは「思考すること」そのことだ、というデカルトの奇妙な命題が言い当てようとしていた事態なのである。

では、このようなある種の事態にデカルトが「私」という名を与えたのはいかなる理由によるのだろうか。私たちはここで、ある作用ないし動きの遂行者としての「私」と、そのような作用ないし働きそのもの(遂行することそのこと)であるような「私」を厳密に区別した。前者においては「遂行すること」それを「遂行するもの」は別ものだが、後者においては「遂行すること」と「私であること」とは完全に重なり合っており、区別がつかない。「遂行すること」と「私」とはまったく同じことなのである。そしてこの後者の事態にこそデカルトは「私」の名を与えたのだとすれば、それは「遂行すること」の端的さの表現であることを措いて他には考えられない。先に私たちが厳密に言い直したその限りにおける「いま・ここ」での端的さである。世界内部の特定の時刻や場所としての今やここがそれを通して・そこにおいてはじめてそのような規定を受け取ることになる、あの端的さである。私たちが日常用いる「私」という言葉を、単に世界内の一人物という意味ではなく、当人という意味でのある種の直接性ないし臨在性・磁場感を含んだものとして考える。ここでは、この直接性や臨在性を、<誰か(という人物)が何か(という「もの=対象」や「事態」)に居合わせている・じかに接している>という意味から解放して、改めて用いるのである。さらには、「私」という実体(主語)─すなわち、それ自体で存在する「もの」─に何らかの「属性」(述語)─たとえば何らかの作用や働き─を帰属させることをやめさせるのである。したがってこの意味での「私」に関しては、もはや「私はデカルトである」とか「私は思考する」という言い方は成り立たない。それどころか「私は存在する」という言い方すら、普通にかいすればそれは「私」という主語(実体としての「もの」)にその属性(性質)として「存在する」という述語を帰属させること以外ではないのだから、ここでの「私」には使えない用法である疑いが濃厚なのである。こうしたことが、あの最終命題にあらわれた「私」や「存在する」、それらの彼自身による言い換えである「思考すること」や「感ずること」が挙げて言わんとしていることではないか。それは私という「思考するもの」が「存在する」ことでもなければ、「思考すること」「感ずること」という事態がどこかに「ある」と言っているのですらない。そうではなくて、「私」や「存在する」や「思考する」や「感ずる」はすべて同じひとつのことを言い表そうとしているのであり、それらの言葉の共通の源泉を指し示しているのである。

このこと関連して、方法的懐疑の終着点において出会ったものに彼は「私」「ある」「思考すること」「感ずること」という名を与え、その端的さこそ「絶対に疑いえない」と論じた。例えば「1+1=2であると私には思われること」は、かりら1+1が実は2ではないとしても、そのように思われている限り端的に存立しており、この存立を疑う余地はもはやどこにもないということである。「思考すること」は、「私には…と思われること」にほかならない。だが、このときの「私には」という部分に現れる「私」は、普通にそれを解すれば「…」(たとえば1+1=2)という「思われるもの」をそのように思っている「私」、すなわち「思う者」としての私以外ではないであろうから、デカルトが「思考すること」そのことと等置した「私」ではない。したがって、「思考すること」とは「…と思われること」に等しい。「私」とは「…と思われること」の端的な存立のことなのである。

ここで考えてみたいのは、そのような「私」すなわち「…と思われること」はデカルトの言うように本当に「絶対に疑い得ない」のだろうか、ということである。いま彼が立っているこの地点は、方法的懐疑が夢と狂気の想定を経て、もはやこれ以上高まることのできないほどにその強度を高めている地点である。ここでは、私たちの理性がその根本から欺かれている可能性が想定されている。そうであれば、「…と思われること」そのこともはたして無傷でいられるだろうか。「…と思うこと」すなわち「思考」こそ理性そのものではないのか。その理性が今や根本から欺かれているのかもしれないのだとすれば、「思われること」そのことが実は「思われること」でも何でもなく、何かまったく別のものである可能性が成り立ってしまうのではないか。それが「欺かれる」ということではないのか。もしそうだとすれば、「思われること」すなわち思考そのものも欺かれている可能性があるのであって、もはや「…と思われること」のみが唯一「絶対に疑いえない」とは言えなくなってしまうはずである。「欺く神」の利機能を持ってすれば、「思うこと」すなわち思考のいわば文法を破壊することも可能ではないのか。

デカルトの極限まで誇張された「並外れた懐疑」は、このような事態までをその射程に収めてしまったのではないか。そうだすれば彼はその懐疑の極点で、もはや「絶対に疑い得ない」ということ云々することのできない次元に「思われ」が晒されてしまうような地点に立っていたことになる。だが、私たちにとってはすべてがこの「思われ」の中でしか姿をあらわさないこともまた、確かである。「思われ」の外部が「ある」と言ってはならない。「ある」と言えるのであれば、それはすでに何らかの理解可能なものなのであり、実は「思われ」の内部なのである。したがって「思われ」の外部など「ない」と言わねばならない。言うまでもなく「ない」も有意味なもの・理解可能なものであり、かくしてすべては「思われ」なのである。その時にのみ「思われ」は、自らが破壊されている可能性に直面したことになるのだ。デカルトは図らずもこのような地点に立ってしまったのではないか。

その時「思われ」は、すべてがそこにおいてのみ姿をあらわす「世界の母胎」、この意味での「世界の起源」であり続けたまま、もはや「絶対に疑いえない」岩盤ではないのである。「思われ」は、そのような思われとして姿を現わしているまさにそのままで、何か分からぬ全く別のものであるかもしれず、あるいはひょっとしてそもそも何ものでもないのかもしれないのである。そしてこの想定もまた「絶対に疑いえない」とは言えないのであり、このように言う言明もまた然り…以下同様なのである。ここが方法的懐疑の果てにデカルトが立った地点なのだ。

この時には、もはや何かの「ありのままの姿」としての「真理」という考え方も機能しなくなっている。当初よりデカルトの念頭にあったと思われる「真理」の建築術としての思考は、今や磐石の土台としての「絶対に疑いえない」ものが宙に浮いたままである以上、もはや有効に機能しないのである。だが彼が思考を放棄したわけではないこともまた、忘れてはならない。むしろ彼はここで「真理」の建築術としての思考から、何ものかが「思われ」において姿を現わし、その限りで常に「思われ」のありえない外部に接してしまうような、つまりは思考の限界に立ち尽くす思考へと、自ら変貌したのである。

いったいのこの思考の言葉は、どこに向けられているのであろうか。みずからに言い聞かせる言葉のようにも、無の深淵に捧げられた言葉のように響くこの言葉は、むしろ祈りの言葉に似ていないだろうか。

「われ思う」のは誰か。この問いを普通の意味で解すれば、それは言うまでもなくその都度の私である。つまり、デカルトであったり、あなたであったりする私である。だがデカルトが「私」の名で呼んだものは、そのような私ではなかった。それは「思うこと」そのことと完全に重なり合い、等しいような「私」であった。それは「思うこと」の遂行者のことではなかったのである。そして「誰か」と問う問いが「思う」という行いを遂行する人物を問う問いでしかない以上、デカルトにおいてこの問いに答えることはないのである。

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