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2014年10月 1日 (水)

ヴァロットン展─冷たい炎の画家(5)

5.冷たいエロティシズム

Vallootnnude2ここでは、ヴァロットンの描いた裸婦像を集めての展示です。ここでの裸婦像は、かつてのように神話や物語に借りた理想の美をあらわすものというものや、アングルらのオリエンタル趣味の舞台でヨーロッパの人間とは違うものとしてヌード画像を表わす、というものではありません。そのものずばりのストレートなヌード画像です。しかも、ヴァロットンのヌードは、室内で(ということは娼家)、描かれている女性は娼婦です。そのポーズはかなり扇情的に身をくねらせて、挑発的ですらあります。現代の男性雑誌のヌード・グラビアによく似ています。しかし、それが官能的とか、肉感的とか、そういう印象を見るものに抱かせるということはないと思います。いわゆるワイセツという感じははしません。もっとも、ワイセツかどうかというのは、かなり主観的な基準になるので、私だから感じなかったということもあるかもしれません。しかし、そういう場合には性的なリアリティーらしさ、生々しさのようなものがあってしかるべきですが、ヴァロットンの場合には、そういう要素がほとんど感じられません。ヴァロットンの場合は、女性ヌードを描いても、それが生身の女性というよりもマネキン人形のように見えてしまうのです。では、ヴァロットンは形態とか陰影とか色彩とかそういう要素にむしろ興味があって、そのためにヌードを描いたのか、というと、それもないようです。というのも、そういう場合であれば、不自然なほどに身体をくねらせた扇情的なポーズをとらせたり、形態を歪ませたりはしないはずです。また、ヌードの身体の肌の描き方が妙にツルツルな滑らかさで人の柔らかさからはほど遠いものにはしないはずです。

Vallootnmane「オウムと女性」という作品です。マネの「オダリスク」とよく似た作品です。もっとも、このような作品の女性のポーズはティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」以来のヌード画像の代表的なポーズです。これをマネは堂々と娼婦を、そのポーズで描くことで、発表当時にはスキャンダルになったといいます。それが、ヴァロットンの制作した1900年代初頭には、もう衝撃は薄れていたのでしょうか。「オランピア」で描かれているのは少女といってもいい女性であるのに対して、ヴァロットンの描いているのは成熟した女性です。しかし、どちらに肉体の生々しさを感じるかというとマネの方です。ヴァロットンの場合は身体には陰影が描き加えられているので、身体の凹凸は分かりますが、輪郭線がはっきりしていて書割のような感じで、しかも女性の身体の外側の輪郭のカーヴがベッドのシーツの皴と同じ形になっていて、いわば、女性の身体の線がシーツに波紋のように広がっているかのようです。このように様式化されてしまっています。まるで、これでワイセツに感じるなら感じてみろ、と挑発しているかのようです。

Vallootnnude「赤い絨毯に横たわる裸婦」という作品です。アングルの「グランド・ダリスク」を裏返しにしたようなポーズの女性です。窮屈なほどに腰をくねらせて、尻をこちらにむけさせて強調しているのは、アングルのポーズを真似たものではないかと思います。ヴァロットンの作品では、背景もなくただヌードの身体が画面中央にあるだけ、という構成としては抽象化されたものですが、その焦点の集まるヌードについては筆跡は粗く、塗りにはムラがあるように見えます。そして女性の顔はまるでデッサン学習のための角張った石膏の顔を写しているような柔らかさのない、それゆえ表情が見えないものとなっています。それだけに、生身の身体という感じがしないでいます。

Vallootnang2このようなヌード画像をヴァロットンは少なくない数を描いたようですが、そういう注文が多かったということなのでしょうか。何ゆえに、このようなものを多く描いたのでしょうか。ひとつ考えられるのは、他者、つまり作品を見るものをヴァロットンがあらためて認識したということなのではないか、と私は想像しています。というのも、ヴァロットンの作品には、目の前にあるものが、はたして真実存在しているのだろうかという懐疑が底流にあるのではないか、という印象を最初に述べました。それは、その後のヴァロットンの画業の展開に従って、その懐疑も展開するというストーリーを進めことができました。とはいっても、今まで述べてきたヴァロットンの懐疑というのは、あくまでも作品を制作しているヴァロットンが描く対象であるものにたいして感じていたことで、その枠を出るものではありませんでした。しかし、ヴァロットンが感じているのであれば、他にも同じように感じている人もいるはずです。それは、ヴァロットンも気づいていましたが、そう人が自分以外に存在するということを前提にして作品を制作するまでには至っていなかった、と言えます。あくまでもヴァロットンの認識の中でのことだったわけです。しかし、ここにきて、他者の存在、端的に言えば、ヴァロットンの作品を見る人が、ヴァロットンと似たような懐疑を抱いていたとすれば、彼の作品をストレートに鑑賞するなどということが果たしてできるのでしょうか。それに気づいた時に、ヴァロットンは、ヌードという意識下のレベルでストレートに反応しやすい題材をとりあげて、そこでリアルとのズレを意図的に生じさせる効果を生むような作品を提供したと考えられないでしょうか。その際に、過去の名作をパクるという一種のパロディという仕掛けを施すことによって、ズラしという仕掛けの跡をあからさまにして見せてしまう。そのことで、あえて言えば、作品を通してヴァロットンは懐疑の共有、とまではいかないまでも、ある種の共感を求める、ということを試みたのではないか。そこに、改めて他者としての作品を見る者の発見が、これらのヌード作品にはあったではないか、と私は独断と偏見で想像しています。

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