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2014年9月17日 (水)

斎藤慶典「デカルト~われ思うのは誰か」(2)

2.「よき生」のために

哲学がこのような仕方での絶えざる対話なのだとして、そうした哲学がデカルトにとってどのような意味を持っていたのか、彼をそのような対話に駆り立てたのは何だったのか、この対話を通して彼は何を目指していたのか。実際、彼ほど精力的に、自らの前におかれた「死んだもの」たちに、対話を試みた人も珍しい。そうした対話の果てに、ついに彼は自身が産み出した主題との粘り強い対話の内へと分け入ってゆくことになるのだ。『方法序説』は、そのような対話の数々を生き生きと伝えてくれている。

彼は、むさぼるようにして死者たちの亡骸と対話を重ねたが、そのような対話のいずれも、彼を真に満足させることはなかった。その結果、彼は「本当らしく見えるにすぎないものはいっさいほぼ偽ものときめこむ」しかないと考えるに至る。これこそ、後の「方法的懐疑」を導く準則にほかならない。その後の彼の歩み、何年にもわたって諸国を旅した後、ついに「私自身」という新たな書物の中に対話相手を求めて分け入っていくことで、固有のデカルト哲学の入り口に到達する。ここから前人未到の新たな旅が始まるのであり、この旅においてデカルトはひたすら自らの産み出した主題に、すなわち自らの骸との対話に沈潜していく。

この「私自身」という書物との対話に到達するまでの一連の対話を通して、いったい何を彼は学んだのだろうか。それは、すべてが「不確か」で「疑わしい」ことであった。彼は哲学の中に「何ひとつ論議の的にはならない、したがって疑わしくないものは見当たらない」ことに失望し、自らの対話に裏付けられた経験を通して「何ひとつうたがわしくないものはないこと」、すなわちすべてが「不確か」で「疑わしい」ままであることに驚いたのだ。この驚きが、次から次へと新たな対話を重ねるよう彼を衝き動かした。哲学は驚きに発する、とは古来の言である。つまり、すべてが「疑わしい」ことへの驚きが、彼をして彼固有の哲学へと押しやったのだ。このことを別の側面から眺めてみれば、デカルトは当初から何か「不確かなもの」、「絶対に疑いえない」ほどに堅固なものを求めていたということでもある。そうしたものが得られると期待して諸学に学んだにもかかわらず、いっこうにそうしたものに出会わないことが彼を驚かせたのだ。ではいったいなぜ、デカルトはそのように「確かなもの」を求めていたのだろうか。この問いに彼ははっきり答えている。それは「私の人生をよりよく導いてゆく」ため、なのである。「自分の行いを明らかに見通し、確信をもってこの人生をあるいてゆく」ためには、「どうしたら真なるものを偽なるものから見分けられるかを学び知る」ことがぜひとも必要であり、その「真なるもの」の真理たるゆえんがあの「絶対に疑いえない」という「確かさ」なのである。

彼のこうした考え方は、『方法序説』第三部に登場する「暫定道徳」の名で知られた提案にもよくあらわれている。自らの人生を導く絶対に確かなものが未だ見つからないとしても日々の生活は待ってくれない。否応なく日々の生活のその都度の場面で、私たちはどのように行為すべきかの決断を迫られる。そのような事態に対処するために、人生を導く絶対に確かなものが見出されるまでの間「暫定的に」、「仮に」でも私を導いてくれる指針が必要だと考えのである。例えば森の中で旅人が途を見失った場合、最悪の振舞は無定見にうろうろすることで、同じところをぐるぐる回って森から抜け出ることができず、状況は改善しえない。では、とりうる最善の方途とは、デカルトは、ある特定の方向を見定めて、後はわき目も振らずひたすらその方向を歩き続けることだという。ここでのデカルトの言い分から読み取れるのは、人生を導いてゆくに当たって、自分が納得できるしっかりした基準を彼が心底欲しているということである。必ずしもすべてが明らかになっていなくても、この場合であれば森の全体像は捉えられていなくても、それどころか歩むべき途すら見失われていても、「これだけは確かだ」といえるものを彼は絶えず追い求めていたし、現にその都度獲得してもいたのである。しかし彼の最終的な目標が、そのような暫定的なものでないことはいうまでもない。哲学者は、何が言葉の厳密な意味で「絶対に疑うことのできない」ものであるかを、すなわち何があらゆる疑いを撥ねつける究極の「真理」であるかを、明らかにしなければならない。それこそ彼が「極めて強い欲望」をもって探し求めていたものであり、それがために次々と、およそ可能な限りの対話を重ねもしたのである。

確認しよう。自らの人生とすべての学を支えるに足る何か「絶対に疑うことのできない」ものを発見すること、たとえすべてが疑わしいのだとしても、すべてが疑わしいというそのことだけは「確か」だと言いうる地点に到達すること、これこそがデカルトのすべての対話を駆り立てた原動力であり、そのような「絶対に疑い得ない」もののみが「真理」の名に値する。哲学とはこのような意味での真理の探究なのである。そしてこのような真理を求めて飽くことなく対話を積み重ねること、可能ならばそのような真理に支えられて自らの生を導くこと、それがよりよくいきること、すなわち「よき生」なのだ。かくして今や、次のように言ってよい。デカルト哲学の導きの糸は「真理」であり、かつそれに基づいた「よき生」なのである。

ここで二つのことに注目しておきたい。第一は、そのような「絶対に疑い得ない」ものが「真理」であるというそのことがデカルトにおいて「疑われた」形跡はない、ということである。哲学が追究すべき「真理」とは、あるいは現に追究している「真理」とは、いったいいかなるものなのか、すべてを根底から、徹底して疑ってみることこそ哲学を身をもって示したデカルトであってみれば、この問いをも彼は問うべきではなかったか。

第二に注目したいのは、そのような「真理」、つまりデカルトの生を絶対の確実性をもって支え・導いてくれるような「真理」を求め、それにしたがって生きることが「よりよい生」であるのはなぜか、という点である。自らの生を「絶対に疑い得ない」ものに支えられたて導いてゆくことが「よき生」であるというのは本当なのか。この点を彼があらためて問うた形跡もまた、ない。

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