ヴァロットン展─冷たい炎の画家(1)
未だ梅雨明けには至らないものの、梅雨末期のめりはりのある一方の極、ということで真夏を先取りしたような猛暑となった日、都心でのセミナーのあと金曜日は美術館も時間延長しているのだろうと、東京駅近くという場所がらのせいもあり、寄ってきました。
このヴァロットンという画家のことは、私は知りませんでした。ただ、展覧会のパンフレットの絵がどこか変な感じがするのと“冷たい炎の画家”というキャプションに興味を持ったので、行ってみました。今回の展覧会は、このヴァロットンという画家を紹介するということが主な趣旨であると思うので、その切り口とか、そういうことはあまり考えないで、どのような絵を描いているのか、それをまず見るということなのでしょう。それで、主催者の挨拶も画家の概要をかいつまんで紹介するという体のもので、以下に引用します。
“ヴァロットンの名は未だに一般の人々には広く知られていませんし、パリでもこの数十年の間、この画家についての重要な展覧会は開催されていません。今こそこの忘却が埋め合わされる時です。1865年にスイス、ローザンヌに生まれ、1925年にパリで没したヴァロットンは、二つの国の間で、世紀を跨いで活動した画家です。ヴァロットンは、ボナール、ヴュイヤールやドニとともに活動し、同時代のポスト印象主義画家であるゴーガン、ゴッホ、セザンヌ、さらにフォヴィスムキュビスムの芸術家たちとも交流を深めました。しかし、唯一参加した芸術家集団「ナビ派」でも「外国人のナビ」と呼ばれたように、前衛芸術の渦中にいながらも独自の道を辿りました。この風変わりな画家の様式は、滑らかで冷ややかな外観が特徴です。洗練された色彩表現、モティーフを浮かび上がらせる鋭い視線、大胆なフレーミング、日本の浮世絵や写真に着想を得た平坦な面を有しています。ヴァロットンは、欲望と禁欲の間の葛藤を強迫観念的な正確さで描き、男女間の果てなき諍いに神話的なスケールを与えています。その鋭い観察眼に裏打ちされた繊細さによって、気が滅入る程の凡庸さを脱し、謎めいた力強さを表現しました。ヴァロットンが描く風変わりなイメージは、その率直さと情熱、そして知性によって今日も我々を魅了してやみません。”
と、これだけでは、どんな絵を描いていたか分かりませんね。一応、ウィキペディアとか新聞の死亡記事に載っているような概要にはなっているので、その程度でいいかもというところです。主催者による紹介が、このように力が入っていないで揚げ足を取られないようにしているような無気力さに溢れているものだったので、最初、少し後悔しました。でも、この最初の落胆ほど展示されていた作品は、まあまあ見ることができた、というものでした。たとえば、展覧会パンフレットのもうひとつの作品、裸婦像を見てみましょう。身をくねらせて扇情的なポーズをとっていて、一応それらしく見えるように描かれていますが、官能性とか肉感のようなものは微塵も感じられないものになっています。かといって、色彩とか敬称とか量感とか何かを抽出して美とか真実とかを主張しようというものでもない。まったく時代が違いますが、私はこれを見ていて似ていると思い出したのは、ルネ・マグリットの作品でした。シュルレアリスムのマグリットとこのヴァロットンの間に美術史上の接点は多分ないのでしょうけれど、人物を写生的に描いているようで、その人物にリアリティがなく、ペッチャンコでノッペリしているところに共通のものを感じます。それは、人物を描くということは目的ではなく、ひとつの手段であるかのようなのです。実際には、そこに描かれた人物に何らかの細工が加えられ、それによってあるものを伝えようとか、ある雰囲気を作り出そうとか、そういうものになっている。とくに、ヴァロットンにしてもマグリットにしても、センスとかウィットとか皮肉のようなことが画面に加えられる作為の根底にあって、それが隠された趣意ともいえるもので、そのためには人物を描くにしてもリアルでないほうがいい、リアルであれば存在感に作為が負けてしまって、隠れた趣旨が伝わらなくなる。その反面、画面での描写手法では過激なことをやってしまうと、そこに見るものの注意が集中してしまって、これも隠された趣意を汲み取ってもらえない。そこで、一見すると、現代でいうイラストのような見易い描き方を意図して採っている、という印象です。だか、あくまでも主流になれないで、主流に対して傍流にいて主流に対して皮肉な視線を送るという位置にいるべき作品という気がします。歴史に残る傑作などというのとは無縁な、時流のなかで皮肉とウイットで分かる人がニヤッとする、そういった類の画家ではなかったのか、それだけに、同時代の一部の好事家から支持されるというような位置づけで、むしろ、パブリックなミュージアムで回顧展などとご大層なこととは本来向いていない、そういう意味では浮世絵の画家たちとも通じるところがある、そういう印象です。だから、この画家には、作品を見て、分かる人がニヤッと唇の片端をニヤけてみせるというのが最大の賛辞なのではないか、と思わせるのではないかと思います。とはいっても、私には、そういう意味で展示されていた作品について、ニヤッと笑えるほど分かった作品は多くありませんでした。また、そのニヤの内実を説明するのは野暮の骨頂になりますが、それをあえてしようというのが、ここで私が今までやってきていることなので、これから具体的な作品をみていこうと思います。
展示は次のように章立てされていましたので、それに従って見ていきたいと思います。
1.線の純粋さと理想主義
2.平坦な空間表現
3.抑圧と嘘
4.黒い染みが生む悲痛な激しさ
5.冷たいエロティシズム
6.マティエールの豊かさ
7.神話と戦争
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お久しぶりでございますm(_@_)m
ヴァロットン展は、ちょっと前にNHKなんぞでPRしてました。
一度見てみたいなぁ~と思ってたんですが、
東京だけのようで、がっかりしています。
「冷たい」というのが売りのようですが、私には冷たいようには見えんのです(^^;)
奥深い所で恐ろしく黒く熱い物が、蠢いている、、、そんな気持ちがします。
CZTさんの、熱い論説を見させて頂きますね(^^)
投稿: 猫スキー | 2014年9月28日 (日) 19時58分
猫スキーさん。コメントありがとうございました。
あれ?東京だけだったんですか。
ヴァロットン展については、あと7回になると思いますが、猫スキーさんのリクエストにお応えできるか。ただ、私も、ヴァロットンは「冷たい」の表面的なことのように思えました。
投稿: CZT | 2014年9月28日 (日) 21時06分