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2014年9月30日 (火)

ヴァロットン展─冷たい炎の画家(4)

3.抑圧と嘘

ヴァロットンの作品が目の前に見えている現実の存在が、はたして真実そうなのかという懐疑が底流にあって、リアルにみえる写実的な表現を少しずつずらしていくことで、作品を見るものにちょっとした違和感をもたせることを意図的にやっていたように見えるということに結果としてなっていくことがある。しかし、現実の生活では、そのような懐疑を、たとえ抱いていたとしても、人というのは、人々の関係やら、その総体である社会やらの中で、真実であるということが常識となっているのであれば、それに従うことで社会生活を滞りなく行っている。それは、たとえ真実でなくても、あたかも真実であるかのように虚構的に振舞うことができる。絵画においても、真実らしく見えることで、たとえ描かれているのが真実でなくても、それは真実を描いていることになってしまう。そのようなズレを意識して、いわば作品のなかに虚構を持ち込むことを意図的にやろうとした。それが前回まで見てきたヴァロットンの作品でした。

Vallootnpokerここでは、そのような真実と虚構(うそ)のすり替えをするというのは人間ならではのことです。人間は嘘をつく存在である。真実かどうかを疑うなどということは、嘘ということが可能であるからです。疑うことを知らなければ、真実に疑いをさしはさむなどということは起こりえないことです。ということは、目の前にあるものが真実存在しているかという懐疑は、人が嘘をつくからこそ生まれるものだ。そんなことをヴァロットンがうだうだと考えていたとは、思えませんが、方向性としては虚構(みせかけ)の真実らしさということに行き着いたことから、その根源である人というものを描こうとしても、おかしくはないでしょう。

Vallootnpoker2「ポーカー」という作品です。ポーカーの卓を囲む人々は類型化され、表情を細かく描きこまれていません。しかし、ポーカーというゲームは相手に対して嘘をついて虚々実々の駆け引きを楽しむゲームです。ヴァロットンは古今の美術史上の作品をよく勉強していた人のようなので意識していたかも知れませんが、私には、バロック時代の画家ジョルジュ・ラ・トゥールの「いかさま師」という作品を想い出してしまいます。ラ・トゥールの場合にはカードの駆け引きでの人々の表情を風刺的に強調して描いていますが、ヴァロットンの場合はむしろその伝統を踏まえて、あえて人々を無表情に描くことによって、見るものの想像力を掻き立て、それとともにこの人々が無表情でいることで、表情の下に隠された水面下でのやりとり(嘘)が却って強調される、無表情に隠れているだけに嘘の執拗さが表されていると言えます。また、ラ・トゥールの作品のようにカードに興じる人々を中心にするのではなく、ヴァロットンはポーカーの卓を囲む人々を遠景にして、わざと遠ざけて、しかも部屋の奥の片隅に卑屈なほど押し込めてしまって、前景中央に意味を感じられない大きなテーブルをわざわざ描いていることで、そのようなことに対するヴァロットン自身の距離感を表しています。そのことは、実は真実に対する懐疑を抱いている自身は、おそらく嘘をつく人々に入っているはずなのに、その象徴であるポーカーに興ずる人々を距離感を作り出しているところに、この絵にあるヴァロットンの距離感というのか、彼自身のスタンスの微妙さ、自分自身を肯定できていないジレンマのようなものが画面に表われていると思います。

Vallootnshuzan「貞淑なシュザンヌ」という作品は、反対に人の表情を強調した作品です。3人の人物が画面にはいますが、うち2人は男性で作品を見る者に対して背を向けているため、見る者が表情を見ることのできるのは、こちらを向いている中央の女性だけです。シュザンヌというのは旧約聖書「ダニエル書」に登場する女性で、夫の留守の間に長老たちから貞操を汚されそうになり、拒絶したところ、逆に姦通の冤罪を帰せられたが、最後には無実が証明されるという人物です。そういう含みが作品タイトルにあって、それを先入観として作品をみると、俄然深みのある作品のように見えてきます。さきほど、ラ・トゥールの作品を参考として紹介しましたが、このラ・トゥールの作品の真ん中でいかさまをしている女性の表情の描き方は、このヴァロットンの描くシュザンヌとおぼしき女性とよく似ています。意味深な作品タイトルがなければ、そういう見方で見てしまうのです。そして、さらに人は表情というのは必ず他人に向けて送るものです。孤独でいる人は表情を作りません。だから表情作る人がいれば、それを受ける人がいてはじめて完成するのです。しかし、この作品では、女性が表情を浮かべていますが、それに向かって座っている二人の男性はあえて表情がうかがい知れないように描かれています。そのために女性の表情が宙ぶらりんになってしまっています。そのため、彼女の浮かべている表情があいまいで、どのようなことを表しているのか、作品を見る者の想像にませるようなことになっています。これは、嘘というのが、実は人と人との関係から嘘から出たまことではないですが、関係の中で決まってくるからです。だからこそ、本来であれば、この作品主人公で中心人物である女性が画面中心に描かれていてもいいはずなのに、わざと左側に寄ってしまって、右側は余白の空間を空けているのは、そこに想像の余地が大きいことをシンボライズしているのではないでしょうか。

この二つの作品の画面構成を見ていると、かつてのハリウッド映画の演出の空間構成とか動線の作り方とよく似たものを感じるのですが、時代から見て、映画のほうが後です。

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