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2014年9月 7日 (日)

ジャン・フォートリオ展(4)

Fautriernature第2章 厚塗りから「人質」へ(1938~1945年)~厚塗り

『飾り皿の梨』あるいは『梨と葡萄のある静物』という作品。画像で見る限りでは、以前の「黒の時代」の黒を主調とした作品の一環のように見えます。これら1938年頃の作品は、キャンバスに描くのではなく、紙に描いたものです。それはあらかじめ複数の画材で地塗り塗料を施した紙を、木枠に張ったキャンバスに貼り付ける、という面倒な作業によるものでした。

少しばかりの脱線を、お許しください。今回は、一つ一つの作品の印象についてあまり述べることがなく、作品を見て考えたことを書き連ねているようになってしまっています。これも、フォートリエの作品が、それを見たものに喚起させる特徴というようなことで、間接的な作品の感想と思っていただければ、ありがたいのですが。さて、黒の時代から徐々に写実的な傾向から離れていくフォートリエについて、前回は私なりの印象を述べましたが、それはあくまでも、ひとつの方向からの見方で、それ以外にも様々な見方があるのは、ご承知のことと思います。例えば“フォートリエが描く主題は、それが飲み込もうとするかのような暗い地に沈みつつ、かろうじてそこから現われている。それはときに主題を守るかのように明るい輝きの中でとぐろを巻いており、またときにはそうした地に抗うために発光さえしているかのような、色のついたまばゆい輝きを放っている”というような夢想的であったり、色彩面に着目したりした見方があります。また、当時の展覧会を見た記者の評に“暗くてバティックな芸術”というのもあったそうです。つまるところ、フォートリエの作品は様々な議論を引き起こす、多様性があるだと思います。その中で、フォートリエをアンフォルメルという運動の中核に位置づける人々もいるようですが、そういう人々には、フォートリエが1928年から29年にかけてコート・ダジュール地方のイエール諸島にあるポール・クロに滞在して、描かれたものは重要なものとされているということです。フォートリエは、そこでグワッシュや厚紙にパステルで小さなデッサンを描くうちに、それが何か分かるような形象を失うという体験をしたといいます。それがアンフォルメルの最初ということになるということです。このとき、デッサンは単に作品の下書きにとどまらなくなっていきます。デッサンは作品のために予備的に線を引くという作業から、それ自体がイメージを喚起する生命力を持ったものとなり、そこに直接彩色を施し、さらに線が付け足されということが繰り返され、デッサンそのものが絵画になっていった、というわけです。

Fautrierappleさて、脱線から戻りましょう、フォートリエはデッサンをすることでイメージを喚起され、紙やグワッシュへのデッサンは彩色され、それがさらにイメージを喚起し、さらなるデッサンが加えられそこに再び彩色が、という作業の末に作品として出来上がってしまった、というのが、ここに展示されている『飾り皿の梨』であり『梨と葡萄のある静物』です。そこで、感じられるのは一種の手触りのようなものです。キャンバスと紙の材質の違いによる印象の違いということもあるかもしれませんが、もっと直接目に見えるものとして言葉にしにくいものです。画家の手触りが、よりダイレクトに伝わってくるような感じと言ったらいいかもしれません。それは、いままで下書きとして正式の作品の影に隠れてしまうものが、そのまま作品に成長して結実したということで、作品のスタートからゴールまでが見る者の前に全て提示されているということです。そこに画家の失敗も試行もすべてがプロセスをへて全て提示されているということになるわけです。つまりは、作品として完成した画面、完成時の時間の静止した画面ではなく、デッサンのときから見る者に提示されるまでのプロセス(時の経過)をなかに含み込んだ長い時間の流れも、そこに見ることの出来る画面となっていることです。そこに画家の息吹に直接的に触れることも出来るようになってきているのでは、と思わせるところがあると思います。

フォートリエの作品は、「本質」よりも「存在」を重視したものではないか、というのが私が感じた点です。そのことをさらに突き詰めて行くと、「存在」とはどういうことか、という議論に行き着くと思います。例えば、私が、いま、ここに、存在している、ということは、どういうことか。まるで哲学みたいです。あまり深刻に考えすぎると袋小路にはまってしまうので、簡単にのべます。「存在」というのは結果ではなくて、まさに、いま、ここに、いるということではないか、ということです。もっと簡単にいえば、結果としてこういう状態になったという静止状態ではなくて、いま、まさに存在しているという動作として考えられるということです。そうであれば時間が止まった静止状態としての完成としての作品では「存在」を十分に表わすことはできないのではないか。そうしたら、その時の、いま、を表わすことを考えることになります。具体的に一つの例として、制作という行為をしていて、その行為の一点を、そのときの、いま、の一瞬として提示するということができると思います。その具体例として、紙へのデッサンから始めたものを、そのまま、ある一瞬の時に瞬間冷凍するように、その、いま、も含めてキャンバスに貼り付け、提示した。そんなように私は受け取りました。もしかしたら、机上の空論、作品そのものから遊離した観念論かもしれません。

Fautrierapple2『林檎』あるいは『醸造用の林檎』という作品。「厚塗り」ということが為されています。画面を見れば分かると思いますが、絵の具か何かが分厚く塗られて、波打つように見えます。これは、上述の作品の発展形という見ることができるのではないか、と思います。つまり、デッサンに彩色を加えるプロセスでイメージを膨らませていくということに、厚塗りという段階が加わり、よりイメージ喚起が強まったということではないでしょうか。しかし、その一方、描かれる形象は、さらに曖昧に茫洋としたものになっていくことになりました。そのかわり、厚塗りしたものが物として画面に存在するということが目立つことになりました。

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